朝、それも静かな朝
遠くで救急車のサイレンが聞こえた。
咄嗟にそちらのほうへ顔を向けそうになるが、直ぐに、目の前に立つ潮風で錆びた時刻表に焦点を戻す。
6:42。
夥しい程並ぶどうでもいい数字の羅列から、その三つを頭に書き留めると、男は横にいた女にやっと、唇だけの笑顔を見せた。
「間に合うみたいだ」
上着を羽織るでもないこの時期に、女の小刻みに震えているのが、男には左頬からでもわかった。
「これは黄色よ」
「いいじゃない、黄色」
女は尚も、錆びた時刻表から離れようとしない男から顔を遠ざけた。
「そう。でも、違うわ。これだとしっくりこないもの」
そう言って女はまだ新品の水着を、近くに置かれていたゴミ箱に投げ捨てた。
「頼むよベル、要らないんだったら最初から盗らないでくれ」
「その呼び方はやめて」ベルは小声で言った。
「――だって、嫌よそんなの。一度手にしてみないとわからないもの。それに」
「それにその時のでは、やっぱり駄目なのよ。――ちょっと」
女は、辺りにきょろきょろと目を配らせながら、忙しく水着を拾う男をせせら笑った。けれど彼女からは何も聞こえなかったし、男のほうでも彼女に顔を向ける余裕を持ち合わせてはいなかった。
「ねぇ、貴方はどうしてそう――」
「それは」男はわざとらしく大きな伸びをしながら答えた。
「それは、半分は、僕がそういう人間だからさ。もう半分は、君がそうして欲しいと思ったからだよ」
「どうして?」彼女の問は、無音の波に掻き消された。
「私、先に戻るわ」
引いていく白い泡飛沫を横目で見ていた彼女は、一人エレベーターに向かった。
男は後ろに足音の聞こえなくなるのがわかると、誰もいない浜辺に向かって小さな咳をした。そうして一瞬、このまま裸になって、静かな青い水溜りの中に飛び込もうかとも思ったが、自室のソファに横たわる、あの覚えの無い死体の影が浮かんだので、実際、彼は瞼を一度閉じただけであった。
遣る瀬無い心持ちになった彼は、そっと右ポケットに手を突っ込んだ。そこには表面に『302』と無機質に彫られた、重いプラスチックの、小さな鍵と繋がった直方体が入っていた。彼はその直方体に彫られた数字を三度なぞりかけたところで、急いで手を引っ込めてしまった。そして足下の、黄色い水着が入った紙袋の取っ手を乱暴に掴み上げると、迫るだけの波音から逃げるように、両扉の前で何度も階数表示を見上げる彼女のもとへと駆けていくのだった。
彼にはまた、遠くのほうで、救急車のサイレンが聞こえた気がした。




