下
ルイーズがヒューゴの助手として、本格的に仕事に手をつけることになると、その効率は倍以上に跳ね上がった。
ヒューゴはルイーズお手製の付箋が気に入ったらしく、それを駆使して書類のミスを指摘し、修正の仕事を部下に振っている。
プレゼンの知識も彼に伝授し、何やら大事な会議で役立っているそうだ。
それと、そう。
ヒューゴに敵対心をむき出しだった部下達も、何があったのかは知らないが、心を入れ替えたらしく、悪さをしなくなったので、すこぶる仕事が早く終わる。
文官たちは心にも時間にもゆとりを持つようになり、いい傾向だった。
「ゾーラス。コーヒーを頼む」
「わかりました」
ルイーズとヒューゴの仲も、仕事を通して良くなった。
彼女はわざわざ給湯室に行かなくても、彼の部屋でコーヒーを淹れるようになっている。
「どうぞ」
「ありがとう」
ルイーズはひとつをヒューゴの机の上に、もうひとつローテーブルに置く。
そのローテーブルは、すっかりルイーズの仕事机と化している。
そこで、コンコン、と扉を叩く音がして書類を届けにヒューゴの部下がやってきた。
彼はそれを当然のようにルイーズの机に置く。
「お疲れ様です」
「ありがとうございます」
彼女は、仕分けされた書類をさらに分類し、自分とヒューゴで仕事を分ける。
「ヒューゴさん。これ、よろしければ」
マートン・サイラスというヒューゴよりも年上の部下は、反対の手に持っていたそれを差し出す。
ヒューゴは少し驚いた顔をしたが、それを受け取る。
「あ、それ、有名な洋菓子屋さんのじゃないですか!」
ルイーズはその紙袋をみて思わず言う。
「行政部のみんなから、ヒューゴさんに。でも実はこれを買ってきたのは、ウェルモンドなんですよ」
彼はにこりと笑って、人差し指を口の前に当てる。
どうやらウェルモンドは名前を伏せて欲しかったらしい。
「ヒューゴさん。今度の休み、行政部で飲みに行きませんか。もちろん、都合が悪ければ無理にとは言いません」
「……いや、その日は空いているから、喜んで行かせてもらう」
マートンは一瞬目を張ったが、それからすぐに笑顔になって頷いた。
「ルイーズも、予定が空いてれば来てください」
「もちろん行かせてもらいますよ。あ、そうだマートンさん、これこの間言っていたグラフの一覧です。よかったら参考にしてください」
ルイーズは様々な種類のグラフを書いた紙をマートンに渡す。
「では」
マートンはそれを受け取ると、また仕事に戻って行った。
「さっき渡したのは?」
何故かちょっと不機嫌な声色をしたヒューゴが尋ねる。
「これですよ。参考にする情報によって表は使い分ける必要がありますから、わかりやすく一覧にしてみました」
余分に用意しておいたものを渡す。
「へぇ」
「あ、エスパーニャさんも欲しかったですか? よろしければどうぞ」
ルイーズがそういうと更に不機嫌なオーラを纏うヒューゴ。
(あれ、私、何かした?)
「あ、あの。何か不都合が?」
「……ヒューゴ」
「え?」
「ヒューゴでいい、ルイーズ」
「わ、わかりました」
ルイーズは初めて名前で呼ばれて驚いた。
(忘れてたけど、エスパーニャさんってイケメンなんだった。慣れって怖いわ……)
イケメンパワーに危うくやられるところだったと、彼女は内心息をつく。
そんなこんなで、充実した日々を送っていたルイーズ。
王宮に来てから、あっという間に10ヶ月という時間が過ぎていた。
この間届いたカーナからの手紙には、『やっぱり、ルイーズなら平気だと思った』と綴られていたりする。
「さて、今日も頑張ろう!」
ルイーズは制服に着替えて、その日も仕事に程よく精を出していた。
「あ、ルイーズ。最近会わなかったわね」
「サリーさんに、アンナさん!」
久しぶりにメイドふたりと顔を合わせる。
「上手くやってるみたいね。安心したわ」
「はい。結構、波長が合うらしいです」
サリーは安心した表情だったが、きりりと引き締まった顔になり、
「でも、油断は禁物よ。最近は怪しい話を聞かないけれど、前までは怪しい噂も流れてたんだから」
と出会った時と同じように忠告してくる。
「その噂って例えば?」
ルイーズも少しばかり気になった。
「夜になると、狼文官の部屋には黒い何かがやってくる、とか?」
「え、何ですか、黒い何かって?」
「……亡霊かもしれないわ。あの、黒い髪に寄ってくるの」
アンナが血の気の引いた顔でそう言う。
「あの部屋の周りで怪しい黒い影が目撃されてるの」
サリーが付け加えてくれた。
アンナはがしり、とルイーズの肩を掴む。
「気をつけて、ルイーズ。油断は禁物。もし何かあったら、すぐに教会にいくんだからね?」
「わ、わかりましたっ」
気迫に押されて、ルイーズは首を縦にぐんぐん振った。
ふたりと別れた後、ルイーズはそんな子供じみた噂が本当な訳がない、と気にしなかった。
(そんなこと言ったら、前世じゃみんな亡霊を集めることになっちゃう)
馬鹿らしい、と呟いてルイーズは仕事に戻った。
「ルイーズ、遅かったな」
部屋に戻ると第一声でそう問われる。
「はは、ちょっとメイドさんに捕まってしまって」
「メイド?」
「お化けに気をつけろって。笑っちゃいますよね」
ルイーズがおちゃらけてそう言うと、ヒューゴは何かを思い出したように、ハッとする。
「俺の髪のことか……」
一瞬にして暗くなったヒューゴに、ルイーズは慌てる。どうやら気にしていたらしい。
「ヒューゴさんの黒髪、懐かしいです。私も元は黒髪でしたから」
フォローのつもりでそう言うと、ヒューゴは俯いていた顔を上げる。
「そうなのか?」
「はい。前世じゃ、みんな黒髪ですよ。だからヒューゴさんを見てるとたまに、恋しくなります」
「な、恋し?!」
「前世が」
「……」
表情をコロコロ変えるヒューゴに、ルイーズは首を傾げる。
「どうかしました?」
「いや、なんでもない」
彼は持っていた書類に再び目を落とした。
***
「ルイーズ。俺はこれから会議に行く。後のことは頼んでいいか」
「わかりました」
ヒューゴは愛用の腕をはめる形になっている杖を取り、会議室に向かう。
今回は、国の軍備関係について話すので重要な会議だ。
考えてみると、軍にいた時より今の方が重要な位置におり、複雑な心境になる。
実は、先ほどルイーズが言っていた“お化け”というのも、これに関係したちゃんとした原因がある。
ヒューゴはこうして重要な情報を握っている。
それを、どこからか送り込まれた密偵たちが探ろうと、たまに部屋をうろちょろするのだ。
以前、ヒューゴが片脚を使えないと舐めてかかってきた敵を、返り討ちにしたこともあったりする。
軍にいたころの習慣が抜けず、身体を鍛えるのはもちろん、常に短剣を忍ばせているのだ。
軍備予算の推移など、ルイーズに教えてもらった表を使用し、ヒューゴは上手く会議を進めた。
ルイーズの出す案は、どれも簡単にできて実用性がいい。
なぜそれを思いつかなかったのだと、言われた時には思うのだが、自分では思いつけないのもまた事実である。
彼女のお陰で、確実に楽をしているはずなのに仕事は進むので、感謝してもしきれない。
部下たちとも関係がよくなり、この間の飲み会ではぐっと仲が縮まったに違いなかった。
というのも、酔った男たちがヒューゴに砕けて絡んで、とんでもないことを抜かしてきたからだ。
『ヒューゴ! お前に先を越されてばっかりだが、僕はついに彼女に婚約を申し込んだぞ! もちろん答えはオーケーだ! ハハッ! 』
真っ赤な顔でそう言ったのは、同い年のウェルモンド。
『お、ついにやったか! よくやったな、ウェルモンド!』
『これだから、顔がいいやつは!』
周りの男たちが囃し立てる。
『そうだろ? 羨ましいだろ? ヒューゴ! お前はいつまでたってもルイーズちゃんに振り向かれないで、彼女は他の誰かと結婚するのさ!!』
『は?』
ヒューゴは思いっきり、怪訝な顔をした。
(なんで、彼女の名前がでる?)
『ウェルモンド、酔いすぎです。ヒューゴさん、あまり気にしないでください。まぁ、確かに、ルイーズは愛想がいいですから、他の部署でもひっそり彼女に思いを寄せている人がいると聞きますけど』
『は?』
ヒューゴはマートンの言葉に、更に眉間にしわを作る。
『やっぱり知らなかっただろう? ルイーズちゃんは、仕事上あちこち顔を出してるから、色んな奴が好感を抱いてるんだぞー』
愉快そうに笑うウェルモンドに苛つくのは気のせいではない。
『別に。彼女は俺の……』
そこまで言いかけて止まる。
(彼女は俺の、何だ?)
仕事の仲間? 助手? 相棒?
どれも当てはまっていて、どれも違う気がする。
『お、なんだ? もしかして部長は無自覚なのか?!』
『まじかー! なんか、ヒューゴ部長って元軍人だって言うから取っ掛かり辛かったけど、意外にピュアなんっすねー!』
『飲め飲め! 若いのに仕事ばっかしてたら、婚期を逃すぞー?!!』
『ほら、部長! ここは飲んで、自分の気持ちを曝け出しましょう!』
次々と酒が注がれていき、ヒューゴはどうしようもなくなる。
結局全部飲まされたのだが、酒に強いヒューゴは彼らの思惑通りには酔わず、後にはだらしない男たちの骸が残っただけだった。
しかし、それ以降、ヒューゴはルイーズを意識するようになり、結果的には部下の思惑通りになるのだが。
部屋に戻れば、たいてい彼女はあのローテーブルで仕事をしている。
仕事の範疇として、食事を運ぶなど事務以外のこともやってくれるが、彼女が嫌がる顔は少なくとも彼は見たことがない。
「あ、会議お疲れ様でした。言われた仕事の方は終わらせときました。あと、ハルークさんから、またお茶菓子が届いてますよ」
にこり、と笑ってお菓子の箱を見せるルイーズを見て思う。
(いい奴なんだよな。……前世では何人かにフラれたって言ってたが、そんな奴らの気がしれねー)
時間にゆとりができるようになり、ヒューゴは時々ルイーズの前世の話を聞いていた。
だから、そんな奴らの気が知れない。
自分なら、彼女にそんな言葉をかけないし、支えてあげたい。
ヒューゴは彼女を想うこの気持ちに気がついたときに、早々にそれを受け入れた。
「そうか。なら、一緒に食べるか」
「やった! すぐに用意しますね」
「ああ……」
(可愛すぎかよ)
ただ、それを彼女に伝えるのには時間がかかりそうだ。
◇◇◇
ルイーズは一日の最後の仕事に、ヒューゴに夕食を用意し、片付ける。
今は季節も冬なので、蝋燭の光を頼りにワゴンを指定された場所に戻す。
明日の打ち合わせをしてから自分の部屋に帰ろうとして、またヒューゴの部屋に向かったときである。
「え?!」
ヒューゴの部屋の向かい側の窓に、一瞬黒い影が見えた。
ルイーズは果敢にも、その正体を掴もうと窓を開けて確認する。
「あれ、誰もいない」
ルイーズは自分の見間違いだったのだと、思い直し、ヒューゴの部屋の扉を開けた。
「ルイーズです、今戻りっ!?」
「ルイーズ!?」
彼女は自分の心臓が飛び出るかと思った。
何者かにいきなり、背後を取られて口を塞がれている。
「騒ぐな。殺すぞ」
くぐもった低い声が頭上に降りかかる。
どうやら男は顔を布で隠しているらしい。
ルイーズは、先程の影はやはり人間だったのだと理解した。
「彼女を離せ」
ヒューゴは怒りをあらわにする。
「離して欲しければ、アレクサンダード公爵家の情報を渡せ」
「お前……」
どうやら大切な情報らしい。
ヒューゴの表情が更に険しいものになる。
「言わないならいい。彼女の喉が潰れるだけだ」
口に当てていた布は外され、そのかわり腕で首を絞められそうになる。
(ヘッドロックなんてされたら、また死んでしまう!)
ルイーズが、思いっきり男の足を踏み怯んだところで、渾身の一撃を男の鳩尾にお見舞いする。
続いて今にも逆上して飛びかかってきそうなところを、容赦なく後ろ回し蹴りを頭へ。
脳震盪を起こしたらしい男は、ぴくりとも動かなくなった。
「フゥ……危なかった」
お忘れかもしれないが、彼女、13歳まで護衛として育てられている。
手早く紐で男を拘束し、助けを呼ぶ。
あっという間に事件は収まった。
呆然として、ヒューゴはその様子を見つめるしかなかったが、我に返り杖をつきながらルイーズの元へ。
「ルイーズ、怪我はっ」
「ありませんよ。それよりヒューゴさんは、私が来る前とか何もありませんでしたか?」
人質に取られたというのに、全く普段と変わらないルイーズ。
「なんであんな無茶を!」
ヒューゴは片手で彼女の肩を掴む。
「無茶ではありませんよ。ヒューゴさん、ご存知ありません? ゾーラス家。護衛職ばっかりやってる」
ヒューゴはそこで初めて気がついた。
「ゾーラスって。あの?!」
「そうです。なので、これくらい無茶でもなんでもありませんよ」
なぜ今の今まで気がつかなかったのか、ヒューゴは驚いた。
ゾーラス家といえば、王族の護衛も任されるすぐれた人材を輩出する有名なお家だ。
しかし、まさかルイーズがその血を引いているとは想像もしなかったのだ。
(……なるほど。だからあの拳と回し蹴りか……)
納得する反面、何もできなかった自分にだんだんと腹が立ってくる。
「情けないな……。君には守られてばかりだ」
「そんなことないですよ。ヒューゴさんはちゃんと約束通り仕事を割り振ってくれるし、いつも気にかけてもらってます」
「それはっ……」
ヒューゴは言い返そうとして、ルイーズの真っ直ぐな視線がぶつかり何もいえなくなる。
「それは?」
「……当たり前のことだろ」
「そうでしょうか? とても大事なことだと思いますけど?」
言い切るルイーズに、ヒューゴは何故だか何を自分がごちゃごちゃ考えているのか、アホらしくなる。
「……はぁ。こんな時で悪いが、ルイーズ」
「はい」
「仕事で君を気にかけるのは、上司として当たり前の事だ。でも、それだけじゃない」
「え……」
ルイーズはそこで自分に向けられた熱い視線に気がつく。
彼女はある一つの答えが浮かんだが、ここで間違える訳にはいかない。確信が持てずに、「そ、それは、仕事のパートナーという意味でしょうか……」と引き気味で尋ねる。
「へぇ、わかってるくせにそう聞くのか。別にいいけど」
ヒューゴは肩に乗せていた手を、ルイーズの頬に移す。
彼女の顔は窓から注ぐ満月の光に照らされて、赤く染まっているのがわかる。
「——ルイーズ。俺は君に恋人になってほしい」
ルイーズは目を見開いて、ほんの数秒視線を泳がせると、次はちゃんとヒューゴを捉えて縦に頷くのであった。