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紫荘の人々  作者: 中野あお
201号室:桐谷樹
4/20

1ー3

「お前もこの授業取ってたのか、よかった。」


 授業が始まってから三日がたった。

 英文学の一般教養の授業を受けようとしていると、後ろから金井かないに声をかけられた。彼とは英語やフランス語の授業などで一緒になり、学籍番号が近かったため話し始めたら、思いのほか話が弾み、大学生になってからの友人第一弾となった。


「般教は取れるだけ取りたかったし、一応文学部だからこういう文学部っぽいものもやっておきたいじゃん。」


 まあ、俺の興味は国文学だけど、文学部に入ったからにはいろいろ学ぶのも悪くはないし、専門科目がほとんど用意されていない一回生のうちは、一般教養科目で知識を深めることが大切だと考えているのは本当だ。


「ところでさ、桐谷は何かサークル見に行った?」

「いや、まだ行ってないな。金井は行ったのか?」

「昨日、フットサルサークルを見に行ったわ。高校の先輩がいるからさ。その縁というかなんというか。でも、入ったりはしないかな。」


 この時期、どんな新入生と会っても話せるネタが二つある。一つがサークルの話、もう一つはセンター試験の話だ。そして、後者に関しては、もう悩む必要のない話ではあるが、前者は今の重要な話なのだ。だから、会えばこの話をする人も多い。


「お前、一つも見てないんだよな。この後さ、暇なら一緒に新歓に行かないか。」


 特に予定もなかったので、金井の提案を了承する。

 ちょうどそのタイミングでチャイムが鳴り、教授が話し始めた。すでに教室に教授がいたことには気づいていなかった。


 授業が始まったといっても初回ということもあり、授業の内容や成績評価の方法についての説明だけで授業は終わった。


「まだ、四限の時間帯だけど、もう新歓やっているのか?」

「わからないけど、とりあえず、中央広場に行ってみようぜ。」


 俺たちが授業を受けているこのN館は一般教養と語学の授業を行う建物であり、一回生の前期はこの建物での授業しかない学生が多いため、N館前にある中央広場が新歓の待ち合わせや勧誘場所となっている。そういうこともあり、新歓に行きたかったら、とりあえず中央広場へと向かうというのが定石らしい。


「ところでさ、今日は目当てのサークあるのか?」

「美術部を見に行くって、さっき言わなかったか。」


 案の定、聞いていないことだった。


 かなり短い付き合いだが、彼に関してわかったことは少なくない。その中で一番気になっているのが、さっきのような「話したつもりでいる」という癖だ。彼の中では話が終わってしまっているという事がわずかな日数の付き合いの中で何度か起きている。なので、彼と会話する際には確認をとりながら話すことが大切なのだと思っている。いや、本当は彼が気を付けるべきだ。


 広場ではすでにいくつかのサークルが看板を持って勧誘を始めており、その中で、目当ての美術部らしいものはない。


「ねぇ、馬とか興味ない。競馬じゃないよ、馬術。馬に乗ってみない。」

「うちさ、マンドリンオーケストラっていう音楽系のサークルなんだけどさ、一度、マンドリン触ってみない。可愛く小さなイタリア生まれの楽器だよ。ギターもあるよ。」


 探している間にも様々なサークルからの勧誘を受け、その度に、興味を惹かれ、話を聞きそうなってしまう。それを金井が上手く断ってくれている。こういう場は、彼に任せておく方がよさそうである。俺みたいに流されがちな人間はこういう場ではカモでしかない。


 金井が移動する後について行き、広場の中心まで行くとお目当てのサークル、美術部青葉会と書かれた看板を掲げている人物がいた。人が多くいる中でも目立つほどその看板は高く上がっている。金井はその看板を持った背の高い女性に近づいていき、声をかける。


「お久しぶりです、先輩。」

「あら、金井君じゃない。久しぶり。この大学に来てたのね。」

「はい。それで、山本先輩から美術部に先輩がいるって聞いて、見学させてもらおうかなと思いまして。そこのやつも一緒に連れてきたんで。」


 そう言って、金井は俺の方を振り返える。先輩と呼ばれた人物も、金井につられて、俺の方を向く。


「早速、人連れてきてくれるってよくできた後輩だね。なら、部室まで案内するからついてきてね。あと、君の名前教えてもらっていいかな。」


 そう言いながら、一歩一歩、俺の方へ先輩なる人物が近づいてくる。


「えっと、桐谷です。」


 名前を言う頃には、先輩との距離が五十センチほどにまで狭まっていた。初対面の女性にここまで距離を詰められることは。さすがに初めてなので戸惑ってしまう。


 だが、それよりも直接的に俺を困らせているのは、相手の顔を見て話すために見上げる首が痛いことだ。

 俺が小さいのではなく、先輩が大きいのだ。175センチはある俺が見上げなければならないくらい大きいのだ。この人は、おそらく190センチほどではないだろうか。


「先輩、そんな近づいたら、桐谷が困ってますよ。」


 金井からの助け舟がやってきた。


「ごめんね、よく近いって言われるんだ。目が悪いのにコンタクトも眼鏡も忘れることが多くてさ、近づかないと顔とか見えなくて。」


 そう言いながらも先輩が離れる気配はない。俺の方が下がっても一定の距離は保ってついてくる。祖の距離じゃないと見えないのだろうか。


「美人に近づかれるのは悪い気分じゃないんでいいですけど、さすがに首が疲れるので、もう少し離れていただいてもいいですか。」


「そんな美人だなんて言われたら照れちゃうな。あれ、もしかして私を口説いてたりするのかな。まあ、確かに万年フリーな私だしさ、桐谷君の容姿は好みだから、良いかなあとも思うから、もう少し仲良くなったりしたら考えてあげるよ。これは割と本気の回答だからね。とりあえず、あとで連絡先交換しようか。」


 さらっと口にしてしまったことに対して、ここまでの反応が返ってくるとは考えてもなかったので、こっちが困ってしまう。しかも、こちらが距離をとっても、一言話すたびに近づいてくる。


「先輩、桐谷は後でちゃんと貸してあげるので、とりあえず部室まで案内してくださいよ。」


 金井からの呼びかけで本来の目的を思い出した先輩が、看板を持ったまま歩き出したので、そのまま後ろをついて行く。

 彼の二度の助け舟によってあの場を乗り切ることができた俺は、この先輩の前で不用意なことを言わないことを心に誓った。


 そして、二時間後、その誓いを破ることになったのだが。

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