第9話 敵
「すぐにここを離れるぞ」
ドラコの声に、先ほどまでの穏やかさは微塵もなかった。散弾銃を構えたまま、素早く周囲を見渡す。紅い瞳が鋭く光っている。店主夫婦の傷口はまだ温かい。犯人は遠くには行っていない。
「この短剣の使い手がまだ近くにいる。長居は……」
その言葉が、途切れた。
ドラコの動きが止まった。紅い瞳が、一点を見つめている。エルザとベアトリクスの、後ろ。
エルザが振り返ろうとした、その時だった。
「動くなよ、お嬢ちゃん」
聞いたことのない男の声が、すぐ背後から聞こえた。低く、粘りつくような声。同時に、金属の冷たい感触がベアトリクスの首筋に触れた。
短剣だった。
いつの間にか、一人の男がベアトリクスの真後ろに立っていた。気配は一切なかった。ドラコですら直前まで気づけなかったのだ。
男は長身で痩せた体つきをしていた。黒い外套を纏い、前髪の隙間から覗く瞳は紅い。吸血鬼だ。だが、宮殿を襲ったあの群れとは明らかに雰囲気が違った。余裕がある。そして、強い。立っているだけで分かるほどの、圧倒的な存在感。口元には薄い笑みが張り付いている。まるでこの状況を楽しんでいるかのように。
ベアトリクスは動けなかった。首に当てられた短剣の切っ先が、僅かに肌に食い込んでいる。少しでも動けば、喉を裂かれる。呼吸すら、慎重にしなければならなかった。
「久しぶりだな、ドラコの旦那」
男が、にやりと笑った。
ドラコの表情が変わった。散弾銃を構えたまま、その男の顔を凝視している。驚きと、それ以上の警戒。
「……ウィンガル」
その名前を口にした瞬間、ドラコの紅い瞳に剣呑な光が宿った。
「覚えてくれていて光栄だぜ。死んだと思ってたんだがな。旦那。まさかまた会えるとは」
ウィンガル。ドラコの知り合い。だがその名を口にした時のドラコの声には、友に向けるものとは正反対の、明確な敵意と警戒の響きがあった。
「エルザ、動くな。ベアトリクスも、絶対に動くな」
ドラコの声が低く、鋭くなった。宮殿での戦いの最中にも、一度も聞いたことのない緊張が滲んでいた。あの時のドラコは余裕があった。食屍鬼や吸血鬼の群れを相手にしても、どこか楽しむような態度さえ見せていた。だが今は違う。この男の前では、魔王ですら気を抜けないのだ。
「で? 何の用だ」
「つれないこと言うなよ、旦那。オレはただ、取引をしに来ただけだ」
ウィンガルはベアトリクスの首に短剣を当てたまま、ドラコに向かって顎をしゃくった。
「簡単な話だ。このお嬢ちゃんの命と引き換えに、そこの王女をこっちに寄越してくれ」
エルザの体が強張った。自分を、渡せと。
「王女の血が必要なんだよ。上からの命令でな。旦那に逆らうつもりはねえんだが、こっちにも事情があるんでさ」
「上、だと。誰の命令だ」
「おっと、それ以上は企業秘密ってやつだ」
ウィンガルはへらりと笑った。だが短剣を持つ手は微動だにしていない。ふざけた態度の裏で、一瞬の隙も見せていなかった。
「断る」
ドラコの返答は即座だった。一切の迷いがなかった。
「エルザは渡さん。ベアトリクスも殺させん。二人ともオレが守ると決めた。ギルバートに誓った約束だ」
「ギルバート? ああ、この国の前の王か。もう死んでるんだろ? 死人との約束なんざ、守る義理があるのか」
「黙れ」
低い声が、宿屋の空気を震わせた。今までのドラコとは違う、明確な怒り。エルザは初めて、ドラコの声に恐怖に近いものを感じた。
「そうかい。残念だな、旦那。じゃあこの嬢ちゃんの喉、搔っ切るしかねえな」
短剣が、ほんの僅かベアトリクスの首に食い込んだ。細い赤い線が一筋、白い首筋に走る。
ベアトリクスは声を出さなかった。痛みに耐えているのではない。恐怖はある。喉元に刃を突きつけられて、怖くないはずがない。だが、ここで叫べば姫様を動揺させる。姫様が自分と引き換えに前に出てしまうかもしれない。それだけは、させたくなかった。
だがエルザは、ベアトリクスの首筋の血を見た瞬間、一歩前に出ようとした。胸の奥で何かが弾けた。もう一人、大切な人を失うくらいなら。
「わたくしが行きます。わたくしが行けば、ベアトを……」
「動くな、エルザ」
ドラコの声が、鞭のように飛んだ。
「あいつの言葉を真に受けるな。渡したところでベアトリクスを解放する保証はない。両方奪われて終わりだ」
エルザの足が止まった。理屈では分かっている。でも、目の前で親友の首筋から血が流れているのに、じっとしていることが、どれほど辛いか。拳を握り締めた爪が、掌に食い込んだ。
「さあ、どうする旦那。あんまりのんびりしてると、オレの手が滑っちまうかもしれねえぜ」
ウィンガルが短剣を僅かに動かした。その刹那。
ドラコが動いた。
散弾銃を捨て、一息でウィンガルとの距離を詰めた。その速さは、宮殿の廊下で見せたものと同じ。いや、それ以上だった。ベアトリクスの首に当てられた短剣の刃を、素手で掴む。刃が手のひらに深く食い込み、血が滴った。だが構わなかった。痛みなど、とうに捨てている顔だった。
「今だ、ベアトリクス!」
ベアトリクスは反射的に動いた。ドラコが短剣を掴んだことで刃がほんの一瞬止まったその隙に、ウィンガルの腕を両手で掴み、全力で振りほどいた。吸血鬼になったことで増した腕力が、ここで初めて役に立った。自分でも驚くほどの力だった。
ベアトリクスがウィンガルから離れた。エルザがすぐにベアトリクスの手を引き、後ろに下がる。ベアトリクスの首筋には赤い線が残っていたが、浅い傷だった。
「やるじゃねえか。生まれたての吸血鬼にしちゃ、いい反応だ」
ウィンガルは感心したように呟いたが、その目は笑っていなかった。外套の内側からもう一本の短剣を抜き、両手に一本ずつ構える。
「だが旦那、素手でオレの刃を掴むたあ、相変わらず無茶をする」
ドラコは血の滴る手を握り締め、ウィンガルと向き合った。散弾銃は手放してしまった。足元にあるが、拾う隙をウィンガルは与えないだろう。
ウィンガルが動いた。二本の短剣が弧を描く。一本がドラコの腹を狙い、もう一本がその背後のベアトリクスへと伸びる。同時に二人を仕留めるつもりだ。
ドラコは腹への一撃を受けた。刃が深々と突き刺さる。だがそれを無視して体を翻し、ベアトリクスに向かう二本目の短剣の軌道に自らの体を割り込ませた。
守るために。ただそれだけのために。
短剣がドラコの首に食い込んだ。鈍い音がした。
ドラコの首が、斬り落とされた。




