中
日が昇り、ルイーズはカーテンから漏れる朝日で目を覚ますと制服に着替えて自分の食事をとる。支度を整えると次はヒューゴの食事を部屋に運び、今日一日のお勤めが始まる。
彼女が王宮に入って、だいぶ日にちも経ったので、仕事にも慣れて余裕もできるようになった。
そこで、ルイーズはヒューゴの多忙を極める生活に気が付かざるを得なくなる。
彼は、ルイーズが朝食を持ってくる前から仕事机に座って書類を見ているし、たまに休憩はするものの、ずっと机に張り付いていた。
珍しく席を立ったかと思えば、彼の部下たちが働く部屋まで様子を見に行って、書類の訂正をさせたり、困っている案件には適切に助言を残していく。
時には、部下のミスのせいで彼の仕事が増えることもあるのだが、一言冷たく叱った後には必ずフォローしている。
そしてまた違う場面では、彼を重用している皇帝陛下が部屋までやってきて、何やら大切な話をしていた。
夕食をとった後もずっと仕事をしているようで、ルイーズは自分の頭から血の気が引いていくのがわかった。
(まるで、昔の私を見ているようだ……)
このままの生活では、彼も前世の自分と同じように過労死するのではないか、とルイーズは本気で思った。
一度そう考えてしまえば、その考えは頭から離れない。
だが、ルイーズはこの王宮で働くことで、なぜヒューゴが仕事熱心なのかの理由も気がついてしまっていた。
彼は元軍人。
親もすでに他界しているらしく、恋人もいないヒューゴは仕事しか知らない人間だった。
そして、剣をペンに握り変えた彼は、自分の不吉な噂を跳ね返すように、実力を発揮してここまで上り詰めた。
それでも彼に先を越されて妬む部下たちは、陛下のお気に入りだからという理由で、ヒューゴ自身の能力を認めようとしない。そんな奴らは仕事をサボりがちで、彼の仕事が増えているということも忘れてはならない。
きっと彼は仕事以外の生き方を知らないのだ。ただでさえ、左脚を壊して杖をついて引きずるようにしか歩けないので、行動範囲も狭い。
(仕事以外取り柄がなくても、職場の中で必要とされていれば、それだけで生きがいを感じられるんだろうな……)
それはヒューゴに向けての感想なのか、前世の自分に向けての感想なのかは、ルイーズにはわからなかった。
結局、彼の気持ちも理解できる彼女は、何もいうことができない。
仕事ができない奴にやらせるよりも、自分でやった方が早いし、上司である自分はある程度全体を把握する必要もあるので、全てが気にかかる。信頼していない訳ではないが、他人がやった仕事にミスがあったら、確認しなかった自分が悪いと思うのでチェックは入念にする。そのせいで仕事が山積みになってもだ。
——真面目とは、なんと生き辛い性格なのだろうか。
◇◇◇
ルイーズがヒューゴの元で働き始めて、1ヶ月半が経った時のことだ。
食事を配膳しているルイーズは、最近ヒューゴの食欲が落ちていることには気がついていた。
大事な書類にミスが見つかったときからだ。
その日も朝食にはほとんど手をつけないで、ブラックコーヒーをすするとまた書類に目を落とすが、その目はいつもと違い、ぼーっと文章を捉えているものだ。
ルイーズはハッとした。
一体自分は今まで何をやっていたのか、と自分を責めずにはいられなかった。
辛い時に誰も頼れる人がいなくて、今まで自分は誰のために何をやってきたのかと、自問自答した日がフラッシュバックする。
——自分が一番わかっているじゃないか?
ルイーズはもう迷わなかった。
「エスパーニャさん。休んでください」
「なに?」
「確か、奥がお部屋になっていますよね。今すぐベッドでちゃんと寝てください。顔色が悪いです」
ヒューゴは眉間にしわを寄せる。
「今はそれどころじゃない」
「ええ。わかっています。でも、今の状態では、改善策も思い浮かばないでしょう?」
ルイーズが初めてヒューゴに対して、意見したので、彼はルイーズを見つめた。
「……わかっている。だが、それとこれとは話は別だ」
頑固な仕事人間に、ルイーズは頭を切り替え、対応もいつものおっとりモードから前世のキャリアモードへと変更する。
「なら、仕事を早く終わらせましょう。私も手伝います」
ルイーズは一度部屋に戻り、あるものを取ってくると、ローテーブルにそれを置く。
頭が働かないらしいヒューゴが、呆然とルイーズの変容を見ている中、彼女はテキパキと書類を分けて自分にできる仕事を全て請け負う。
テーブルの前に正座して、ルイーズは黙々とソレを弾き出した。
「なぁ、それはなんだ?」
「そろばん、あー。計算機のようなものです」
ルイーズお手製の黒光りするそろばんは、もちろん前世の産物だ。
この世界ではまだ計算機は発明されておらず、暗算が生まれつき得意な人たちが計算を担当するのが普通である。その中で計算が早いというのは、有能とみなされるのだ。
ミスを減らすために、ちゃんとそろばんを使って次々に書類の空欄を埋めるルイーズを見て、ヒューゴは興味深そうにそちらに寄ってきた。
仕上がった書類に目を通して、驚いたように目を見開く。
「速いし、正確だ……」
「会計と事後報告書の方は私がやりますから、サインだけお願いします」
「……ああ」
あっという間に仕上げると、ルイーズは次にヒューゴを悩ませている件について取り掛かる。
(“書類をなくす”ねぇ。明らかに誰かがやってるやつだ)
残念なことに、その犯人に心当たりがあるので、ルイーズはため息をつく。
(さっさと取り返してくるか)
届ける必要のある書類を持ち、ルイーズは彼らの元に向かう。
「おはようございます」
「おはよう、ルイーズちゃん」
食えない笑顔を撒き散らす男に、ルイーズは言った。
「お疲れ様です。ウェルモンドさん。書類の方は、見つかりそうですか?」
「今みんなで頑張っているところなんだが、なかなか見つからなくてね」
「そうでしたか……。もしかすると、間違えて捨てられてるかもしれませんね」
ルイーズの話に、ウェルモンドは心の中でほくそ笑む。
「そうなんだよ。でもそうなると、あの中から見つけなくちゃいけないんだ……」
いかにも残念そうな口ぶりで、指をさした先を見ると、ゴミと化した書類の紙切れが袋に詰められていた。
(はぁ。どの世界に来てもこういうことってあるんだ……)
十中八九、切り刻まれた紙の中に書類の断片たちがいるのだろう。
ルイーズは無言でその袋を開き、中を見つめる。
(あ、意外に細かくない。これがシュレッターにかけられてたらやばかっただろうな)
まだ技術が発達していないことに、ルイーズは希望を見た。
「これ、お借りしますね」
「え、ルイーズちゃん、まさかその中から探すつもり?」
驚くウェルモンドに、ルイーズは笑った。
「もちろん。凄く大切な書類なんですよ? エスパーニャさん色々無理して体調を崩されているので、私もこれくらいはしなければ。……ウェルモンドさん。エスパーニャさんはあなたの仕事はミスが非常に少なくて助かっていると仰っていましたよ。では」
最後のはちょっとしたサービスだ。
ウェルモンドが黙り込むのを横目に、彼女は部屋に戻る。
「ゾーラスです。今戻りました」
ルイーズの入室にいちいち返事をするのが面倒らしいヒューゴは、最近返事をしない。
それがわかっているので勝手に扉を開けて中に入ると、ルイーズは目を見開いた。
「エスパーニャさん?!!」
やはり無理が祟ったらしい。
ヒューゴがローデーブルの横で、床に手をついていた。
ルイーズが慌てて駆けより、彼の顔を覗き込めば、案の定顔色が悪い。
肩を貸して立ち上がらせると、部屋のもう一つの扉まで付き添った。
ヒューゴはだるそうにポケットから鍵を取り出し、その部屋を開ける。
ルイーズは中に入ると、ベッドに彼を座らせた。
(よし、と。身体鍛えといてよかった。あと前世の介護も)
ヒューゴは元軍人で、ルイーズよりも背が高く鍛えられた肉体だ。加えて足が悪いので、彼女でなければ肩を貸すだけでも、一苦労だっただろう。
「悪い……」
「いえ。お医者様をお呼びしましょうか?」
「……いや。これくらい寝れば良くなる。それよりも君は机に置いてある資料を提出する方を優先して欲しい」
「わかりました」
ルイーズは彼が仕事を第一に考えることをわかっているので、あまり口出しはしなかった。
ぐるりと部屋を見回すと、ヒューゴの仕事部屋に繋がったプライベートスペースは、ここで生活ができるくらい設備が整っている。
(あとで介抱しに来た方がいい?)
彼のようなタイプは、さりげなくフォローした方がいい。
ルイーズは言われた通り書類を届け、ついでに医務室に寄り薬をもらう。
仕事部屋に着くと、ヒューゴの様子を見に例の部屋に入る。
彼は死んだように眠っていた。
思わず口元に手を当てて、息をしているか確認を取ってしまったが、ちゃんと息をしている。
(あ、焦ったー)
安心して胸をなでおろすと、サイドテーブルに薬と水を置いておく。
本当はすぐにでも飲ませた方がいいのだろうが、起こす気にはなれなかった。
そうこうしていれば、時計の針は6時を過ぎ、いつもなら仕事を上がる時間だ。
(……久しぶりの残業ですね)
どうせ彼は明日にでもまた仕事を再開するので、ルイーズは少しでも仕事を減らそうと次から次へと書類に手を伸ばす。
もちろん、あのバラバラになった重要書類も復元、ついでに修正しておいた。
伊達にずっとこの部屋にいてヒューゴの仕事を眺めていた訳ではないので、彼女は何をすればいいかなど考えるまでもなく理解していた。
前世の知識を活かして、改善点を書き出し、必要であれば表やグラフを駆使する。
昔はクリックひとつで出来たことだが、手書きとなると時間がかかった。
(まぁ、こんな日くらいはね……)
いつも頑張っているヒューゴへのご褒美だ、なんて上から目線で思ってみる。
しかし、そう思うと俄然やる気が出て、ルイーズはブラックコーヒー片手に、その日はずっと仕事部屋に籠るのであった。
「ふぅ。完璧!」
ルイーズは出来上がった書類たちを見て微笑む。
いつのまにか窓から光がさしていたが、彼女は久しぶりに仕事らしい仕事を仕上げて満足していた。
「あ、エスパーニャさんのこと忘れてた」
没頭しすぎて何故この状況になったのか忘れていたルイーズは、慌てて厨房に向かうと胃に優しく身体にいい朝食を注文した。
また部屋に戻り、ルイーズはもう一つの扉の前で固まる。
(見に行った方がいい? でもなぁー)
プライベートにズカズカ足を踏み込むのは気がひける。
結局、朝8時半時になっても起きてこなかったら様子を見に行こうと決め、自分の部屋に戻って仮眠をとることにした。
***
ヒューゴは普段よりだいぶ早い時間にベッドに入ったせいか、夜中に眼を覚ます。
ふと隣をみると、薬と水が置いてあり、あの助手が置いていったのだろうとすぐに理解した。
彼はそれを飲み込むと、またベッドに身を倒す。
(やってしまったな——)
後悔しても、彼女の言う通り仕事の効率が下がるし、今は休むしかない。
溜まっていく書類を思い出すと頭痛がしてきたので、ヒューゴはとにかく今は寝てしまおうと眼をつぶった。
そして次に眼を覚ますと、動くようになった身体に安堵しつつ、気分転換にシャワーを浴びて支度を整える。
時刻は午前7時。
休んでしまった分を取り返さなくてはならない。
ヒューゴは机に座り、書類に手をかけて固まった。
「なんだ?」
昨日とは違う書類の並び。
そして、見慣れない書類が増えている。
恐る恐るそれらをめくり、ヒューゴは驚いた。
「なんだ、これ」
最初にめくった紙には、いつも苦労していた、書類のチェックがわかりやすい表にまとめられている。
そして次に目に入ったのは、なにやら色の違う小さな紙切れ。
書類のあちこちに貼られている。
大事な書類たちに何か貼られたと、焦ってその紙切れを取ってみれば簡単に外れる。
異常がないと安心して、その小さな紙切れに書かれたものをみれば、ミスの指摘が的確に示されていた。
ヒューゴは驚いて、違う書類の束にも目を通す。
「全部……」
どこを修正すればいいか、一目瞭然だ。
それに、一番驚いたのは
「これは!!」
無くされた書類があるではないか。
前見たものとは異なるが、ちゃんと内容はそのままで存在している。
これは夢なのではないかと、ヒューゴは思わず目を擦るが、どうやら現実のようだ。
「ゾーラスです。朝食をお持ちしました」
そこで助手が部屋に現れる。
彼女はいつもどおり、おっとりした顔つきでワゴンを押している。
「あ、お目覚めでしたか。身体の方はいかがですか?」
「もう平気だ。それより、この書類は一体?」
眉間にしわを寄せるので、ルイーズは彼の所望に合わなかったのかと、顔を真っ青にする。
「も、申し訳ありません。私が勝手にやってしまいました。ああ……。エスパーニャさんの手を煩わせるとは思わず……」
慌てふためくルイーズに、ヒューゴは瞠目する。
「君が、やったのか? ……これを全て?」
「すいません。私一人でやったことなので、他の人に嫌疑をかけるのは!」
ルイーズはすっかり、自分が空回りして越権行為をしてしまったのだと思い込む。
「ゾーラス……」
「は、はいっ」
「今まで何故隠していた? これだけ仕事ができれば、俺に付かなくても簡単に王宮に上がれただろう」
元軍人のヒューゴの鋭い視線に、ルイーズは白状するしかなかった。
「……しょ、正直に申しますと、私は死にそうになるまで、ひとりで働きたくないのです」
(い、言った。言ってしまったよ、私)
“死にそうになる” というより、“死ぬ” の間違いである。
ルイーズはヒューゴの言葉を待つ。
「……それは、俺を見て?」
「あ、いえ。エスパーニャさんは昔の私に似ているなとは思いましたが」
「似てる?」
——余計なことを口走ってしまった。
ルイーズはもうやけになった。
どうせクビになるなら、彼に教訓を述べてからにしよう、と口を開く。
「信じられないかもしれませんが、私には違う世界で生きた前世の記憶があるのです。そこで私もエスパーニャさんと同じように、上司として働いていました。仕事に加え父の介護があり、真面目だった私は仕事を人に任せるということをあまりせず、負担を増やし、ある日過労で死んだようです。なので私、この世界では仕事をひとりで負うようなことは、したくありません。エスパーニャさんも、前世の私のようにならないように気をつけてくださいね」
「……」
ヒューゴは怪訝な顔でルイーズをみる。
「ひとつ聞きたい。昨日使っていた計算機と、今日のこの取り付けられる紙に、優れた表は、その前世の記憶と関係するのか?」
「そうです。そろばんも、付箋も、それとグラフも全て前世の知識によるものです」
「そうか……」
黙るヒューゴ。
そして、何か決心したような表情で再び口を開いた。
「ルイーズ・ゾーラス。君は先程ひとりで仕事を負うのが嫌だと言ったな」
「はい」
まったくもってその通りである。
ルイーズは素直に頷く。
「君ひとりに負わせることはしない。だから俺の助手として、その能力を貸してくれないか」
「え?」
「俺に君の前世とやらの二の舞になってほしくないんだろ?」
ヒューゴは口元に笑みを浮かべてそう言った。
(ま、待て待て。信じたの? え、信じちゃうの? 物分かりが良くていいけど、今の笑みは何?!)
きっとそれは、いい獲物を見つけたという喜びからくるものに違いない。
「ま、もともと君は俺の助手としてここに居るわけだから、これも仕事のうちだな?」
つまり、拒否権はないわけである。
「……わかりました」
ルイーズは渋々受け入れるのだった。