落ち着いて行動しましょう。
朝起きると、夏兄が珍しいことに慌てながら出社の支度をしていた。夏兄の朝は、ほぼ毎日同じ時間に同じことを行うルーチンワークが決まっているので、バタバタしながら朝を過ごしているのはだいぶ久々に見た。昨日は一体何時頃帰ってきたのだろうか。あまり遅い時間に帰宅することがない人なので、いろいろと問いたいのだが、今の夏兄なら視線で人を殺すことも可能にしかねないのでやめておくことにする。まだ死にたくない。
そんな夏兄を食卓から眺める父さんのまなざしは、びっくりするぐらい生暖かいものだった。気持ちはとてもわかる。と、父さんと目が合う。俺に向かっては苦笑いである。大方俺の表情も大差ないだろう。
ドタバタしながら身支度を整える夏兄は、普段家の中ではラフな格好しかしないので、スーツを着るとまるで別人だ。スーツを着ると、ちゃんと社会人に見えるので不思議である。
そんなこんなで朝からバタバタのリビングに我が家の長女様の姿は見えない。おそらくいまだにベッドの上だろう。俺の部屋から何冊もの漫画をごっそりと抱えて出て行ったので、どうせ明け方まで読みふけっていたのだろう。いくら春姉でもあの量を一晩で読みつくすには結構な時間が必要なはずだ。
実家だからといって、この堕落具合を見るに、自宅ではどんな生活を送っているのか分かったものではないな、と思う。思うだけで口には出さない。うっかり言葉にしようものなら三倍以上の重さで反論が飛び、あっという間に論破されるところまでが容易に想像できる。こちらもこちらでまだ平和に生きていきたい。
食卓に着いて母さんが用意してくれたトーストを咀嚼しながら、夏兄があわあわしている貴重な光景を眺めてみる。かくいう俺も、適当に準備して家を出ないといけないのだけれども。ぼんやりと食事をしていたら、夏兄がテーブルの向こうからずい、と乗り出して顔を近づけてきた。うん、近い。それに俺は若干身を引いた。
「なに、どうしたの」
夏兄は夏兄は答えない。慣れっこなので気にもしないけれども。常日頃から自由な人なのでいつものことである。最初から会話の成立を期待していない。そこまで言ってしまってはさすがの夏兄でモへこんでしまいそうな気がするの。
表情の読めない顔で「ふうん」と一言だけ発すると、すっと顔を離していく。どうやらここで会話は終了のようだった。
至近距離で見ても驚くほど整った顔立ちだった。普段はなかなか直視する機会もないのだけれども、改めて見ると驚くほどの美形である。父も母も普通の人なので、これが世にいう隔世遺伝ってやつなのだろうか、と割と真面目に考えている。小さいころは血がつながっていないことも疑ったほどである。
これだけ綺麗な顔をしていればモテたはずなのに、それをすべて性格が台無しにしている。なんていうか、残念な人だというのが今の俺の認識である。
綺麗なものや美しいものの前では身がすくむような感覚を覚える。気のせいなのかもしれないが、やはりどこか触れてはいけないと思わせる何かを有している。
上着を着て、服装を整えながら「目が」と言う。
「アキの目がきれいだって言うから確かめようと思って」
「え?」
誰が夏兄にそんなことを言ったのだろうか。否、思い当たる人は一人しかいないが、あの人はそんなことを言うのだろうか。
「夏兄、昨日は先輩と」「アキ」
そこから先は夏兄の冷ややかな声で制止された。
「察しがいいのは決して悪いことではないと思うけどね。全部話をしてしまったら面白くない」
気になるなら本人に聞くといいよ、と夏兄はいたずらっぽく言った。からかわれているのかもしれない。
ネクタイを締め終わった夏兄はじゃあね、と言って出て行ってしまった。
一部始終を見ていた父さんが珍しい。と声を漏らした。
「朝から暁良が夏樹にかまうなんて珍しいな……、ひょっとしたら夏樹が寝坊するよりも珍しいんじゃないか」
「……、父さん、それは嫌味なのかな?」
「息子たちが仲良くしてくれてうれしいって言いたいのよね、父さん」と母さんが通訳してくれた。訳は大正解のようで、父さんは新聞で顔を隠してしまった。母強し。
でもね、と母は続ける。「春も夏も、アキにかまってほしいのよ。ちょっと方法はどうかと思うけれども、まぁ、親の私たちよりも過保護よね……」
何を、と言おうとして母さんを見ると、あまりに真面目な顔だったので、俺は口をつぐんだ。
「本当、不器用なのは誰に似たのかしら。ねぇ。二人ともアキのことが大好きなだけなのよ、ね、父さん」
急に話を振られた父さんは新聞の向こうで、むぐう、という謎の効果音を発していた。
そんなことはあるのだろうか。あの二人は、俺のことなど何も思っていないような気がするのだけれども。
不服そうな顔をしていたらしく、母さんに眉間のしわを指摘される。
もし、もしも。それが本当だとして。
今さらどうしろっていうんだ。
夏兄が動き出しました。