後編
明くる朝、体の乾きで目が覚めた。数歩で水に届くのに手足が全く動かない。眠りについてからあまり時間も経っていないようだった。
仕方がないので体を休めて様子をみていると、遠くから人の声らしきものが聞こえる。分厚い床の向こう、どうやら下の階の会話らしい。もっと集中して——…。
「あたくしは聞いたのですよ、昨晩なにやらあさるような物音を。あの迷いびと、もしや盗人ではないのですか」
「そんなはずありませんわ。彼女はわたくしの大切な友人。なぜ疑うのです」
「いえ、ただあたくしは心配なのですよ。姫様は城の調度の全てをご存知ないでしょう。ひとつくらいなくなっていても——」
「ひどいわ! なんてことを言うの」
「どうしたのですか、姫」
——あの男だ。
「ああ、それでしたら、客人は私たちにおやすみを言いに来たのですよ。
姫が寝ていたので起こさずに帰ってしまいましたが」
「そうでしたの! わたくし全然気づかなくて…。悪いことをしましたわ」
「そんな時間帯じゃないと思いましたがねえ…」
三人の声は段々遠ざかっていった。私は少しだけましになった体をベッドから起こす。瓶に入った水をひと口、続いて一気に飲み干した。
男はなぜあんなことを言ったのだろう?
正体不明の漂流者をかばうために?
「馬鹿な男よ、命を取られるとも知らないで」
最後の一日を、どうぞ楽しく過ごすがいい。
◦◦◦
使用人にあやしまれた4番目の人魚姫は、王子の機転で助けられました。
彼女は内心戸惑いました。かたきが自分をかばう理由など、思い当たらなかったのです。
◦◦◦
「おはようございます! よく眠れまして?」
女はさきの会話などなかったかのように平気な様子で部屋を訪れた。
「今日はあなたに贈り物があるの。見て、座ったまま動けるのよ」
見れば大きな茶色い椅子を引いている。
「私のために…?」
大きな車輪のついた木製の椅子。背もたれと車輪の内側に、花の模様がこまかく彫り込まれている。やわらかな木のぬくもり。海に落ちている流木とは違う力がみなぎっているようだ。
「美しいな」
じっと見つめていると、女が恐縮そうにうつむいた。
「ごめんなさい。実はこれ、王子からあなたにって譲られたの。以前特別に作らせていたものが、必要なくなってしまったんですって」
「いや、謝ることはない。……有難う」
王子——ちい姫の仇。私が殺そうとしている人間。
ただ憎いとしか思ってこなかったが、どんな人間なのだろう。
純真な人魚を捨てて、ほかの女と結ばれた男。極悪非道な冷血漢ではなかったのだろうか。
椅子に腰掛けると、足の負担は一気に和らいだ。
そう伝えると、女はとても嬉しそうな顔をした。
「さあ、覚えていて? 約束よ。絵のモデルになってくださいね」
「ああ」
絵には思いのほか時間がかかり、女は昼餉もそこそこに一所懸命筆を走らせていた。絵具の匂いも、色がドレスにつくことも気にならない様子でカンバスに没頭している。
椅子に座らされたまま、少しずつ日が傾いていく。私は刻々と過ぎる時間に焦りを隠せず、とうとう
「あとは明日に」
と願い出た。
“あとは明日”。——明日にはここにいないくせに。
「そうね。疲れたでしょう? お茶を淹れましょうか」
「見てもいいか?」
「ええ、もちろん!」
女の描いた絵は、お世辞にもうまいとは言えなかった。よろよろした線、あいまいな色、中央にたたずむ女性の目はなぜかうっとりと微笑んでいる。
「この周りの白いのは…?」
「天使の羽根よ」
女は私の目を見て言った。
「わたくしね、初めてあなたを見つけたとき、天使が舞い降りたのかと思ったのよ。…ふふ、おかしいわね」
そうだ、おかしい。頭がくらりと暗くなる。
私はあんたを殺そうとした死神だ。背負った羽根は真っ黒で、こんなふうにやさしく微笑むわけがないのに。
——これ以上、心を乱さないでくれ。
私は大きく呼吸して気持ちを取り戻そうとした。油絵具のにおいがツンと鼻を刺激し、現実へと引き戻してくれる。
息を吸ったら、嘘を吐くだけ。
「この椅子のおかげで足がとても楽になった。直接に礼が言いたいのだが、王子に謁見できないか?」
女の顔は見られなかった。
それでもわかる。女は少しの屈託もなく、いつもの笑顔で答えるだろう。
「わかりました。すぐ伝えますわ」
◦◦◦
人間の姫と仲良くなった4番目の人魚姫は、王子とふたりきりにしてもらうよう頼みました。
待ちに待った復讐のときが、ようやく彼女に訪れるのです。
◦◦◦
コンコン、というノックの音。
夕日が赤く染めた部屋に、あの男が入ってくる。私は衣服の陰でナイフをかたく握りしめる。
「このたびの厚いもてなし、誠に恐れ入る」
たとえ演技でも、それ以上の礼は言えなかった。この男さえいなければ……! 怒りが体を突き破って出てきそうだ。さあ、もっと近くへ来い。
「いえ、私は何も。……あの、失礼ですがあなたさまは、口のきけなかったあの娘のお知り合いではありませんか?」
突然の問いに、答えないのが答えになってしまう。
「やはり。城であなたさまをお見かけしたとき、たたずまいが似ていると思いました。でも、会わせる顔がなかった。
私は彼女を傷つけてしまいました。彼女の泣きそうな顔が、今でも心から離れないのです」
ちい姫と私は、姉妹の中で一番似ていない。それでもこの男は、私の中に妹を見たというのだろうか。
「ゆうべ…」
男は迷いながら言葉を続けた。
「昨夜は刺されてもいいと思ったんです。あなたの狙いは私だった」
「……」
「心を決めていました。でもあなたは、助けてくれた」
助けたわけではない。ためらっただけだ。結論を後に延ばしただけだ。今ここでお前を殺すのだ。
「申し訳ありません。結婚が決まって初めて、それまでそばにいてくれた彼女の大切さに気づきました。でも遅かった。あの日から、彼女は戻りません」
やめろ、やめろ、やめろ、やめろ、やめてくれ!
男の言葉が耳を通り過ぎていく。
そんなことは意味がないんだ。
謝られてもあの子は帰らない。
この男を殺してもあの子は帰らない。
あの子は、もう、帰ってこない。
「でも今は、妻を大事にしたいと心から思っています。家庭を築き、国を守り——」
「うあーーーーーーーーーー!!!」
声といえない声が慟哭となって体中から溢れ出た。椅子を放り捨てて全力で男に向かっていく。鋭いナイフの先を男の胸に突きつける。
「あの子はなくなった。あんたに恋した妹は、声も尾も失ってボロボロのままなくなったよ。海の泡となって、消えた!」
「なくなっ……た…?」
「そう! もうこの世にいやしない!」
「………本当ですか」
「ああ本当だ! あの子はあんたのせいで、祝宴の前の晩に命を落とした!」
瞬間、男がすとんとしゃがみ込んだ。逃がすものか! すぐに首筋をつかんで仰向けになぎ倒す。男は抵抗することなく、ただ両手で顔を覆っていた。
「…そんな……ああ……ラリア…」
「なんだと」
「私は彼女をラリアと……この国に咲く花が好きだったので………その花の名で呼んでいました」
私の知らないちい姫だ。
「毎朝庭で一輪ずつ摘んで…食卓に飾ってくれました」
しあわせそうなちい姫の姿が目に浮かんだ。花を見つめ、においをかぎ、生ける。そんな小さなしあわせも全て奪われてしまったのだ。この男によって。この男のために。
「…式の日に、風が吹いたんです」
「風?」
「結婚式の朝、彼女を探していると突風が吹いて……花吹雪といっしょに、鈴のような声が聞こえた。《しあわせになって》と——」
「嘘だ」
「そう、彼女はしゃべれなかった。私の妄想かもしれません。あるいは幻聴かも——」
「嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ!」
恨ませてほしいのに!
憎ませてほしいのに!
間もなく日も沈む。真夜中になれば私も消えてしまう。ためらうことはない。 手にしたナイフで突くだけ、それだけだ。
男は無防備だった。
——そして、ちい姫の死を悼んでいた。
◦◦◦
王子と話した4番目の人魚姫は、混乱の渦へと飲み込まれてしまいました。
何が妹のためか、わからなくなってしまったのです。
やがて空は暗くなり、彼女はひとり部屋を出ていきました。
◦◦◦
…どうすればいい?
……どうすればいい?
どうすればよかった?
だってあの子は男に生きて、しあわせになってほしいんだ。
私が奪えない。
あの女のしあわせも、私には奪えない。
私は伝えたかったのだ。ちい姫の命の終わり、その責任の重さを。悔いてほしかった。心の底から、一生をかけて。
あの男は、生涯悔いて忘れることはないだろう。
では私はどうする——。
いつのまにか海に来ていた。痛む足を水で冷やす。潮風が心地よかった。
夜の波打ち際はとても暗く、月明かりを映した水だけが遠くで白く輝いている。
「実感がわかないな」
自分が泡になるなんて、想像もできない話だ。でも、私はそれを選んでしまったらしい。いとしい妹のことを考える。どんな気持ちで、そのときをむかえたのだろう。
守りたかったのはちい姫の意思だ。だから後悔はしていない。
でも——。
“おかえりなさい”
「アルギネス…、お前、ずっとここで待っていたのか……?」
こんな場所で…恐ろしい人間に捕まってしまうかもしれないのに。
“いっしょに帰ろう?”
「すまない、無理だ。私はやり遂げられなかったから」
“じゃあ、ここにいるね”
「…そうだな。海の泡となるまで、ついていておくれ」
私が私でいられるのも、あと少しだろうから。
月も沈み、そして世界は暗闇になった。
◦◦◦
4番目の人魚姫の計画は、ついに失敗してしまいました。
彼女はやさしすぎたのです。
みんな、やさしすぎたのです。
そうして人魚は、闇のくすりをつかった罰をうけました。
◦◦◦
ヂヂヂヂヂ、ピィー、ピィ……
鳥のさえずりが、聴こえる。
ひどくまぶしい。これは朝日——?
気がつけば波打ち際にいた。
水に浸かった体を起こしてみると、足から鱗が消えている。突き刺すような痛みも……ない。足を大きく動かすと、ばしゃばしゃと白い波が立った。
そうか、これが薬の呪い。
復讐に成功すれば人魚に戻れるが、失敗すれば大嫌いな人間のまま——。
「魔女め。ちい姫にこの足をくれてやればよかったのに」
悔しさが込み上げる。
と同時に、温かい安堵が体中を満たしていった。
ごめん。ごめんね、ちい姫。復讐だけを心に誓ったはずなのに——。
陽の光、きららかな水平線、心配性のアルギネス。私には離れたくないものがあったんだ。もう二度と、もとの場所へは戻れないとしても。
あの子の生きられなかったこれからの未来。私はちい姫の分も歩き、見て、話し、そして
「笑おうか」
そう口に出して無理やり笑顔をつくると、どうしようもなく涙が溢れてきた。ぐちゃぐちゃの顔。まるで赤子のようだ。奇妙な笑みは、あの描きかけの天使のようだ。
でもこれは、妹を失ってから初めての笑顔。
これからの人生で最初の笑顔だ。
《あねさま、ありがとう》
砂でべたべたの耳元を、風がやさしく吹きぬけていった。