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短編集 『K8O』

ピアノ - Monochrome

作者: 夏目カガリ

 

 

 その日、あたしは目が覚めたときから奇妙な予感にとらわれていた。

 どこかに行かなければならない。遠くでなくてもいい。とにかくこの身体を動かし、皮膚を風にあて、両足で大地を踏みしめなければならないと。

 かくしてあたしは、染めたばかりの茶色い頭に黒いキャップをかぶり、スウェットをジーパンに履き替えて顔も洗わずに外に出た。 目指すは家の裏にある小さな丘だ。こんなとき、家の近くに自然があってよかったと思う。 世間から忘れ去られたようなこの田舎に感謝するときなんて、所詮それくらいしかない。

 丘は雑記林で覆われていて、道はない。本当にちいさな丘なので、訪れる人間もめったにいないからだ。 途中に少し開けた空き地があって、中心には腐りかけた切り株と小さな祠がある。 仏頂面の地蔵がいて、小さい頃からなにか願い事があるとあたしはよくその地蔵に手をあわせていた。 願いは叶わないことの方が多かったけれど。



 新しく買ったスニーカーは、その値段に見合うべきの機能とデザインを兼ね備えている。 けれど、それも自然の前では無力だ。泥にまみれてあっという間にマーブル模様に染まってしまった。 昨日一晩中降った雨のせいで、地面はひどくぬかるんでいた。

「靴のあるべき姿だな」

 と、カラスならばそういって笑うだろう。

 カラスはあたしの親であり、兄弟であり、友人だった男だ。本当の名前は知らない。 万に一つの可能性で本名だったかもしれないけれど、いずれにせよあたしはカラスと呼んでいた。 初めて会ったとき、そう呼べと命じられたからだ。けれどその名称は確かにふさわしく思えたので、 あたしは大して抵抗もなく彼をそう呼び続けている。

「ピアノの優れた点は」

 鍵盤に触れている時、カラスはいつもより少し饒舌になる。

「キーを押せば、音が出るところだ。猫でも出せる」

「あたしでも?」

「もちろん。じゃあ違いは何処にある? 猫とお前と俺に。過去の天才たちとの間に」

「感性、意思……理解?」

「そう。つまりは思想」

 そう笑ってバッハを弾くカラスの横顔はまるでファウストのようで、まだ出会ったばかりの幼い頃あたしは密かにおびえていた。 カラスではなく、ピアノを弾くカラスを。彼が短調ばかりを好んでいたからかもしれない。

 バッハのピアノ協奏曲の第一番を、カラスもあたしも偏愛していた。ニ短調の苦悩的な憂鬱さ。 完成された美しい形式。底知れぬ闇はおそろしく、けれど今では心地よくもあった。 弾いているカラスが決して冷たい人間じゃないと、年月を重ねあたしは知ったからだ。

「ねえ、あたしもピアノを弾きたい」

  いつか、そう強請ったとき、カラスは少し黙って窓の外を見た。 梅雨時期で雨が降っていたのを覚えている。

「音楽を愛することは容易いが、愛されることは難しい。だが万が一、その幸運にあやかった時は――」

「なに」

「破滅を覚悟しろ。……ってのがあったな」

「なによ、それ。だから教えてくれないわけ」

「そりゃちがう。たんに時間の無駄だからさ」

 この主観的な(そして呆れるほど排他的な)考えのため、 あたしはどんなに頼んでもピアノに触れることすら禁じられていた。 もしくはただ、自分のピアノに他人が触るのを嫌がったゆえの方便だったのかもしれないけれど。 わからなくはない。あたしだって、本当に大事な宝物は人に触らせたくないと思う。

 カラスは過去を一切語らず、あたしもまた尋ねたことはなかった。唯一知っているのは、昔ピアニストだったということだけだ。故障もしていないのに、なぜ華やかな舞台から下りたのか。おそらく、カラスは優秀なパフォーマーだったけれど、ミュージシャンではなかった。それが事実であり、真実なのだろう。

 彼の音楽の根底には暗闇と、どうしようもない空洞だけが横たわっていて、だからピアノを弾くカラスはどこか不毛な行為に没頭しているように見えた。

 不毛。

 最も嫌うそれに自分が人生の大半を費やしているのだと、カラスは気づいていただろうか。おそらく気付いていたのだと思う。後ずさりながらも。



「世界に色をつけろよ。大事な作業だ。まあ、食事とセックスの次くらいには」

 こよなく愛しているトバモリーを傾けながら、カラスはよくそう言った。

 少し甘いそのウイスキーに、秋になるとカラスは庭に咲く金木犀の花びらを失敬して浮かべる。甘みが増すのだといって好んでいた。そのために、秋のカラスはいつもくらくらする匂いをまとっていた。花とアルコールを退廃で薄めたような匂いだ。あんな匂いをまとう大人をあたしは他に知らない。これからも、知ることはないだろう。

「自分は色なんて嫌っているくせに」

「まさか。ああ、けど髪は染めるなよ。染髪なんざ気違い沙汰だ」

「なんで。あたし、高校卒業したら髪染めようと思ってるんだけど」

「そんなことしたら家に入れてやらないからな」

「はいはい」

「まあ、お前にもわかるのかね。いつかは」

 そして稀に、ぽつんとこう呟くのだ。

「俺の世界には白と黒しかない」




 十八才と三ヶ月を過ぎた七日前、あたしは初めてカラスのピアノに触れた。 思う存分に白い鍵盤をなで、叩き、グランドピアノの緩やかにカーブした側面に背中をくっつけた。 髪も茶色く染めて、安いマニキュアで手足の爪を真っ赤に染めた。

 けれど、それが何に? 何にもならない。

 七日前の晩。鬱陶しく雨が降りしきる夜の埠頭で、カラスはカーステレオでバッハのピアノ協奏曲第一番を大音量で聞き、そして車ごと海へダイブした。

 『うるさいと思って窓を開けたらねえ、車が駐車場に止まってて。曲が終わったと同時にエンジンふかしてドボンよ。本当に、腰が抜けたわ』

 灯台の管理人のおばさんがクラシックに詳しかったのは幸運だった。カラスが最後に聞いていた曲名がわかったことは、何らかの慰めになるかもしれない。ならない可能性の方が大きかったけれど、それでも僅かな希望にあたしは縋った。


 灰色に塗られた無機質な部屋で、喋らないカラスの身体は白かった。

 あたしは濡れて額に張りついた黒い髪をはがし、だらんと垂れた手を取った。

 指の先が普通の人よりも少しつぶれた、節ばったほっそりとした手。

 氷のようなその手に唇を押し当てて、じっと耳を澄ませた。

 カラスの言葉に。彼が愛した音楽と、モノクロの世界に。


 雑記林を抜け、空き地に出た。世の中から忘れ去られた祠に、相変わらずぶすっとした顔の地蔵がじっとあたしを見ている。 お供えに途中で積んだシロツメクサを置いて、屈みこむ。手は合わせなかった。 もう、この地蔵に手を合わせることはないだろう。 きっとこの先あたしの願いはたった一つで、それはどうしたって叶わないんだから。


「世界に色をつけろよ。お前ならできるから」


 記憶の中でカラスは語り、あたしは汚れたスニーカーを見つめながらちいさく頷いた。

 もう随分前からあの男は心を決めていたのだと思い返しながら。

 あたしはきっと、世界を彩ることができるだろう。美しく。

 その時カラスは音楽に還り、あたしはようやく純粋な涙を流す。





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