死ぬ人仕事
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と、内容についての記録の一編。
あなたもともに、この場に居合わせて、耳を傾けているかのように読んでいただければ、幸いである。
この頃、過ごしていてさ、自分に自信が持てないことが増えてきたような気がするよ。
特に、自分が懸命にやったことが、裏目に出てしまうことほど、精神的にきついことはない。致命的でないにしても、至らないところをつつかれるだけで、心のあちこちに穴が空いてしまう気さえする。
その分、成功というのは嬉しい。俺の体感だと、試行の100パーセントのうち、せいぜい2パーセントが成功と呼べて、残りが失敗とか、不満の残る痛み分けといったところ。
そうなると、成功っていうのも、天の神様がもたらしてくれたものかもしれないな。運とか、相手の心とか、はっきり見えていないものとかっちり噛み合うことができた、ということなんだから。
成否は、自分の力によるものじゃない。俺がそう感じる出来事があったんだが、聞いてみないか?
まだ俺が小学生くらいのことだ。
おじさんのひとりが、俺の家から徒歩10分くらいのところにある、アパートに住んでいた。結婚はしていなくて、あまり部屋の中に他人を入れたがらない。
遊びや買い物で外出すると、時たま顔を合わせる。その服装はトレーナーにジーンズというカジュアル感のにじむものから、燕尾服にトップハットという、乗馬競技に出るんじゃないかという突飛なものまで、さまざま。
それが、排気ガス漂う車道の近くで、横断歩道待ちをしているのだから、悪目立ちすることもしばしば。
俺も他人であることを装いたくて、進む先におじさんの姿を認めるや、方向転換をしたのは一度や二度じゃない。
だがしばらくして、俺は見過ごせない事態に出くわすことになる。
冬の寒さが厳しくなってくる、11月のこと。俺の地元ではまだ、ハチたちがよく飛び回っていた。
ハチは女王バチをのぞいて、多くが冬を越せずに死んでいく。そのために気が立っているのか、通りかかる人のまわりを飛び回って、威嚇してくることが多かった。学校の友達にも、刺されたと訴える人がちらほらと見られる。
そしてある日の夕方。俺は買い物を頼まれて、近くのスーパーへ向かっていた。
「お菓子をつけていいから」という魔法の言葉につられて、調味料一式の購入を引き受けていたんだ。
家からだと、スーパーまでだいぶ近道ができるルートがあるんだが、件のハチたちとよく出くわしてしまう場所でもある。実際に足を向けてみると、数匹のミツバチが音を立てながら飛び回っているのが見えた。
本来なら、しぶしぶ遠回りをするところ。だが、俺の目の前で、ハチたちはうずを巻くように、回りながら空へと散っていく。そしてハチの向こう側にはあおむけに倒れている人が。
黒一色のセーターとスラックス。灰色のニット帽をかぶっているその人影は、あのおじさんだったんだ。
アナフィラキシーショック。聞いたばかりの言葉が、頭をよぎった。
アレルギー症状のひとつで、症状は重く、死に至ることもらしい。動物で引き起こす代表格はハチやアリだという。
――救急車を呼べばいいんだっけか? いや、まずはおじさんの状態を確かめるべきだったっけか?
少しテンパり気味に、おじさんへ近づいた俺は、その肩に手をかけてみて、すぐに引っ込めた。
冷たい。まるで氷のようだ。
死んだ後には、人間の体は冷たくなると聞いたことがある。もしかして、手遅れだったのか。
俺の手に負えない。すぐに救急車を呼ばなくてはいけない。
どこの家で電話を借りようか、と俺がさっと辺りを見回すと、不意に、しっかり閉じていたはずのおじさんの目がパッと開く。
驚いて飛び下がった俺の前で、おじさんは上体を起こし、「よっ」と気の抜けた口調で声を掛けてくる。
ハチに刺されたかと心配していた自分が、馬鹿に思えてしまうほどだったけど、あの冷たさは確かに掌に残っている。
「……ゾンビ?」と僕が尋ねるようにつぶやくと、おじさんは「当たらずとも、遠からずといったところかなあ」と答えた。
聞いたところによると、おじさんは「擬死」、いわゆる死んだふりの練習をしているのだという。
先ほどのハチには、確かに刺された。だが、おじさんはアレルギーを持っているわけじゃなく、致命傷ではないらしいんだ。でも、死んだふりをした。
「意味が全然分かんないんだけど。どうしてそんなことするの? 逃げればいいじゃない」
「ま、普通はそう思うだろうね。でも、おじさんの死んだふりは、自分の命のためじゃない。相手のために行っているものなんだよ」
おじさんは続ける。
生き物の中には、自分の歯牙に関心を持ち、相手を殺傷できるかどうかを試しに使ってみる輩がいるのだという。他にも、一度相手に針を刺したら、自分も長くは生きられなくなるミツバチでさえも、一世一代の攻撃の行く末を気に掛けるとも。
「自分の蓄えた毒や力が、相手に通じなくなったらどうするか。
それはね、もっと強い毒と力を持って、乗り越えようとしてしまうんだ。昨今は、そのような単細胞が、虫の世界でも増えている。
顔面に自分から飛び込んでくる、羽虫なんかはいい例だ。その攻撃を持って、相手を倒せるかどうかに、夢中になっているんだ。
だから死んだふりをしてやる。自分の攻撃が、相手を斃すに足りたものなのだと、自覚させる。そうすることで彼らは有頂天になり、今のまま、毒や牙を磨く必要はないと、調子に乗るんだ。
決死の攻撃を仕掛けるミツバチなどは、相手を確かに倒れさせた。本懐をとげることができたと、わずかなりとも心穏やかに逝くことができるだろう。
相手をつけあがらせる。それが、この死んだふりの目的なんだよ」
俺はまゆにつばをつけながら聞いていた。あの小さな脳みその中に、そんな考えがあるとはとうてい思えなかったんだ。
悠々と去っていくおじさんを見送った時には、俺の意識はすでに、頼まれた買い物へと向いていた。
その日の夜。
俺は家の風呂に入る時、掛け湯、入浴、身体を洗う、もう一度入浴、髪を洗う、出るの流れを取る。
おかげで長風呂のレッテルを貼られがちだが、一度目の入浴で疲れを体の外に追いやり、改めて清めた後に入ると、お湯に慣れた身体がとろけそうな一体感を生んでくれるんだ。その瞬間を、俺は気に入っていた。
それらを存分に味わい、いよいよ最後。シャンプーを泡立てて、髪の毛をわしゃわしゃかき分けていた時だ。
べしん、と頭全体が揺れそうな衝撃を、俺は受けた。指の間を縫って、何かが降ってきたんだ。
シャワーヘッドが直撃した感じに似ている。だけど、そのシャワーヘッドは、すでに俺の足元の洗面桶の中で、次に水を吐く瞬間を、今か今かと待っているはずなんだ。
俺はずきずきと響く痛みに耐え、シャワーで泡を流れ落としていき、ばっと濡れた髪を押し上げる。それで目を開けた時、ようやく流した水と泡に、赤いものが混じっているのに気がついたんだ。
自分では傷が見えず、家族に見てもらうと、つむじの近くにかさぶたができていたらしい。
「引っかいて、とがめたりしないようにしなさい」というお達しの通り、俺は頭に手をやらないようにしたが、それで収まることはなかった。
二度目は、その日の真夜中。三度目は教室の席に着いてから。四度目は下校途中に、同じ痛みがやってきたんだ。
強さも増している。四度目などは、たまらずうめいて、その場で膝を折ってしまったくらい。周りを歩いている人も、一瞬足を止めて、俺を見やってきたくらいだ。
ハンカチ越しに、手を頭にやると、べっとりと血がつく。心なしか黄色いものが混じっているように見えた。
俺はたまらず、おじさん宅を訪ねた。その日のおじさんは、ごくありふれたトレーナー姿だったが、モヒカンのかつらをかぶっている。いわく、「これにつられてくる輩もいる」とのこと。
頭の惨状を見せながら、俺は説明を試みる。舌が思ったように回らず、要領を得なかったと思うが、おじさんは「ああ、あいつか」と、ゆったり落ち着いている。
痛みがあった時間も訊いたおじさんは、時計を見やると「ちょうど、そろそろだな」とつぶやいた。
俺はおじさんの部屋に通される。ベッドとクローゼット以外は、何も家具が置かれていないフローリングの上に、俺は寝転がるよう指示される。おじさんは俺の心臓の上に手を置いた。
「ちょっと、死んだふりを体験してもらう必要ができた。頭に痛みを感じたら、ぐっと眼を閉じてくれ。私が擬死へと誘おう。
ああ、力は抜いてくれ。変なところがこわばると、ちゃんと復帰できない時があるからね」
言葉とは裏腹に、平然とした態度を崩さないおじさん。
「こちらの不安も知らないで」と少し腹が立ちながらも、落ち着けたのは確か。
鼓動が早まる。その真上にあるおじさんの手に、脈動ごとにぎり取られてしまうかと思う、圧迫感を覚える。チッ、チッと枕元に置かれた目覚まし時計の音が、やけに大きく聞こえる。
そして、来た。
頭をカチ割られるかと思うほどの激痛。おじさんの指示とは関係なく、ぎゅっと目をつむっちまったよ。そして少し遅れて。
どん、と胸を押された感触。鼓動したと同時に、それを力づくで抑え込まれてしまった。
送り出すはずの血が、一気に止まる。胸の端から身体の血管、神経の一本一本までが、氷水を注がれたかのごとく、凍てついていく……。
はっと目が覚めた時、先ほどから五分ほど時間が飛んでいた。
頭にはすでにガーゼが貼ってあり、おじさんは俺の胸から手を離し、正座している。
「これで処置は終わりだ。君は確かに一度死んだ。頭を叩いた奴も、『そいつ自身』はもうこないだろう。
だが、情報を持ち帰られたのはきついな。あの強度が基準になったのなら、少なくとも別の奴は同等の力を持って、訪れるぞ。他の人が下手に耐えないことを祈るべきだな」
おじさんの言う通り、それから俺は不意に頭を怪我することはない。だが、あいつの被害がなくなったわけじゃないだろう。
次にあいつと出会う時。「真に人を殺せる」レベルに成長していないことを、祈るばかりだ。