鍔迫り合いのときだけ甘くなる
心臓が痛みで悲鳴を上げそうなくらい、激しく脈打っている。
耳の奥ではその音だけが響き、放課後になって騒がしいはずの教室の喧騒は遠く霞んで聞こえる。
手には汗がにじみ、呼吸は浅く速い。これが緊張ってやつだ。
その緊張をなんとかお腹の底に押し込み、俺は声を発した。
「あ、あの、氷見さん。ぷ、プリント集め……」
俺が「プリント」と言ったあたりで、同じクラスの氷見玲花はこちらに一瞥をくれた。
二重ながら切れ長の大きな目。その視線は、まるで汚物か害虫でも見るかのように冷たい。俺はそれ以上何も言えなくなった。
氷見さんは数秒、俺を睨みつけるように見つめたあと、何も言わずに鞄の中から一枚の紙を取り出して差し出す。
「あ、ありがとう」
礼を言っても反応はなく、彼女はふいっと前を向いた。その時、光の具合で濃紺にも見える黒いショートカットの毛先が揺れ、柑橘系の香りが微かに漂った。
プリントを受け取った俺は、足早に教室を出て職員室へ向かう。廊下に出て十数歩歩いたところでようやく、深く息を吐いた。
「めっちゃ緊張した……あんだけ嫌われてたら近寄るだけで怖いし」
誰に聞かせるでもなく呟く。
明らかに俺は氷見さんに嫌われている、と思う。彼女は誰にでも愛想がいいわけではないが、それでも他の人間にあそこまで壁を作るような態度は取らない。
用事があって話しかけても返事はないし、凍てつく視線を向けてくる。それが俺にだけなのは間違いない。
高校で初めて同じ学校になったが、小学生の頃から彼女のことは知っていた。通っていた剣道場が同じだったからだ。
同い年で、美人で、透き通る声を持ち、打ち込みの姿勢も美しかった女子を、忘れられるわけがない。
中学で一度剣道をやめた俺だが、高校で彼女が剣道部に入ると聞き、もしかしたらお近づきになれるかも……と下心満載で剣道部に入部した。
結果、近づくどころかますます距離は開いたが。
プリントを職員室に届けて教室に戻ると、氷見さんの姿はもうなかった。俺も鞄と道具を持ち、校内の剣道場へ向かう。
部活開始から一時間が経った頃、顧問の号令が響く。
「地稽古!」
続けて顧問はこう続けた。
「氷見は……そうだな。内山とやれ」
……え、俺? 部員の中で内山姓は俺だけだ。
実力差が雲泥の差なのに。もちろん氷見さんが上。俺じゃ稽古にならないだろう。
そう思っても、部活中は顧問の言葉が絶対。従うしかなかった。
面を被り、互いに礼。氷見さんは左足のかかとをわずかに浮かせた正しい中段、竹刀の先はぶれずに俺の喉元を射抜いている。
俺も中段に構え、竹刀の先を合わせた。
コツンと先端が触れた音と同時に、俺は一瞬、瞬きをしてしまった。
次の瞬間、「面!」というよく通る高い声と同時に、氷見さんが一気に踏み込む。
反射的に竹刀を上げて受け止めると、「ギィ」と鍔と鍔が噛み合い、鍔迫り合いになった。
細い体のどこにこんな力があるのか。
竹刀越しに伝わるのは、腕力ではなく、足裏から畳を押し上げるような芯のある重みだった。
「……い」
ん? 今何か言った? 最後の「い」しか聞こえなかったけど……まあ、どうせ「弱い」とか「気持ち悪い」とかだろう。顧問の指示だから、今だけは我慢してくれ。
軽く体を捌いて間合いを切る。だが、竹刀の先が触れそうな距離で、また氷見さんが鋭く踏み込み面。
同じように受け止め、二度目の鍔迫り合い。
じりじりと圧が強まり、肩と肩が触れそうな距離まで近づく。面と面はもう指一本分の隙間しかない。
「っこいい……」
今度ははっきり聞こえた。
かっこいい? いや、まさかと思い横目を送るが、彼女の視線は真っ直ぐ俺。しかも教室での凍てつく目ではなく、カチコチに凍ったあずきバーですらを一瞬で溶かすような熱い眼差し。
「内山君マジかっこいい。素敵」
もう絶対俺のことじゃん!
しかも声は小さく、周囲には聞こえていないらしい。氷見さんは、自分の声が俺に届いているとも思っていないようで、鍔迫り合いのまま独り言を続ける。
「小学校の時からずっとかっこいい。優しいし……今日もプリントって言われて緊張して何も言えなかった。もっと話したいのに全然話せない……どうしたらもっと話せるんだろ。こんなんじゃ嫌われるかな。嫌だな。こんなにも好きなのに……」
軽く押され、俺の体勢が崩れる。横目に顧問の姿が見えた。それは氷見さんにも見えたのだろう、突然動きが一変した。
力強くしなやかな踏み込みで、見事に面を打ち込まれた。
向かい合って礼。だが俺は打たれた衝撃よりも、鍔迫り合い中の彼女の言葉ばかりが頭の中で反芻され、集中できなかった。
稽古が終わる。防具を片付けながら、氷見さんをちらちらと見るが、いつも通り俺に視線を寄こすことはなかった。
さっきのは夢だったのかと思うほど。
全員が道場を出ていく。氷見さんも一人で出て行ったので、少し間を置いて俺も外へ。
徒歩通学の二人は、夕陽に染まるアスファルトの上を等間隔で歩く。
周囲に誰もいなくなったのを確認し、俺は勇気を振り絞った。
「あの! 氷見さん!」
彼女が振り返る。いつもの無言の、凍てつく視線。
「えっと、その……さっきの稽古の時の鍔迫り合いで……氷見さんの声、聞こえてたんだけど」
みるみるうちに真っ白な肌が朱色に染まっていく。瞳が潤み、あきらかに狼狽えている。
「え、えっ……聞こえてたって……どこから?」
「かっこいいって言ってるとこから」
「……それって、全部ってこと?」
「うん、全部」
「~~~~~~!!」
声にならない呻き。顔は茜色の夕陽よりも赤い。
「ご、ごめんなさい」
「なんで氷見さんが謝るの」
「だ、だって気持ち悪いよね。普段全然喋らないのに、ボソボソとあんなこと……私だったら引くもん。怖いもん。もうやだ……」
「待って待って。全然引いてないし、気持ち悪いとか思ってないから」
その言葉に、彼女はぴたりと黙る。
「……ほんと?」
「本当」
「ほんとにほんと?」
「本当の本当に本当」
ようやく安心したように胸に手を置き、小さく息を吐く氷見さん。
告白するなら今かと思った瞬間、彼女が俺の名前を呼ぶ。
「は、はい!」
「あのね、内山君。もし良かったらだけど……明日も一緒に地稽古してくれないかな?」
「うん、それは全然いいけど」
氷見さんは小さくガッツポーズし、「やった」と跳ねるように喜ぶ。
「それじゃ約束ね! 絶対明日も一緒に稽古しようね」
満面の笑みを浮かべるその姿に見惚れ、俺は結局、自分の気持ちを伝えられなかった。




