プロローグ
雨が降り注ぎ、雷の轟音が響いている、そんな日にあいつはやってきた。突然、何の前触れもなく、ここら辺一体を治める領主の館を訪れた。
全身が黒いマントで覆われ、顔はフードで隠れているためよく分からない。しかし、その清楚な佇まいや立ち居振る舞いから、高貴な身分の男性かと推測できる。屋敷の者は皆、当然彼を領主が招いた客かと思い、もてなそうとした。しかし、彼の姿を見た領主はなぜか顔色を悪くし、皆を追い払うと一人で彼の対応に当たった。その際、彼の3人の娘たちには自分の部屋に戻り、決して部屋を出るなと念を押し、心配そうに駆け寄った領主夫人にも同様のことを伝えた。
彼は、世間話などもせず、単刀直入に領主へ一つの要求をした。
「あの時の代償を支払ってもらう。時は来た。お前の娘を1人もらっていく」
彼は、あの時、と抽象的な表現をしたが、領主の方は心当たりがあるようで、顔色を青を通り越して白くした。
「お待ち下さい。あの時のことは本当に感謝しております。ですが、私の妻同様に娘たちも私の大切な宝物なんです。どうか、お金も、金銀財宝も、貴方様が望むものはなんでも与えますから、どうか、娘だけは」
「契約は契約だ。今更条件を変更することはできない。では、10日後に再びこの屋敷を訪れる。その時までに最後の別れを済ませておけ」
領主の必死の懇願も虚しく、彼は無慈悲に告げると、屋敷を後にした。
それから領主はまるで生きた心地がしないような日々を送った。日々の業務も疎かになり、幾晩も眠れない夜を過ごした。それでも家族には一切事情を話さなかった。
約束の日の前日の夜。食事も喉を通らず、あまりにやつれ果てた姿となった領主を心配した領主夫人は、彼から無理やり事情を聞き出すことにした。最初は頑なに口を閉ざしたが、時に酒を勧め、しつこく聞いた甲斐あってか、夜も更けた頃、ようやく語り出した。
「12年前、ロジーナが謎の奇病にかかった時、俺は国中の医師を呼んだ。だが、どんな名医もさじを投げた。そこで国外の医師も呼んだが、全く成果はなかった。医師がダメならと、祈祷師も呼んでみたが、やはり成果はない。そこで、魔術師や占い師などありとあらゆる種類の人間を呼んでみたが、やはり誰も病気を治すことは出来なかった。あとは、死を待つのみだと言われた。だが、俺は諦めなかった。そんな時、あいつがきた。契約すれば、代償を支払う代わりに妻の病気を治せると。今考えると眉唾物だが、当時の俺は藁にもすがる思いで契約したんだ。そしたら、本当にロジーナの奇病はすっかり治った」
「でも、代償は…?」
「代償は…娘だ。」
「そんな、私を助けるために娘を犠牲にしたと言うの!?」
領主夫人ロジーナは、複雑な思いを感じ取りながらも怒った。
「仕方なかったんだ。」
しかし、領主は悪びれもせず言い切った。
「それで、あの方は何者なの? うまく逃げることはできないのかしら?」
「あいつは…悪魔だ。悪魔と契約した以上、逃れることはできない。娘が年頃になるまで待っていてくれたが、もう娘を差し出すまで諦めないだろうな」
「あ、悪魔…! まさか、私を助けるためとはいえ、悪魔と契約するなんて! 事態は思ったより深刻だわ。私が、娘でなく私を連れて行くように説得してみせるわ。」
信仰深い領主夫人は、反宗教的な存在である悪魔を快く思っていなかった。
「それはダメだ。契約内容は、病気を治す代わりに娘を1人差し出すこと。恐らく、明日には再び門を叩きにくるだろう。娘たちを呼べ」
領主は召使いに命じ、3人の娘たちを呼び出した。
「突然だが、明日、お前たちのうちの1人を奉公に出すことになった」
娘たちは思わず互いに顔を見合わせた。
「どこへ奉公に出されるのですか?」
長女のミラが聞いた。
「…悪魔のところだ」
領主は、娘たちに本当の事情を話した。
「悪魔のところへ奉公に行くなんて嫌よ! 私は降りるわ」
2番目の娘エラは話を聞くなり拒絶し、さっさと部屋に戻ってしまった。
「…ごめんなさい、私もできれば…遠慮したいわ」
長女のミラは申し訳なさそうに、しかししっかりと拒否した。
「そうだよな…みんな、やっぱり行きたくないよな…」
「こうなったら、もう私が行くしか…」
領主夫妻は悲観的な表情で話し合った。
その時、ずっと黙って事の成り行きを見守っていた末娘のリアが発言した。
「いいよ、私が行くよ」
リアの発言を聞いたミラは一瞬安堵したような顔をし、すぐに心配そうな表情を作った。
「本当か!?」
領主は身を乗り出して確認した。
「うん。」
「だが、もう2度と帰ってこれないかもしれないんだぞ?」
「大丈夫。何があっても、絶対帰ってくるから。」
こうして、末娘のリアが悪魔の元へ行くことが決まった。
翌日、再び悪魔はやってきて、リアを連れ去った。領主夫人はいつまでも泣いていた。