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鍔迫り合いのときだけ甘くなる

作者: 十八
掲載日:2026/07/04

 心臓が痛みで悲鳴を上げそうなくらい、激しく脈打っている。

 耳の奥ではその音だけが響き、放課後になって騒がしいはずの教室の喧騒は遠く霞んで聞こえる。

 手には汗がにじみ、呼吸は浅く速い。これが緊張ってやつだ。

 その緊張をなんとかお腹の底に押し込み、俺は声を発した。


「あ、あの、氷見(ひやみ)さん。ぷ、プリント集め……」


 俺が「プリント」と言ったあたりで、同じクラスの氷見玲花はこちらに一瞥をくれた。

 二重ながら切れ長の大きな目。その視線は、まるで汚物か害虫でも見るかのように冷たい。俺はそれ以上何も言えなくなった。

 氷見さんは数秒、俺を睨みつけるように見つめたあと、何も言わずに鞄の中から一枚の紙を取り出して差し出す。


「あ、ありがとう」


 礼を言っても反応はなく、彼女はふいっと前を向いた。その時、光の具合で濃紺にも見える黒いショートカットの毛先が揺れ、柑橘系の香りが微かに漂った。

 プリントを受け取った俺は、足早に教室を出て職員室へ向かう。廊下に出て十数歩歩いたところでようやく、深く息を吐いた。


「めっちゃ緊張した……あんだけ嫌われてたら近寄るだけで怖いし」


 誰に聞かせるでもなく呟く。

 明らかに俺は氷見さんに嫌われている、と思う。彼女は誰にでも愛想がいいわけではないが、それでも他の人間にあそこまで壁を作るような態度は取らない。

 用事があって話しかけても返事はないし、凍てつく視線を向けてくる。それが俺にだけなのは間違いない。

 高校で初めて同じ学校になったが、小学生の頃から彼女のことは知っていた。通っていた剣道場が同じだったからだ。

 同い年で、美人で、透き通る声を持ち、打ち込みの姿勢も美しかった女子を、忘れられるわけがない。

 中学で一度剣道をやめた俺だが、高校で彼女が剣道部に入ると聞き、もしかしたらお近づきになれるかも……と下心満載で剣道部に入部した。

 結果、近づくどころかますます距離は開いたが。

 プリントを職員室に届けて教室に戻ると、氷見さんの姿はもうなかった。俺も鞄と道具を持ち、校内の剣道場へ向かう。


 部活開始から一時間が経った頃、顧問の号令が響く。


「地稽古!」


 続けて顧問はこう続けた。


「氷見は……そうだな。内山とやれ」


 ……え、俺? 部員の中で内山姓は俺だけだ。

 実力差が雲泥の差なのに。もちろん氷見さんが上。俺じゃ稽古にならないだろう。

 そう思っても、部活中は顧問の言葉が絶対。従うしかなかった。

 面を被り、互いに礼。氷見さんは左足のかかとをわずかに浮かせた正しい中段、竹刀の先はぶれずに俺の喉元を射抜いている。

 俺も中段に構え、竹刀の先を合わせた。

 コツンと先端が触れた音と同時に、俺は一瞬、瞬きをしてしまった。

 次の瞬間、「面!」というよく通る高い声と同時に、氷見さんが一気に踏み込む。

 反射的に竹刀を上げて受け止めると、「ギィ」と鍔と鍔が噛み合い、鍔迫り合いになった。

 細い体のどこにこんな力があるのか。

 竹刀越しに伝わるのは、腕力ではなく、足裏から畳を押し上げるような芯のある重みだった。


「……い」


 ん? 今何か言った? 最後の「い」しか聞こえなかったけど……まあ、どうせ「弱い」とか「気持ち悪い」とかだろう。顧問の指示だから、今だけは我慢してくれ。

 軽く体を捌いて間合いを切る。だが、竹刀の先が触れそうな距離で、また氷見さんが鋭く踏み込み面。

 同じように受け止め、二度目の鍔迫り合い。

 じりじりと圧が強まり、肩と肩が触れそうな距離まで近づく。面と面はもう指一本分の隙間しかない。


「っこいい……」


 今度ははっきり聞こえた。

 かっこいい? いや、まさかと思い横目を送るが、彼女の視線は真っ直ぐ俺。しかも教室での凍てつく目ではなく、カチコチに凍ったあずきバーですらを一瞬で溶かすような熱い眼差し。


「内山君マジかっこいい。素敵」


 もう絶対俺のことじゃん!

 しかも声は小さく、周囲には聞こえていないらしい。氷見さんは、自分の声が俺に届いているとも思っていないようで、鍔迫り合いのまま独り言を続ける。


「小学校の時からずっとかっこいい。優しいし……今日もプリントって言われて緊張して何も言えなかった。もっと話したいのに全然話せない……どうしたらもっと話せるんだろ。こんなんじゃ嫌われるかな。嫌だな。こんなにも好きなのに……」


 軽く押され、俺の体勢が崩れる。横目に顧問の姿が見えた。それは氷見さんにも見えたのだろう、突然動きが一変した。

 力強くしなやかな踏み込みで、見事に面を打ち込まれた。

 向かい合って礼。だが俺は打たれた衝撃よりも、鍔迫り合い中の彼女の言葉ばかりが頭の中で反芻され、集中できなかった。

 稽古が終わる。防具を片付けながら、氷見さんをちらちらと見るが、いつも通り俺に視線を寄こすことはなかった。

 さっきのは夢だったのかと思うほど。

 全員が道場を出ていく。氷見さんも一人で出て行ったので、少し間を置いて俺も外へ。

 徒歩通学の二人は、夕陽に染まるアスファルトの上を等間隔で歩く。

 周囲に誰もいなくなったのを確認し、俺は勇気を振り絞った。


「あの! 氷見さん!」


 彼女が振り返る。いつもの無言の、凍てつく視線。


「えっと、その……さっきの稽古の時の鍔迫り合いで……氷見さんの声、聞こえてたんだけど」


 みるみるうちに真っ白な肌が朱色に染まっていく。瞳が潤み、あきらかに狼狽えている。


「え、えっ……聞こえてたって……どこから?」

「かっこいいって言ってるとこから」

「……それって、全部ってこと?」

「うん、全部」

「~~~~~~!!」


 声にならない呻き。顔は茜色の夕陽よりも赤い。


「ご、ごめんなさい」

「なんで氷見さんが謝るの」

「だ、だって気持ち悪いよね。普段全然喋らないのに、ボソボソとあんなこと……私だったら引くもん。怖いもん。もうやだ……」

「待って待って。全然引いてないし、気持ち悪いとか思ってないから」


 その言葉に、彼女はぴたりと黙る。


「……ほんと?」

「本当」

「ほんとにほんと?」

「本当の本当に本当」


 ようやく安心したように胸に手を置き、小さく息を吐く氷見さん。

 告白するなら今かと思った瞬間、彼女が俺の名前を呼ぶ。


「は、はい!」


「あのね、内山君。もし良かったらだけど……明日も一緒に地稽古してくれないかな?」

「うん、それは全然いいけど」


 氷見さんは小さくガッツポーズし、「やった」と跳ねるように喜ぶ。


「それじゃ約束ね! 絶対明日も一緒に稽古しようね」


 満面の笑みを浮かべるその姿に見惚れ、俺は結局、自分の気持ちを伝えられなかった。

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