人の話は最後まで聞きましょう。
学校へ向かう電車に乗り込んだ俺は、ため息を一つついた。
こんなことでいちいち気を落としているようでは、いつまでたってもみー先輩に気を遣わせるばかりだ。自分が思うよりもずっと、二年の人生経験は余裕を生むようだ。否、みー先輩だから、かもしれないが。
うちの超人お兄様とは違った意味で、みー先輩の隣に並べる日が来る気がしない。そもそも比較対象として、夏兄は適切でないだろうけれど。あの人はもはや化け物だ。
そんなことを考えているうちにも、大学の最寄り駅に電車が到着する。通学時間が短いのは本当に素敵なことである。もっと近い大学にすればよかったと何度思ったことだろうか。
正門を通り過ぎ、大学図書館へ向かう。今日の授業で使うための教科書を借りるためだ。自動ドアを二枚潜り抜けると、びっくりするようなセキュリティゲートが待ち構えている。大学図書館というのはどこもこんなに厳重なのだろうか。あまりに立派なゲートが用意されているのは、どこの大学も同じなのだろうか。いったいここは入国審査ゲートか何かだというのか。
とにかく、教科書を数冊抱えて教場へ向かう。分厚い書籍を抱えていると、なんていうか、大学生らしいなと思う。だからといって高尚な学問に臨んでいるとは思えないが。
春姉が法学、夏兄が工学、そしてかくいう俺は文学部だ。何をしているのかわからないと称されることが多いのだが、それも頷ける話だ。実際、俺も自分が何をしているのかわからない。どちらかといえば近代文学の方が好きなのだが、何故かみみずの這いずった後のような筆跡を解読している。
空きになっている教場の中には、いつも見る顔がちらほらとうかがえる。電車の関係からか、大体の学生が、大体同じ時間に教場へ来るようだ。そして大体同じ場所に席をとる。例に倣って、俺も先週と同じ、縦長の教場の前寄り窓際のテーブルへ手に持っていた教科書を並べる。
椅子に腰を下ろして、結局昨日購入した漫画を一冊も読み終えられなかったなぁ、と思う。かといって、ここで開くわけにもいかないので、家に帰るまでは我慢するしかない。そして家に帰ったからといって油断はできない。春姉にばれないように自室に引きこもらねばならない。漫画を読むだけのはずなのに、道のりはひどく長いようだ。解せぬ。
そして適当にケータイをいじっていると、こちらもまた、いつも通り、講義開始まで五分を切ってから弥が現れた。眠そうにあくびをしている。
「アキ、おはおは」
「おはよ。ずいぶんと眠そうだけど、またネトゲでもしてたのか?」
「大正解。今回のランキングが結構ギリギリでさあ。必死でやってて、気が付いたら朝とか本当笑えないわ。久々の徹夜はしんどい」目をこすりながら弥が答える。ゲーマーは大変そうだ。
「……、でそっちは? よく眠れたわけ?」
「え? あ、うん、普通に。日付が変わってからすぐに寝たよ」
「……、そりゃよかった」大仰にため息をついてから弥は言った。いったい何の話だ。そんな俺の疑問を意にも介さないように、弥は続けて言う。
「まあ、俺の寝不足はともかくさ、アキにお願いがあるんだけど」
「嫌だ」大体、弥がこう切り出してくる場合にいいことがあった試がない。経験談からの自己防衛のため、俺は間髪入れずに断った。
タイミングよく始業のチャイムが鳴ったが、教授はまだやってこない。早く来てくれればそこで話は打ち切れるのに、と思う。
「内容くらい聞いてくれたっていいじゃんか!」
アキにしか頼めないんだよ、などというものの、サークルにも所属している弥には俺以外にも友人が大勢いるはずだ。ほかのやつに頼めばいい、と内心で呟く。
「……で、何なのさ。一応聞くだけはしてやる」
「来月ギターが一人足りないので入ってください」
「拒否」
「えー! なんで! アキ、ギター上手じゃんか。今回ちょっと難しい選曲でさ、ほかに頼める当てがいないんだよ」
弥がいうほどに俺は技術のある奏者じゃない。それに、前回のライブからもう半年近くたっている。あれから一度もギターに触っていない俺に、どんな曲を弾かせるつもりなんだ。それだって、どうしても、というから二度目はないという断りを入れて、しぶしぶ引き受けたのだ。
「できる曲に変えろよ、まだ間に合うだろ。それにギターはもうやらないって前回言ったはずだ」
これ見よがしに唇を尖らせる弥。「アキがギター弾いてるの、すごく好評だったのに、もったいないと思うんだよ」
「そっちが主たる理由だな。弥、俺に頼むの前提で選曲しただろ」
「ていうか、普通にお前上手いから頼んでるんだよ。なんでここで謙遜するんだよ」
弥は軽音サークルでベースを担当している。二か月に一度程度のペースで、コピーだったりオリジナルだったりをライブで演奏する。弥自身も作曲したり、結構本腰を入れて活動しているようだ。それを応援したいという気持ちはある。しかし、それとこれとは話が違う。
「アキが参加してくれるってメンバー揃えちゃったんだよ、な、お願い!」
「おい、何勝手に人の名前使ってメンバー集めてるんだよ……、しかも俺の了承とる前……」
ふざけるな、という気持ちの前に呆れがやってくる。弥の弥たるゆえんとも取れるが、巻き込まれる側の気持ちも考えてほしい。
「とにかく俺はやらないよ? 曲の難易度以前の問題だ。俺はそういう場には立ちたくない」
「聞けって、アキ。今回の曲、お前のギター意識して書いたんだよ。どうしてもお前に弾いてほしくて、お前の得意なフレーズ盛り込んで作った曲なんだ。好評だったとか、そんなも結局どうでもいいんだ。俺がアキの弾くギターが好きなんだって。分かってくれよ」
これだから。これだからこいつは。弥ってやつはこういうことを恥ずかしげもなく言って来る。そこが好ましい部分でもあるのだけれど。だから、俺はいつもこいつの押しに弱い。
「……譜面」俺は息を吐いてから言った。それに弥はぽかんと口を開けた。「譜面はもちろん出来てるんだろ? 目は通してやる。俺に出来ない譜面だったら突っ返すし、練習して曲が悪かったらやらないからな。そこまで言うんだからいい曲じゃなかったら許さない」
「愛してるアキ!」と、俺に抱きついてくる弥。野郎二人が抱き合っている絵なんて二次元だけで十二分だ。
今回も結局折れてしまったと、自分を嘆く。仕方ない、久々に弦を張り替えてやらないと。
帰りに楽器屋付き合えよな、と言ったら二つ返事が返ってきた。
教授が教場にやってきたのは、結局その会話のすべてが終わってから更に五分以上立ってからだった。
どうでもいいことですが、アキが思っているほど、弥君の交友関係は広くありません笑