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第0章 『救いのない世界に私はただひとり』

〈伝承-A1〉

老人曰く、

「世界は、何かに支配されている。

うすうす誰かがそれに気が付いては、その真理にたどり着くまでに命を枯らしていく。

世界は、そんな人々を追放はしなかった。

新たな命として息吹かせるという循環を担保することによって、世界はいつまでも旧態依然とした神話の世界を構築し続けた。

しかし、どうしてであろう。人々に真理へと至る種子を植え付けているという覆しがたい事実は、誰の仕業なのであろうか。

それはもう誰もが知っていたことで、これからも覆ることはない。

そして、その第一原因の存在の根拠を与えられたことによって、人々は仮初めの真理を真理と見なしてしまった。そうやって、出来上がった世界に私たちは住んでいる。

それはもう、力を支配の根源として占めている以上、永遠に変わることはない。何かの変革が起こらない限りは……。

仮に、もしそれが起こるとすれば、それは神のいたずらなのか、それとも真理そのものがより複雑に構成されていることの所以なのか、それを明らかにすることは、これからの君たちに託された使命だ」

 さらに老人曰く、

「ここに終わらない物語の序章となる木の果実がある。それは重々しくも軽々しい言葉をもってして、形容され、人々の認識の内に透過されていく。その人々にとって、この木の果実とは、単なる詩歌なのではなく、実利にあてがわれた手段としての援用物に過ぎないのであった。この木は国中を覆い、そして、世界へと蔓延していく。誰にも止める術はなく、ただ茫然と眺めることしか出来ずに、ありながらも……。

 もしこれが平和をもたらす木であるならば、誰も憂いたりはしないであろう。しかし、これをもとに平和が乱れ、秩序が変わっていくのであれば、それは邪悪な木でしかない。本来のあるべき姿を変えてでも、人がそれを使用していくのであれば、それを根絶していくしか道はないのかもしれない。

 だが、忘れてはいけないことがある。本来その木は、何のためにあるのか。少なくともその真実を知っている人間は多くない。なぜなら、それはべリウスの神話に書かれているのだから。神話を知るものを私は知らない。べリウスの血を引く私でさえ知らないのである。しかし、べリウスにはこの世の真理が書かれている。まずはその神話を知ることからだ。残念ながら私は、これ以上のことを知らない。もし君がこの世界を救う気があるのであれば、どうすべきか、もう決まっているがな……」



〈現況-A1〉

 この世界にテロリストがいるとすれば、それはわたしのことなのかもしれない。それはどうしようとも変わらぬ事実として認識されてしまうことである。しかし、それは、わたしが自らの使命を全うし、ただわたしが私の生きる上での生存を確保するという意味において、そう容易に解釈されるべきではない事柄に違いない。実際にわたしは必死に走っている。それは何かから逃げるためではなく、わたしの信念を貫くために。

「いたぞ!」

 碁盤の目のように都市整備されたこの街の地図には載らない裏路地を、呼吸をするたびに息が潰れて、肺に吸った空気がわずかにしか届かないことで、悶絶して、苦しいながらも、ここで追いつかれるわけにはいかないという理性的な制御のもとで辛うじて、体は動作するのみであった。

 もう終わりは近い……。

 こんな時にふと思う。もし神がいるのであれば、わたしは裁かれている側なのかもしれない。もしそうじゃなければ、世界が間違っていて、わたしは正しいということを誰がわかるのであろうか。それを探しに来たということすら、わたし自身もう忘れてきてしまった。

 救われたいのではなくても、救ってほしいと少しでも弱気でいる限り、終わりはもう近いのかもしれない。

「あっっ!」何かが切れた音がする。

 長く迷路のように続く路地の角を曲がったところで、わたしは不覚にも足を取られてしまった。それはもう理性でしか動いていなかった体も、その理性の機能の限界を迎えたことでそうなってしまったのかもしれない。

 どちらにせよ、万事休す。

 もう考えるのも、億劫になってきた。

 表通りでは、雑踏としていて、活況とした人びとの往来が激しいのであろう。もし裏路地で何かが行われたとしても、それを知る者は誰一人としていない。そして、残る事実はわたしが餌食となって、すべての尊厳を奪いさられた上で殺されていくことだけに違いなかった。

 鈍い靴音がこちらに近づいてくるのがわかる。それも地面に耳を当て伏せるようにいたため、より敏感に聞こえた。

 もう隣の路地の中間あたりに奴らがいるのがわかる。

 さあ、どうしよう。

 もう、どうしようもない。

 その時、わたしは、前に訪れた町で出会ったレヒト派の司祭の訝しい言葉を思い出した。「ストフには、今使われている使い方とは別に古く禁断の儀式として使われてきた使い方があるとされている。それはストフを人の心臓に宛がい同化させることである。実際にそうする者を見たことがなければ、そもそもその言い伝えが定かであることすらわからない。だが、それを行うことで、死んでも死ぬことはない不死身な体を手に入れることができると言われておる。それはべリウス人がしていたことであるそうだが……」

 なぜその言葉を今思い出したのかはわからないが、少なくともわたしはストフを持っていた。いや、そのストフがこの事態の顛末をもたらしているに違いなかったが、わたしも私を追う奴らもそれに目的があったのだから、もう引き返すことはできなかった。

 奴らがこちらに近づいてくるのがわかる。それはもうあと数秒でわたしの運命の結末を知ることができるとも換言することができた。

もう疲労で目は自然と閉じていき、開けられない。

もし今、リベリアを使えたら、どれだけ救われるのだろうか。

しかし、もう魔法を使うだけの体力はない。

やがて、知らないうちにまどろみへと意識が消えていく。それは死ぬ前のせめてもの防衛本能なのか。死ぬ時ぐらいは、あくまで意識があるうちがよかった。

そして、それから数秒でわたしの首元に、ものすごい力が加わり、わたしの体は引きずられていく。どこへ行くのだろうか。

もう考えたくもなかった。

そして、意識が完全に闇に飲まれていった。



 意識があるということと自分に魂が宿っていることは、なにか関係があるように思えてならなかった。それはこれまでの経験上の推論ではなく、実際のリアリティに即した結論をもとに至っている。死んだはずのわたしがこうやって思惟できて、意識があるという意識を持てるということは、魂がやはりあったからであるに違いなかった。つまり、死んでいるのであれば、その世界でのわたしの意識はなくなっているはずだが、わたしは実際に生きているような意識がある。ならば、死後の世界に行き、わたしの魂がその世界に昇天したということであれば、納得できる。しかし、どうしてであろうか。わたしが思い描いていた神の国とは、似ても似つかなかった。なぜなら、今にも消えそうな蝋燭の火が部屋辺りを照らしていて、その灯りから小汚い部屋にわたしの体は置かれていることがわかったのだから。誰が天上界にこのような粗末な造りの部屋があると思うのだろうか。壁は経年劣化で煉瓦が脆くなり、所々黒ずんでいた。さらに三つほどある椅子はそれぞれが違う形状をしていて、新品で買ったとは思えない代物であった。そして、なにより、暗くてよく見えないが、人のシルエットが見えて、その人が着る服はわたしがいた世界では下層階級が着ているそれと同じである。もしかして転生して、早々死んだ衝撃で夢でも見ているのであろうか。

そう思い、わたしはおもむろに体を動かし始めた。

「うっっ!」

そうすると左足に激痛が走り、ああ、これは夢ではないとわかった。

それと同時にわたしは死んでいなかったことがわかる。

突然、本当の現実へと目覚めていく。

そう、およそわたしが路地裏で転んだのは何かに足を取られたのではなく、奴らの放った攻撃がわたしの左足の腱を貫いたからであった。

しかし、意外にも腱は繋がっているようであった。理由はわからない。でも、およそわたしが眠っていた間に何かがあったのであろう。出血の跡は、未だにわたしが横になっているソファーについているに違いなかった。

「お姉さん。やっと起きたかい?」

「はっっ…………」

 人のシルエットがある方から、声がした。

 わたしは反射的に体を起こし、手を腰あたりと下半身にやり、鋭利な殺傷物と安全を探った。しかし、痛みがひどく、体がうずくまっていた。

「ダメだよ。お嬢さん、動いたら。足、酷くケガしているんだから」

 まずわたしはその声の主が敵なのか、それともこちらを好意的に受け入れてくれているのかを探る必要があった。

「お嬢さん、うちの前で倒れていたらしいね。うちの女房が見つけて家に入れたんだけど、足を切ってるらしくてね~。出血が酷かったらしいよ。でも、娘もいたから、娘がリベリア使って治したんだけど、娘はまだ十そこらでね~。腱を繋ぐところまでしか治せなかったらしいよ。だから、まだ痛むでしょ。気の毒にね~」

 相変わらず顔は見えなかった。でも、その声は何か自然な上で発せられたものであるとは到底思えなかった。

「…………。助けていただきありがとうございます」

 間髪入れずに男の声が返ってきた。

「いやいや、お嬢さんも近衛から追っかけられてるそうだね~。よくいるんだよ~。憲兵から逃げてこの路地に来てくるのが……。大体そういうのには慣れてるからね~。まあ、とりあえず食事でもとって元気になってください」

 食卓の上に目を移したがそこにはミールへと繋がるものは何一つなかった。そして、その男の顔の輪郭がほんのりと見え始めた。

「あの……、ここはどこですか?」

試すようにわたしは聞いてみた。

「ああ……、お嬢さん、うちの前で倒れていたらしいね。うちの女房が見つけて家に入れたんだけど、足を切ってるらしくてね~。出血が酷かったらしいよ。でも、娘もいたから、娘が……」

 彼の目は一点を見つめていた。そして、彼からは、まったくもって生気が失われていて、何よりも私と彼との間にある距離感と、彼の微動だにしないその姿から彼が極度に硬直していることがわかった。それは捕食者に食われることを恐れている被捕食者のようであった。

「食事はいただけますか?」

「ええ、もちろん」

「食卓にないので出していただけますか?」

「あ……、ああ」

 その言葉を発すると私が確認する上で初めて、彼が動き始めた。その際に何かが右腕の先の方から光った。しかし、すぐさまその男は右腕を後ろに隠した。そして、利き腕ではないであろう左手で食事の用意をしている。その際右腕はわたしに見えないようにしていた。

「どうぞ」

 震える左手で彼は食卓に食事を提供した。そして、わたしは横たわっていたソファーから椅子に移り、用意されたものを食べ始める。

「…………」

「…………」

 スープをすする音だけが聞こえる。

「…………」

「…………」

 そして、室内の構造に目が行く。およそ入り口は一つだけである。地下室があるがその先は行き止まりだろう。さらに特に目立っているのが、室内に干された洗濯物の大きさである。どうでもよいことなのかもしれないが、男の女房とやらは恰幅の良い人なのだろう。意識を失う瞬間にものすごい力で持ち上げられたのもそういう人であったのであれば納得がいく。

 そして、スープは半分ほど食べたところで、一旦食べるフリだけをした。

およそ長くはいられない。そんな気はさっきからしていた。

外がやけに静かである。異様なほどに……。

「助けていただいた奥さんと娘さんはいらっしゃらないんですか?」

 核心を突く質問をした。当然男は焦る。

「あっ……、にょ、にょうぼうは……、いま使いに行ってまして……。娘もいっしょに」

 声は裏返っていた。

「(こんな夜にか……)」

 そして、私は左足を確認した。

いける!

天井から吊るされている蝋燭を、素早く立ち上がりながらとり、その火をスープの液体に浸した。

部屋は窓から洩れる月夜による明るさはあったが、明らかに暗くなっていた。

それと同時に男はひょんなことに驚き、奇声をあげ、こちらに殺意をもって近づいてきた。もちろん彼は右手に私のいつも使用している鋭利な殺傷道具を持ちながら。私が眠っているうちに武器という武器は奪ったのであろう。

私はこの時躊躇することなく、男を殺そうと思った。しかし、助けてもらった男の妻子を思うと体は自然と出口の方へ行き、そして、右足の靴に隠しておいた短刀を取り、そのまましゃがんだ状態でドアを開けるとそこに当然待ち構えていた近衛の一人の首を掻っ切り、撓乱したその場を予想よりも少ない兵士の合間を逃げ切り、そのまま街の中心部から縁部の方へと続く道の方へと行った。



 うまく走れている。

 うまく撒けてもいるようだ。

 少し走ると心にも余裕ができて、先ほどのことを自然と思い始めた。あの手の裏路地の人々はこうして金を得ているのであろうと。路地に逃げ込んだ人々を介抱するという名目で捕まえては、奴らを呼び、それで報奨金を得るなんて、姑息な真似を……。

 でも、あの男の妻子はわたしを匿ってくれたのだろう。そうじゃなければ、早々にわたしを売ったに違いないが……。

 まあ、わたしが回復魔法を使えるということは、あの男からしたら、手の外であったのであろう。食事の用意をしている際にわたしは不審なあの男に見えないように回復魔法を左足に施していたことが、功を奏したようだ。おかげで歩けるようになったし、走ることもできる。

 しばらく煌めく星の下で夜風にあたりながら、月を目安に逃げる方向を探る。

 幸いにも路地を曲がったところで、街の城壁が見えてきた!

 あの壁をどう超えるかが問題だが、あの壁さえ超えられれば、奴らは追えないであろう。

 それまでが、勝負だ!

 わたしは少しばかり楽しかった。もし鏡があれば、そこに映ったわたしの顔は笑っているに違いない。隣り合わせに死がありながらも……。

 しかし、今更になって、あの男が嘘をついていたことを鮮明に理解し始めた。まずあの男の娘がわたしの足の腱しか治せなかったというのは、到底無理な話で、もし治せたとしたらその少女は高等魔術師としてこの家に住んではいないであろう。そのような腱だけ治すというピンポイントで回復魔法を扱えて、治療ができるのは年端もいかない少女には無理なことであった。実際にわたしの左足首には、傷口の上にさらに傷口が意図的に造られていた。それは傷がなければ早々にわたしに逃げられることを悟り、少女によって治った足の傷の上にさらに傷が加えられたのであろう。さらにあの男はわたしが誰かから追いかけられていたことはわかるだろうが、具体的に誰から追いかけられていたかはわかるはずがなかった。国家機密級の問題を場末の憲兵ごときが所管できるわけもなく、わたしを追っているのは、確かにあの男が言うように国王直属の近衛師団の精鋭が追っているに違いなかった。それを、およそ一度良心的にわたしをあの家の地下室にでも匿った際に近衛があの家を訪れ、その際に彼らは奴らのことを知ったに違いない。その後、あの男が家に帰り、わたしを奴らに売ったのであろう。この街には珍しい良心に少しでも触れた出来事であったが、そうはうまくいかなかった。そして、あの男は右腕を腰あたりに隠し、わたしが見えない位置に終始わたしのものをおいていた。男がわたしに食事を提供する際に、誤って利き手の右腕をだそうとして、光ったアレはわたしの所有していた剣が光に反射したからであるはずだ。

 何はともあれ、九死に一生を得た形になったようだ。

 そして、わたしに突き付けられた喫緊の問題は、あの壁をどう超えるかだ。

 あの強大な壁を……。

 しばらく走るうちに左足に違和感を持ち始めた。

 まさに先ほど傷を負ったところである。

 まだ走れる。

 感じるから、感じる。感じなければ、何も感じない。

 そう思うことでしか、この完全に癒えていない足をこのまま抱えて、とりあえず幾里も流浪していかなければならない不安をぬぐうことはできなかった。

 痛い!

 今度ははっきりとそう感じた。でも、走る速度は落とせなかった。当然、後ろにはわたしを追っている奴らがいるのだから。

まだあれから時間はそんなに経っていないはずだった……。

そう、あの時わたしが左足にかけた魔法はリベリアではなく、ルコーゼ。痛覚を鈍感にするための魔法。リベリアをかけている時間はなかった。それがじきに切れてくるのはわかっていた。でも、それは思った以上に早かった。

時刻は、夜。

夜といっても、まだ夜半ではない。わたしはしばらくあの家で眠っていたようだが、実際はそんなに眠っていたわけではないようだった。体の回復具合を見ればそうなのであろう。

この道の直線上の遠くから、松明の灯りが見える。あれは憲兵か近衛の二等兵だろう。敢えて、奴らと一戦迎え撃つこともできるが相手の数が不明確な上に、この手負いの状態ではますますこちらが不利だった。

そう考え、わたしは通り過ぎたこの裏路地を引き返し、別の路地へと入った。

およそ、この道の先は大通り。まだ酔漢で溢れているに違いなかったその道は、そこではむしろ大事を起こせない奴らから逃げるにはうってつけの場なのかもしれない。

 そう思うと、ただひたすら足を前へと地面に打っていった。

 後ろに何かの気配を感じた。

 ここで振り返ってしまったら、少しでも減速してしまうことになるが、もう首は後ろを向いていた。

 そして、足が止まった。

 先ほどの松明がこちらに近づいてくるのがわかった。

 まさかと思った。

 わたしがどの路地の分かれ道に入っていったかはこの複雑な構造になっている路地では容易にわかるはずがなかった。もしかしたら、相当数動員しているのかもしれない。

 そうであるならば、昼の数の比ではない。

 そもそもあの灯りをもつ者たちは本来単なる日課をこなすだけの憲兵の巡視員に過ぎないはずだ。

 それなのにわたしがいる路地を突き詰めている。或いは、相当数の奴らがいてその中の一部がこの道に入ってきているのか……。

 どちらにせよ、今となっては、先ほどの笑みはブラックジョークのほかに何物でもないことでしかなかった。あの余裕はもうない。

 しかし、一縷の望みとしてあるのは、わたしの進行方向にはまったく敵がいる気配がないことだ。

 また歩みを再開する。

 大通りに出れば、逃げられるかもしれない。

 そのことだけを念頭に今は今を生きるしかなかった。

 もし自分の人生の本があったとしたら、あの家の前がジ・エンドだったのかもしれない。もしかしたら、いまは神のいたずらによるエキストラステージを遊ばされているのかもしれない。でも、これがいつまで続くのか……。少なくとも登場人物の一人であるわたしには何も知らされてはいなかった。



 大通りは明るいはずだ。

 そのはずだが、どこまで歩を進めても、一向に街灯りが見えてこない。

 もしかして、道を間違えてしまったのかもしれない。

 そう思いながら、一本道だったこの道で初めての交差路に飛び出した。

 わたしは唖然とした。

 この眼前の現状にというよりも、全身から湧いた希望というよくわからなかった感情をようやく理解できたことに……。

 何かを理解するには、そのこととは真逆のことを考えれば理解しやすいのかもしれない。幸せだって、不幸が何かを思えば、何かわかりやすい。

 それと同じようなことが希望にも起こりえたのである。それは意図的というよりもひとりでに。

 わたしはどうやら今、大通りのど真ん中に放り出された状態にあるらしい。それも閑散とした大通りの。

 それが意味することは、いろいろあるのかもしれない。しかし、手っ取り早く結論を導き自らの体をこの街の外へと運ばなければならないわたしにとって、今考えられる一番最悪な事態を考えることがこれからの生存率を一番高くする方法なのかもしれないと思った。

 そう、それはわたしが奴らの罠にはまってしまったということである。その反省はいろいろある。例えば、向かいの建物の上にある人影はなんなのだろうか。もちろんその正体はわたしに吉報をもたらすことはない。つまり、彼らは建物の上からもわたしを追っていたということだった。そりゃあ、位置もバレるはずだ。

「はぁ……」

 もう左手からは、奴らが来るのがわかった。

 そう右方へと歩を進めざるを得ないだろう。不幸中の幸いだが、その方向は城壁がある方であった。

 左足の痛みは増してくる。

 もう走れないかもしれない。しかし、ここでのんきに魔法を使えば、明らかに追いつかれる可能性を高めるだけ。

 我慢するしかなかった。感じるのを忘れるしかなかった。腱はつながっていて、走れるのだから。

 さらに泣きっ面に蜂とでもいえば、いいのだろうか。

 わたしはあの壁を超える方法をまったく考えてなかった。いや、既存のやり方では無理であって、もはやわからなかった。

 あの壁は人の高さ二十人分ぐらいはある。もし強化魔法を使えればあの壁は超えられる。でも、それを使えば回復は使えない。回復を使えない状態で強化を使ってもあの壁の向こうにはいけない。

 なんだか笑えてきた。

 窮地にしまい込まれると、どうやらそれはそれで楽しめるのかもしれない。余裕はないが、余裕は作れるらしい。

 でも、わたしはまだいいのかもしれない。本当の弱者は、抗う術すらない。わたしは少なくとも抗う術はもっている。

 右手にもっている短刀があれば、百人力と思えた。

この街の近衛と憲兵ごときなら、やれる。

背後から屋根伝いに、陸伝いにわたしを追う奴らを背にしながら、道を直進していると中規模な橋を確認した。

これは渡りに船なのかもしれない。

そう思えた。

この街を突っ切る川は城壁の外に繋がっているはずだった。つまり、その川の中を素潜りして、そのうちに外に出られるかもしれなかった。

幸い川の流れは、こちらから比較的近い壁に向かっていた。

私は今まで来た方向からして左側に向かって方向を転換した。

まずは川沿いをひたすら降りていく。

 この方向には奴らはいないようであった。

 左足からは痛みだけではなく、血液が多量に排出されていく。そのせいで靴の中はその血で浸った状態であり、非常に走りにくかった。

 もう少しの辛抱と思うことでしか、とりあえずを過ごせなかった。

 もちろん仮に助かったとしても、その後に自力で生き延びることができるかわからない。希望はとっくに捨てていた。それでも、生への執着はまだあった。それはこの世界に救いをもたらさなければならないというわたしの使命を淵源とするものが発信源であった。

 まだ死ねない。

死にたくないのではなくて、死ねない。

ただそれだけが、頭の中で繰り返されていた。

ということは、どこかで死んでも別にいいと思っていたのかもしれない。これからもこんなにしんどいことが続くのであれば……。そちらがわたしの意志であると思えることが幾度もあったが、この世界の理不尽はわたしの手で止めなければならない。そのことだけがわたしの生への固執を保っていた。

「悪は裁かれなければならない。そうでなければ、この世界に神がいる必要がない」



 ずいぶんと走ったところで思い知らされたことがあった。

 この川沿いに大型の船着き場と船が見当たらないことに。

 もし大型の船があれば、それは都市内の交通に使われるというよりかは、隣町との交易、往来のために使われるはずである。さらにこの街の規模だと大型船がないということはない。その船がないということは、この川の先はある程度の大きさを擁した個体は通れないようになっているのかもしれなかった。そして、城壁の外にその船の停泊地が造られているのかもしれないのである。

 しばらく道なりに行くと川幅が狭くなり、川の流れが速くなってきた。

つまり、そういうことか……。

もうこの川を使った脱出は不可能だということがわかった。

そう確信した上でほかの方法を考えながら、実際のその現場を確認した。

そこでは、城壁の方へと吸い込まれるようになっている川が用水路のように地下へと繋がっていった。その入り口には頑丈な鉄格子が手のひらサイズの穴を作るように交差してその口をふさいでいた。

運も付きかけているのかもしれない。

 もう城壁にはたどり着いたが、どうすることもなかった。城壁の内はそれを内から囲むように円状に城壁に沿って道ができていたため、左か右かどちらかに行くしかなかった。

「またか……」

 左の方から灯りが見えた。

 右に行くしかなかった。

 もしもっとこの街の構造さえ分かれば、もっとうまく逃げ切れると思った。少なくとも下水の構造を知っていれば……。

 それにしても、この街のこの区画はやけに静かであった。先ほどの大通りも含めてだが……。

 でも、わたしごときに総動員をかけるともやはり思えなかった。

 だから、近衛の特殊精鋭と夜勤の憲兵だけだろう。

 ならば、隠れ家を探して、傷が癒えるまで、そこに身を隠すのが良策かもしれない。

 再び裏路地に逃げ込む必要がある。

 どこかからそこへ移らなければならないが、なかなか路地が見つからない。

 でも、こんなんときにどうしてであろうか。見飽きたはずの月を見てしまう。

「今日も、月がきれい」



 随分と走った気がする。

 それは例えばさっきの大通り沿いを直進していたら、ちょうどぶつかるであろう壁の辺りにいた。

 さらに異様な雰囲気が一帯を包んだ。

 街が死んでいると思えるほど、静寂が支配していた。

 いや、街が死んでいるわけはなかった。そうじゃなくて、死んでいるのは……。

 その瞬間、わたしは地面に倒れそうになった。と思いきや、空を見上げることなしに空を眺めていた。何が起きたかはわからなかった。でも、刹那的に幼少のころに聞いた星の物語が頭の中を錯乱した。

そうしたら、途端に頭を地面にぶつけた。

痛かった。

立ち上がらなければならない。

でも、もう足には力が入らないようであった。

そうか……。もう疲れて歩けないのかな?

人間は意外にも肉体の限界を超えると突然、強制終了することがあるらしい。

でも、おかしかった。

ものすごく痛いはずの頭の痛みは消えたのに、痛かった。

どこが痛いのか? それは下の方であった。

わたしは、声も出なかった。痛みは感じなければ感じない。

だから、歩けるはずだった。でも、もう歩けない。なぜなら、わたしの体から歩くという機能を持った部位が消去されていたのだから。

なるほど、そうか……。

これはもう終わりらしい。

辺りが段々と明るくなってくる。

昇天されているのか?

でも、痛いし、その灯りは美しくもない。見慣れた松明の灯りであった。

「むやみに近づくな! もう奴の命は短い。そのまま待機していろ!」

 死ぬ前というのによく見えた、そのもはや情景ともとれる景色は、憲兵たちがみな銃口をこちらに向けていた構図をしていた。さらにその中心に立つ男の徽章は近衛を表すもので、この街の近衛のものではなかった。およそ王都のものであった。

 予想外であった。わたしごときにこれほど兵を動員して、街の一部に戒厳令を敷くとは思わなかった。正確には、わたしに用があるのではなく、わたしの持ち物に興味があるのであろう。

 はぁ……。

 もうわたしの命の灯は短い。

 死ぬのか。

 死ぬんだ。

 もう死ぬ。

 明日は来ない。

 わたしは主人公にはなれなかったんだ。

 わたしはおもむろに目を閉じた。



 古い声がする。「本来その木は、何のためにあるのか。少なくともその真実を知っている人間は多くない。なぜなら、それはべリウスの神話に書かれているのだから。神話を知るものを私は知らない。べリウスの血を引く私でさえ知らないのである。しかし、べリウスにはこの世の真理が書かれている。まずはその神話を知ることからだ……」

 今度は、心に残った声がする。「ストフには、今使われている使い方とは別に古く禁断の儀式として使われてきた使い方があるとされている。それはストフを人の心臓に宛がい同化させることである……」

 どういうことだろう。

 もし神がいるのであれば、神の声というものに近いのかもしれない。

 でも、これは確か出会ったことのある人の声だ。

なぜいまそれを思い出すのか?

 走馬灯というやつなのか?

 なら、もっと楽しかった思い出がよかった。真理とか儀式とかいった胡散臭いことじゃなくて、もっと楽しいことが……。

 わたしは何かを見つけた。

 それは輝く何かである。

 わたしは美しいなにかを、正直に美しいと言えた。

 その美しいものは、美しい。

 つい言葉にしてしまうことがある。

「きれい……」

 その言葉は、単なるうわ言ではなかった。それは何かからの刺激を受けたうえでの表出であるのだから、そこにはもとがあった。

 そう、それはわたしの前で青く光っていた。

「ストフ……」

 月光に照らされ、燦然と輝いていた。

再び言葉が流れる。「残念ながら私は、これ以上のことを知らない。もし君がこの世界を救う気があるのであれば、どうすべきか、もう決まっているがな……」

また他の言葉が頭の中を支配する。「それを行うことで、死んでも死ぬことはない不死身な体を手に入れることができると言われておる……」

ストフには、不思議な力がある。

そんなことはわかっていた。

それが欲しいから皆、それを奪い合っている。わたしもその一人だ。

だが、その使い道とやらはどうであろうか。

およそ誰も知らない。

本当の使い道というものを知らない。

でも、わたしはそれがわかった気がしていた。

あの老人の言葉。そして、あの司祭の言葉。

それを紡いだ先にわたしのやるべきことが待っている。

人は死ぬのであれば少しでも可能性のある死を選ぶのかもしれない。死んでも生きた証を残そうとする。

それはわたしも例外ではなかった。

死と向き合った際にわたしは死ぬのが怖いわけではなかった。それよりも世界が全く変わらない無機質なままでありつづけて、生きているものが道具として使われつづけることが嫌だった。

それを変えるために、わたしは生きてこれからも生き続けなければならない。

もうどうすべきかは、わかっていた。

わたしの眼は外の状況を把握できるほどに開き、現状を理解した。

わたしは死ねなかった。わたしは世界を救うために生きるんだ。



わたしは、まずちょうど視線の先にあるストフを右手で手にし、さらに先ほどの衝撃で地面に落ちた短刀をまた右手で持ち、その間に現在使いえるすべての魔力体力を費やし、強化魔法を両手に使用し、さらにそれと同時に強化した左手で体を起こし、体のちょうど胸あたりの中心から少し自分からみて左側の部分の肌が露出するように、着ていた服を左手で破き、そして、右手の短刀で、肋骨が左手で直接掴めるようにするために、肉に切り目をいれ、さらに肉を剥ぎ、肋骨も心臓が剥き出しになるように取り去り、そして、意識があるうちにその曝け出された心臓に切り目を作り、そこにストフをぶち込んだ。

「この世界は救いようがない。そんな世界にわたしはただひとり……」



 彼女は、まばゆいばかりの青石の輝きに覆われながら、その世界から姿を失っていった。


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