奇妙なミニカー
「カズちゃん、お砂食べちゃダメよ」
わたしはハンカチでカズちゃんの口元をぬぐった。
カズちゃんは六歳。六つ年下の弟だ。今年、小学校に上がったのに、おもちゃを口に入れるくせは直らない。ミニカーがお気に入りだが、目を離すとすぐ口に入れてしまう。
マンションに隣接した児童公園の砂場は、カズちゃんしか遊んでなかった。
中学一年生のわたしは母に頼まれ、カズちゃんを公園で遊ばせている。
もうすぐ母がスーパーのパートから帰ってくる時間だった。
わたしはふとブランコの方へ行こうとした。
「お姉ちゃん、こっち来て」カズちゃんが手招きしながら言う。「こっち、こっち」
砂で作った山にカズちゃんがミニカーを走らせ、らせん状の道を作っていた。
「このミニカー変だよ。見て」
カズちゃんは緑色のミニカーを突き出した。カズちゃんのミニカーはオレンジ色だったはず。ふと見ると砂の山の麓にオレンジ色のミニカーがひっくり返っている。
わたしはオレンジ色のミニカーを拾い、カズちゃんに差し出す。
「カズちゃんのミニカーはこっちよ。それ、よその子が置き忘れたミニカーでしょ。勝手に遊んじゃだめ」
でもカズちゃんは自分のミニカーには関心を示さない。
わたしはカズちゃんの手から無理やり緑色のミニカーを奪い取り、オレンジ色のミニカーを砂の山のてっぺんに置く。
「そのミニカー」カズちゃんが言う。「人が乗ってるんだよ」
「えっ?」
わたしは緑色のミニカーを目の側に持っていき、しげしげと観察してみる。
運転席と助手席に二つの人形が座っている。蟻のような大きさだが本物の人間そっくりの精巧な作りだった。
よく見ると人形は動いている。
何かしゃべっているようだ。かすかに音が聞こえる。だが何を言っているかまでは声が小さくて聞き取れない。
耳を近づけてみる。
「あなた、ミ・サ・コでしょう・・・・」
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吸い込まれそうな青空に緑の枝が揺れる。
見たことのない視界だ。助手席のクッションに寝そべりながら、美佐子はそう思った。
オープンカーに載せてもらったのは初めてだ。
秩父の山道をグリーンのマツダ・ロードスターが駆け抜ける。
「さっきの話」運転席の哲也が言う。「続き聞かせてよ」
「ああ、あれ」美佐子が言う。「でもカズちゃんは全然、覚えてないって言うのよ」
「カズちゃんって、君の弟の和之君のこと?」
「そうよ」
「彼、今年から大学生だよねえ。十年以上も昔の話じゃないか。だったら彼だって覚えてないよ」
美佐子は短大を卒業した後、都内の精密機器関連の商事会社に就職した。
哲也は、美佐子が入社二年後、大阪本社から栄転した営業第二課課長―美佐子の上司だった。
付き合い始めたのはそれから約半年後、社内の運動会がきっかけだった。それ以降、二人の関係は結婚に発展することもなく、別れ話が持ち出されることもなく、だらだらと続いていた。
美佐子はそうした関係をいいとは思っていなかったが、さりとて積極的に変えようとも思わなかった。
惰性が二人の関係を維持していた。二人の交際は社内では秘密だった。
社内で順調に出世コースを進む哲也は、先月、再び大阪本社に移動になった。職制は課長だったが、東京支社第二営業課課長から本社営業企画課課長への移動は昇進を意味していた。
遠距離恋愛になったが、普段顔を合わせて仕事をする方が二人の関係を秘密にしておくのが難しいので、かえってこの方が都合がいいと美佐子は思った。
「で、どこまでしゃべったけ?」と美佐子。
「ミニカーに動いてしゃべる人形が乗っていたところまでだね」
「とにかく、公園の砂場で拾ったそのミニカーには人形が乗っていたの。人形は二つで、一つは男、もう一つは女だったわ。人形は人間みたいに動くし、しゃべるの。その人形、何て言ったと思う?わたしのこと、ミサコって呼んだのよ」
「へえ、君の名前を知ってたんだ」
「そうなの。で、ここからが面白いところなんだけど・・・・」
猛スピードで突進してきた対向車のトラックがクラクションを鳴らしてすれ違い、美佐子の声はかき消された。
すると「無人休憩所」の看板が見えてきた。
「あそこで休もう」と哲也。
無人休憩所は車を十数台駐車できるスペースがあり、自動販売機とベンチが置いてあるだけだった。
美佐子と哲也はベンチに座り、自動販売機で買ったジュースを飲んだ。
「実は・・・・」哲也が言う。「俺、結婚するんだ」
「・・・・」
「この前の連休、実家に戻って見合いしたんだ。相手は地元の女性で、まあ、箱入り娘みたいな女だ」
「どういうこと?」
「本当にすまん。今日が最後のデートになるかな・・・・」
「そんな、急にそんなこと言われても・・・・」
「君のことは忘れないよ」
すると突然、地面が大きく揺れた。
美佐子と哲也がベンチから転げ落ちた。
信じられないことに、山よりも大きい巨人がこちらに歩いてくる。
巨人が一歩進むごとに地震が起きる。
「車に乗るんだ」
哲也は美佐子の腕を取り、急いで車まで走る。
哲也が美佐子をやさしく抱きかかえるようにして車に乗せたとき、美佐子は哲也を愛おしいと思った。哲也には、まだ自分への愛が残っているのかどうかわからない。でも自分は哲也を愛している。
エンジンをかけ、車を急発進させる。
もと来た道を反対に走り出す。
しかし、しばらくするとタイヤが空回りしているのに気づく。
車体ごと宙に浮いている。
巨人が車を掴んでいるのだ。
巨人はよく見ると中学生くらいの女の子の顔をしている。
「ちょっとやめてよ」美佐子が巨人に向かって叫ぶ。「早く降ろしてよ」
巨人は耳を美佐子の方に向ける。
「あなた、ミ・サ・コでしょう・・・・」
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「美佐子、カズちゃんはいい子してた?」
振り向くと母が立っていた。
「ママ」カズちゃんが言う。「まだ遊んでたいよ」
「だめよ。もうすぐ夕飯食べる時間だから、おうちに帰らなくっちゃ」
わたしは緑色のミニカーを地面に置いた。
ミニカーに乗っている二つの人形のうち、一つをつまみ上げ、指で潰した。
グチャリと音がして、指が赤い鮮血で汚れた。
不意に緑色のミニカーが夕日に向かって走り出す。
追いかければ捕まえられるスピードだったが、わたしは敢えてミニカーを逃がした。
(完)