よく噛んで食べましょう。
深呼吸をして、暗い気持ちを追い出して、目の前の食事に集中する。
表情を乱さないのは得意技だ。こればかりは小さいころから鍛えられてきた。特技といっても過言ではない。先輩にもばれてないはずだ。
……ほら、大丈夫。
先輩がこちらから目を外したのがわかって息を軽く吐き出す。
早く食事を終えて、おいとまするとしよう。これ以上先輩に気を遣わせるわけにはいかない。
言えない言葉は朝食と一緒に飲み込んでしまえば良い。
ごちそうさま、とつぶやいて食器を下げる。
その間にも淡々と先輩は家事をこなし、おそらく一通り終えたのだろう、ようやくソファに腰を落ち着けた。横目でちらりと先輩の方を見やるが、先程までの心配するような雰囲気は微塵も見受けられなかった。
「そろそろ梅雨がくるわねえ」と、先輩がポツリという。もう春は終わってしまうのかと思うと、少しだけ寂しいような気がした。
春は好きな季節だ。風が何か新しいものを運んでくるような気がする。なんて、口に出したらからかわれるのは目に見えているのだが。
夢見て許されるお年頃はもうとうに過ぎてしまった。いい歳をした大人なのだから、と言われてもおかしくない。
小さいときに自分の思い描いた二十歳は、こんなにふわふわした感じではなかったのに、と思う気持ちもあれど、どこかでこんなものだろうと思っている自分もいたりする。
とりあえず、目の前にある食器類を片付け終わったところで、改めて学校へ行く準備をする。……とは言うものの、忘れ物さえなければ困ることはない。さらにいうのであれば、忘れ物をしたところで先輩に連絡さえすればいいだけの話だ。
ケータイと充電器、そして財布と定期。手元になくて本当に困るのはこれくらいだろう。それらの存在をトートバックの中に確認。歯磨きをして、身だしなみを整えたら外出の準備はばっちりだ。
優雅に紅茶をたしなんでいる先輩の隣に腰を落ち着けると、すかさず「準備できたなら早く行きなさいよ」という冷静な突っ込みが入る。その通りではあるのだけれど、そうなのだけど。
「でもほら、朝ってなんとなくゆっくりしたいじゃないですか」
「……その気持ちは十二分にわかるけれどね」
やれやれ、といった顔でこちらを見てくる。じっと目を見つめられていると、瞳の奥の考えていることまで伝わってしまうのではないかと、少しだけそわそわする。
意図的に目をそらして、流石に出かける準備をしないと、と笑顔を作る。うまく装えたかどうかはわからない。
準備と言っても、さっきの時点であらかた終わっているので、やることなんてほとんどない。
ソファに座ったままの先輩に「じゃ、行きますね」と声をかけると、玄関先まで見送りしてくれた。
「せいぜい勉学に励みなさいね」
「わかってますよ」
行ってきますの言葉に先輩はひらひらと手を振って応えた。
くるり、と背を向けて歩きだすと、思ったよりも大きな音を立てて玄関の戸が閉まった。
今日は家に帰らないといけないな、と思うとため息が一つ出る。
深く息を吸い込むと、駅に向かう道を踏みしめた。
次はミキちゃんの独白です。