北へ向かう周波数
秋も深まりコートの手放せない季節になってきた。夕陽の時間も早くなり、冷え込みも強くなってくる。
つい先ほどまでは、国道を走る車の音や人々の声がこの部屋まで聞こえていたが、冷たい空気で冷やされたのか、音の持つ力が失われ静けさが優ってきた。街の明かりも徐々に消えていき、煌々として明るいのは月とコンビニくらいのものになっていた。
リビングの照明はやや暗めに落としてある。
壁にかかった白い光で表示されている時刻は午前一時二分だ。
彼女はラップトップのキーボードから指を離し、椅子から立ち上がった。壁に備え付けのキャビネットの上には波をイメージされた、バウムクーヘンを四等分に切り分けたような形のアメリカ製のラジオがある。彼女はラジオのスイッチを入れた。
『‥そんな一日を過ごしていました。あー、思い出したらまた足湯に行きたくなってしまいました。すっかり秋ですもんねー、と言うことで、今夜もよろしくお願いします』
澄んだ声の女性が番組の始まりを告げていた。
彼女は本革で作られた椅子に座った。程よくクッションが効いている。
―星空の定期便―
平日の深夜に放送されているFMラジオの30分番組だ。事務所の同僚が「君が好きそうな番組があるよ」と教えてくれたものだ。彼は彼女がテレビを見ないことを知っていて、それならばとこの番組を勧めてきたのだ。
とても愚直な番組名だなと思っていたが、今夜のような空気が澄んで星が臨める日には相応しそうだ。
番組は、30分という時間をリスナーからのお便りを中心に構成されている。お便りの合間に音楽のみを流すというありきたりな構成を避けた全くのトーク番組だ。
『さて、今日最初は、中学校一年生の女の子からですね。ペンネーム、『犬より猫が好き』さんです。マリモさんこんばんは。いつも楽しく聴いています。マリモさん、聞いてください。私、好きになった男の子がいるんですけど‥』
リスナーは老若男女を問わずにいる。彼らは、身の回りに起こった日々の出来事や、日々思ったことや悩み、相談事などを番組に寄せてくる。それらのお便りをパーソナリティのマリモが収録前に根気を入れて読み、厳選されたお便りを番組で紹介するのだ。
一日に読むハガキや封書は3通ほど。30ふん番組としては少なく思えるが、マリモが1通のお手紙に対してじっくりと時間をかけることを考慮した結果だ。
時間をかけ1通1通に寄り添ったマリモの回答はリスナー達の人気を博している。
そして、番組の全体構成や編集も務めているマリモはBGMも選曲している。今、音量を絞り静かに流れているのはオスカー・ピーターソンの「モートン・スウィング」だ。軽快さの中にある滑らかなリズムの音楽と、マリモの落ち着いたトーンとが良いコラボレーションになっている。
マリモの声は艶があり、女性である彼女の耳にも嫌味なく聴こえるほどに心地良い。
『‥って思うの。だから「犬より猫が好き」さん、思い切って明日、告っちゃえば?恋愛ってただ待っていたり、恐る恐るとした態度を取っているとここってタイミングを逃しちゃうのよ。臆病はダメってことよね。だって、待っていたって何も始まらないでしょ。あ、これ経験だけどね。
私もねー、何度チャンスを掴み損ねたか。これでも昔は清純な乙女だったのよ。好きな人の前ではモジモジしちゃって。それで何も言えなくて終わっちゃった。後悔よねー。だから勇気よ、勇気。一歩踏み出すの。何でもそうだと思うけど、やってみなければわからないことってあるじゃない?だから私もそれ以降は好きってなったら果敢にモーションかけてたなー。ガンガン行ってた…ハズなんだけど…あれ?おかしいな、、、、なんで私は独身なんだ?あはは。まー、つまりは慎重になりすぎは禁物ってことね。挑戦も青春の思い出よ!頑張ってね。そしてまた結果を教えてね。上手くいくことを願ってるわ』
彼女はクスリと笑う。マリモはきっと気持ちが明るい女性なのだろう。
恋愛は挑戦かー、確かにね、と彼女は肩を窄めた。
リビングの中央には、今彼女が座っている本革の椅子を囲むように、黒い大きなテーブルがコの字になって置かれている。彼女は仕事も食事もこのテーブルで行うのだ。
彼女は椅子から立ち上がり、キッチンに歩いた。キッチンの中は暗い。彼女の身長より高い冷蔵庫を開けると、庫内の灯りによって彼女の前身が照らされた。
彼女は冷えたグラスと球状に整形された氷、バーボン、炭酸のペットボトルを取り出した。濃い目のハイボールを作り、バーボンとグラスだけを持ち再びリビングに戻った。
マリモが別のハガキを読み始めていた。
『さて、次はお葉書ではなくお手紙でいただいています。静岡県のペンネーム、『月光』さんからです』
彼女はハイボールを一口飲んだ。傾けられたグラスの中で氷がカランと鳴った。グラスをコースターに置き、カーテンを全開にした。
『こんばんは、マリモさん。私は七十九歳になる男性です。いつも楽しく拝聴しております。平日の夜はマリモさんの放送が楽しみなのです。実は妻が二年前に他界しました。ひとり娘もとうに結婚し、今は離れた場所に住んでいます。目下、一人暮らしを謳歌しているところです』
世の中には様々な境遇の人がいるのだ。伴侶に先立たれ、独居をしているというこの手紙の主の境遇も、さほど珍しいものではない。
彼女はハイボールを飲んだ。炭酸が喉に心地よい。
『私たち夫婦は、私が二十歳、妻が十九歳の時に結婚しました。以来、五十七年間ずっと一緒でしたね。夫婦で文具店を営んでいたものですから、文字通り二十四時間一緒だったのです。食事も五十七年間、朝昼晩と一緒でした。
決まった時間になればテーブルには妻の用意してくれたご飯が並びます。朝食は決まって和食でした。納豆にひじきの和物、焼シャケとお味噌汁と決まっていました。
食べた後は店に出て営業、頃合いを見て昼食。昼食は麺類が多かったです。夏にはソーメンか冷たいお蕎麦。冬にはうどん、たまに野菜たっぷりのラーメンです。夫婦揃って麺類が好物なんです。そして夕飯。妻がよく作ってくれたのは、彼女の得意料理の肉じゃがやハンバーグでした。
小学生みたいでおかしいと思われるでしょうね。しかし、これは私の大好物なのです。決して子供だった娘に合わせたわけではないのです。
そして付け合わせのきゅうりの浅漬けと、大根の味噌汁があれば毎晩続いてもいいくらいなんです』
『あー、羨ましいです』とそこまで読んでいたマリモが切り出した。
『お二人の食卓を囲んでいる光景が目に浮かびます。しかも五十七年間ですか?半世紀以上ですね。五十七年間一緒なんて未だ独身の私には想像がつきません。きっと何にも変え難い素敵な時間だったのでしょうね。羨ましいです。いいなぁ』
椅子に座り、ハイボールの入ったグラスを回しながら彼女は幼い頃の自分を思い出していた。
彼女は母子家庭に育った。保健の外交員だった母親は朝から夜遅くまで仕事で、夕飯を一緒に食べられるのは週に一回あればいい方だった。だから、毎日決まった時間に誰かと一緒という手紙の主のような経験は、マリモと同じく彼女にもない。しかし、母親はおかずとご飯だけは用意はしてくれていた。母親が作りおきをしていた卵焼きがあったおかげで寂しいという気持ちに抗うことが出来た。
その卵焼きのことは今でもよく覚えている。シラスとネギを混ぜた卵焼き。母の味だと言ってはロマンチックすぎるだろうが、少ししょっぱくてほんのり甘い卵焼きだ。そしてはいつも焦げ目が付いていた。母は首を窄めながら「あーあ、また焦げちゃった。でも味は同じだからね」と言うのが常だった。
忙しい仕事の合間を縫って運動会などの行事に来てくれた時も、必ずと言っていいほどにその卵焼きが入っていた。お弁当箱に入っている卵焼きをひっくり返し「大丈夫よ、今日は成功したんだから」と母はよく肩を窄めた。やれやれと思った時に肩を窄める癖は母親譲りだ。
母の作ってくれたシラスとネギの卵焼き、最後に食べたのはいつだっただろう。
『いつだったか、まだ金銭的に余裕がない時に妻の誕生日があったのですが、高級レストランではなく安価な店に入ったのです。しかし妻はそれを不貞腐れるところか、「安いってことは何でも食べていいんだよね?」と、いたずらっ子のような目で私を見るんです。
私は妻のその言葉にすごく安心し、穏やかな気持ちになったのです。当然私は「もちろんだよ。そうだ、お店の料理全部食べてしまおう」と答えました。そして、やっぱりこの人と結婚して良かったと再確認したのです。
その日はお互いに始終冗談を言い合いケタケタ笑って、周りのお客さんの目も気にならなかった程でした。今思えば恥ずかしいですね。そんな感じでどんな時も妻はポジティブでいつも笑顔を絶やさない人だったのです』
ハイボールを飲み干したが、グラスにはまだ十分に大きな球状の氷が残っている。彼女はそのグラスにバーボンだけを注ぎ、今度はバーボンロックを作った。指先で氷を回すと、今度は氷はカランカランと音を立てて回った。
窓際に立つと眼下に河川が見える。川は彼女のマンションの前を左右に伸びている。川面には空の月とほぼ同じ大きさの月が揺らめきながらもくっきりと映っている。
部屋は十階建の七階部分にある。一昨年、二十九歳の誕生日に目一杯のローンを組んでこの部屋を買ったのだが、当時友人たちからは猛反対をされた。
都市伝説なのかジンクスなのかはわからないが、若いと言える年齢の独身女性が部屋を買うと婚期を逃すらしい。もしくは結婚を諦めたと思われるらしい。「えー、それはいやだー」と一応は調子を合わせてはいたが、実際のところ彼女にとって結婚はどうでもいいことだった。
それまで住んでいた賃貸マンションはワンルームの小さな部屋だった。
次に住むのなら自分好みの内装にしたかったし、好きな絵やポスターを貼りたかった。特に二十歳の時に無理をして買ったアンディ・ウォーホルのシルクスクリーンが映える部屋が欲しかったのだ。そのためには賃貸では難しかったのだ。
そのような彼女のプランに男性が入る余地はハナからなかった。結婚か内装かを秤にかけるまでもなく、内装が優ったのだ。
また、内見でこの部屋を案内された時、直感でこの部屋に住むと決めていた。
部屋の窓は大きく解放的で、眼下に見える河川と高速道路、往復8車線の幹線道路の交差が面白く感じられたのだ。
今も、北から南へ、南から北へと、いつもの深夜らしくかなりの数の大型トラックが行き交っている。コンテナに満載に積まれた荷物は、日本中に散らばって行くのだろう。
『その妻が亡くなって以来、私は料理も覚えるようになりました。最近の得意料理は、ありきたりですけどカレーライスです。私のカレーライスは隠し味にラー油を入れるんです。とても美味しいんですよ。
でも、妻の作ってくれた肉じゃがや煮込みハンバーグにはなかなか手が出せません。娘が遊びに来た時にたまに作ってくれるんですけど、残念ながら妻のと同じ味にならないんですよ、娘だって同じものを食べて育ってきたはずなんですけど、不思議とね。肉じゃがに何か隠し味ってあるんですかね?ハンバーグに至っては今でも温めるだけのものです。やれやれ』
あっははは、とラジオからマリモの軽快な笑い声が聴こえてきた。
『あー、カレーですか、わかります。作り置きができるし簡単でいいですよね。あ、簡単って言っちゃったらダメか・・ハハ。でも、それぞれの家庭で個性が出る料理ですよね。私の家ではブロッコリーは絶対入れるんです。でも煮込むと溶けてしまうので、食べる7分前に入れるんです。あ、もちろん水洗いしたままの生のブロッコリーですよ。月光さんは何を入れるんでしょうね。
あと、肉じゃがの隠し味ですか?わからないです。すいません。あるんでしょうか?誰か教えてくれませんかー?でも、奥様はきっと特別な何かを使っていたのでしょうね。
それと煮込みハンバーグですか?ハンバーグといえば…』
母は今でもあの卵焼きを作っているのだろうか。焦げていて見てくれは悪かったが、美味しかったことは鮮明に記憶に残っている。
母はシラスとネギの他に何を入れて作ったのだろう。あの絶妙な甘さは砂糖なのだろうか、ハチミツなのだろうか。それともみりん?ほんのりとしたしょっぱさはシラスのみなのか、塩や醤油、合わせ調味料ではなかったような印象だ。ただの卵焼きだから簡単なハズなのだ。たまに思いついた時に作ってみるのだが、何度作っても同じ味になったことがない。手紙の主と同じだ。
その母とは今疎遠になっている。
母はいつも陽気で真っ直ぐな性格の女性だった。しかし、母自身、厳格な家庭に育ったせいもあり、古いと思えるような考えを押し付けるきらいがあった。それは彼女が東京で働き始めて間もなく「結婚」の話題が上り始めた頃から顕著になってきた。
今年の初めに帰省した時、再び激しい口論になってしまい、わだかまりの残るお正月になってしまった。
高速道路を走る全てのトラックが視界から一瞬消えた。そしてラジオから聴こえるマリモの声が束の間止まったように思えた。彼女はキャビネットにグラスを置きラジオを見た。
『‥妻は2年前までは常に私の目の前で笑っていたのです』
マリモの声のトーンが一段低くなっていた。手紙は続いた。
『やはり寂しいです。ご飯を食べ終えた時にはごちそうさま、お粗末さまと言い合っていました。
妻の影響なのでしょうか、私は常に人様に対して「ありがとう」と言う癖がついていました。もちろん妻に対しては当たり前です。何かしてくれたら「ありがとう」って。
また夫婦と言えども所詮は他人です。たまには口喧嘩もしました。大体は些細なことなんですけどね。大抵は私が悪いんですけど。例えば、洋服を脱いだら脱ぎっぱなしとか、出したものをちゃんと片付けないから、どこにあるかわからないじゃない、とかの些細なことでした。娘をピアノに通わせるかどうかに至っては意見が食い違い、一週間くらい口をきかないくらいの大喧嘩でした。
夫婦ですけど違う人間です。育った環境も人格も違いますから、考え方も違って当然ですよね。
しかしマリモさん、今ではその言い争いがしたくてたまらないのです。喧嘩を含めて言葉を交わすこと。妻の顔を見て会話をすること。たとえそれが大喧嘩だとしてもです。
「ありがとう」の言葉や、「何なのよ、もう」の言葉たちが聞きたい。妻を前にして声に出して会話をしてみたい。
しかし、二度と出来ないんですよね。妻は私の人生から永遠になくなってしまったのです。
二度と妻に「ありがとう」と言えないこと。それが一番さみしく悲しいことなんです』
手紙の主は、はかなり感情を抑えた表現をしていると彼女は感じていた。いくら幾千幾万の慕情の言葉を積み重ねたとしても、愛する人を失ってしまった感情を表現することは容易なことではないのだろう。
マリモにもそう聞こえたに違いない。ラジオからはマリモの呼吸の音と、紙の擦れる音が聴こえてくる。
『私もそう思います。いつも一緒にいた人が消えていなくなってしまうのは悲しいし、寂しいです。
ちょっと個人的な話なのですが、私は5つ上の兄を亡くしています。まだ私が小学生だった頃、兄は自転車に乗っていて信号無視の車に跳ねられました。
その日は日曜日で、兄は午前中、友達と野球をして、お昼ご飯を自宅で食べたら私とショッピングセンターに行く約束だったんです。兄が跳ねられたのはその野球の帰り道でした。
いつまで待っても兄は帰って来ないし、私は半分不貞腐れたり、兄に対して怒っていました。でも段々不安になってきた頃に電話が鳴りました。
兄とはいつも一緒でしたね。遊ぶのも一緒でしたし、勉強も一緒にしていました。ドッジボールの避け方を教えてくれたのも兄でした。プールで泳ぎ方を教えてくれたのも兄。男の子たちにいじめられた時に助けてくれたのも兄でした。兄は私のヒーローでした。いいえ、違います。過去形ではなく、今でもヒーローです。
でも、わたしもやっぱり兄とは喧嘩をしましたよ。「月光」さんと同じようにすごく些細なことでしたね。兄が誤って私が大事にしていた人形の腕を取ってしまったりとか、お風呂に入る順番とかのつまらないことばかりでした。
そして、いつも兄が「お兄ちゃんが悪かった。ごめんね」と先に謝ってくれました。兄は、喧嘩はしても最後には自分のことよりも妹の私を優先して考える人でした。
もう実際には会えないんですけど、兄とは心の中で会っています。今でも何かにつまずいたり、戸惑ったりした時には兄に聞いてみるんです。「お兄ちゃんはどう思う?」って。兄はいつも的確に答えてくれるんです。実際は思い過ごしで、兄が答えてくれることも本当は自分の中で決めていることなんでしょうけどね。
今は、兄には感謝しかありません。今でも感謝しているんですよ。だから「ありがとう」って心の中で言っています。と言うより〝思っている〟の方が正しいかな。
だから、私、兄を思い出すってことがないんです。なんかいつも兄とは一緒にいる気がしているから、わざわざ思い出すってことがないんですよ。変ですかー?あはは。』
FMの周波数は、音の輪郭を一層明確にするらしい。マイクを通したマリモ声は、彼女の心の輪郭をくっきりと浮かび上がらせているように思えた。
「ありがとう、か」彼女は独りごちた。
コースターに置いたグラスの表面を雫が流れ落ちた。氷はやや小さくなった。風が吹いたようだ。川面に反射していた月が激しく揺らめく。
ラジオからは番組のエンディングテーマ曲、ビル・エヴァンスの「パヴァーヌ」が流れてきた。
彼女はバーボン注ぎ足し一口で飲み干した。瞬間、喉の奥が熱くなった。
窓の反射でデスクに置いてある彼女のスマートフォンが光ったのがわかった。メッセージの着信だった。
メッセージは番組を紹介してくれた同僚からだった。差し出し人を確認した彼女は右の口角を少し上げた。
『‥ですよね。あと、そろそろ冬でしょう?日本酒のおいしい季節ですよね。だからこの週末は日本酒の利き酒会に行ってきます。私はワインも好きですけど、日本酒が大好きなんです。ま、お酒なら何でもいいんですけどね。さて、と言うことで、今週はこの辺で。みなさんからのお便りをお待ちしていますね。『犬より猫が好き』さん、告白の結果教えてね。なんか、ちょっと責任を感じてるからさー。あははは。ではみなさん、良い週末をおすごしください。ご機嫌よう。』
ビル・エヴァンスのピアノにバイオリンが重なってきた。やがて音楽が終わり番組はエンディングを迎えた。
短いニュースの後、天気予報が始まった。男性アナウンサーが、本格的な冬の訪れを告げていた。日本の東海上で発達した低気圧と、大陸からの高気圧の気圧差が大きくなり、付近は強い冬型の気圧配置の状態となる。そのため明日は北よりの強い風、木枯らしが吹くだろうと伝えていた。
彼女はTシャツから伸びている両腕をさすった。椅子の背もたれにかけてあったジップアップパーカーを羽織ると、彼女はラジオのスイッチを切った。
月の上に霞がかかり朧げな姿になっている。首都高の走行車線上に一台の大型トラックが走っていた。目で追っていると、トラックはやがて右折専用レーンに入った。東北道と常磐道へ向かう分岐へ向かうのだろう。
彼女はトラックの進行方向に視線を向けた。夜の暗い闇の向こうに山並みがかすかに見える。南アルプスの稜線だ。彼女の生まれ育った場所は山の向こうなので確認する事はできない。
今度は電話の着信音が鳴った。デスクの上にある彼女のスマートフォンの画面が再び明るく光っているのを窓の反射で確認した。おそらく同じ相手だろう。
スマートフォンからは着信音のハウスミュージックが小気味よく聴こえている。
このスマートフォンは、二年前のお正月に母と一緒に機種変更したものだと思い出した。母はピンクがいいか白がいいかでしばらく悩んでいた。
彼女は、どうせカバーをするのだからどちらでも同じだと提案したが、母にとっては重要な問題らしかった。しばらく考えた後、母は「何色にでも染められるという意味を込めて白にするわ」と言った。「まるで女子中学生みたいね」と母を揶揄したが、その時の母の満足げな笑顔は彼女から見ても可愛らしかったことを覚えている。
その時にお互いの電話番号を最初の短縮ダイヤルに登録した。
高速道路を走るトラックはやがて見えなくなり、着信音も消えた。
彼女は、静かになったスマートフォンを手に取った。着信の消えた画面には、午前1時43分の時刻表示と同僚男性からの、不在着信ありの表示の下に、短縮番号『① 母』の表示が出ていた。
彼女は短縮番号『① 母』をタップしかけて思い止まった。
ふと彼女は高速道路を見下ろした。一台のオートバイがトラックの群れの後ろを走っていた。オートバイが加速した。幾度か右へ左へと車線を変え、トラックの群れに入り、一台一台と追い抜いて行った。彼女の目には全く不安要素のない美しい走り方のように見えた。
オートバイはやがて、トラックの群れを追い抜き先頭に出た。オートバイは原則はせず、そのままのスピードを維持しながら走り去っていった。トラックの群れも視界の中で小さくなっていった。
彼女はキッチンに歩いた。冷凍庫から再び球状の氷を取り出しグラスに入れた。そしてもう一杯バーボンロックを作り、窓際に戻ってきた。
眼下の川面に映っている朧げな月が、風に吹かれて大きく揺れていた。
短縮ダイヤル①の表示と共に画面が暗くなった。
了




