第8話 謝罪
どれくらいそうしていただろう。ベアトリクスの嗚咽が少しずつ収まり、しゃくり上げる間隔が長くなっていた。
不意に、椅子が軋む音がした。
ドラコが立ち上がっていた。散弾銃を壁に立てかけ、二人のほうを向いている。その表情は、いつもの不敵さも余裕もなく、ただ静かだった。
そして。
ドラコは、頭を下げた。
深く。白い長髪がさらりと肩から落ちるほど深く。魔王を名乗る者が、こんなふうに頭を下げる姿を、エルザは想像したこともなかった。
「……すまなかった」
低い声。だが、そこにはどんな言葉よりも重い誠意があった。
「命を救うためとはいえ、貴様に何の断りもなく、貴様の体を変えた。選ぶ権利を奪った。それは許されることではない。この身勝手な判断を、謝らせてくれ」
ベアトリクスは涙で赤くなった目で、頭を下げたドラコを見つめていた。魔王が、一四歳のメイドに頭を下げている。その光景はあまりにも不釣り合いで、だからこそ、その謝罪が本物であることが伝わってきた。
しばらくの沈黙。
「……顔を、上げてください」
ベアトリクスの声はまだかすれていた。目元は赤く、頬には涙の跡が残っている。
「あなたがいなければ、わたしは死んでいました。それは、分かっています」
ベアトリクスはエルザの手を握ったまま、言葉を選ぶように間を置いた。
「……正直に言えば、受け入れられてはいません。自分が吸血鬼になったことも、これからどうなるのかも、何も分かりません。まだ、味方だとも思っていません」
正直な言葉だった。取り繕わない、ベアトリクスらしい言葉だった。
「でも、命を救ってもらったことは事実です。それに対して銃を向けたことは……申し訳ありませんでした」
ベアトリクスもまた、小さく頭を下げた。
ドラコは顔を上げ、ベアトリクスの紅い瞳を見つめた。ほんの一瞬、その目に柔らかいものが宿ったように見えた。
「……エルザは強い子だな。あの小娘、いや、ベアトリクスがエルザを必死に守ろうとした理由が、分かる気がする」
それだけ言って、ドラコは椅子に戻った。エルザは少しだけ頬を赤くしたが、何も言わなかった。
三人の間の空気が、少しだけ変わった。信頼とは呼べない。でも、敵意でもない。かろうじて成り立つ、脆い均衡。それでも、さっきよりは確かに何かが近づいた。少なくとも、互いの痛みを知った。それは小さいけれど、大切な一歩だった。
「……休め。二人とも、体力を回復させておけ」
ドラコの声は、いつもの調子に戻っていた。エルザはベアトリクスをベッドに横たえ、毛布をそっとかけた。疲れ果てたベアトリクスは、涙の痕を残したまま数分で眠りに落ちた。
エルザもベアトリクスの隣で横になった。ベアトリクスの手を握ったまま。その手は冷たかったけれど、指先がぎゅっとエルザの手を握り返しているのが分かった。眠っていても、離さないでいてくれる。
その小さな力に安心して、エルザもゆっくりと目を閉じた。一晩中走り続けた体が、ようやく休息を求めていた。
しばらくして、二人の寝息が規則正しくなったのを確認してから、ドラコは軍服のポケットから小さな手帳と鉛筆を取り出した。使い込まれた革表紙の手帳。一五年前に閉じたままだったそれを、久しぶりに開く。
膝の上で手帳を開き、鉛筆を走らせ始める。日記だった。いつからの習慣なのか、その手つきは慣れたものだった。新しいページに今夜の出来事を書き留めていく。
やがて手帳を閉じ、ポケットにしまう。そして散弾銃を手に取り、扉のほうに意識を向けた。見張りの姿勢に戻る。
ドラコはちらりと二人の少女を見た。手を繋いだまま眠っている。小さな寝息が二つ、静かに重なっている。一五歳と一四歳。本来なら、こんな目に遭うべき年齢ではない。
静かな時間が流れた。鎧戸の隙間から漏れる微かな光が、少しずつ角度を変えていく。束の間の平穏だった。
それが、破られた。
悲鳴が聞こえた。
階下から。短く、鋭い。
ドラコは一瞬で立ち上がった。散弾銃を構え、扉に銃口を向ける。
「起きろ」
低い声が、二人の少女を叩き起こした。エルザが目を開け、ベアトリクスが跳ね起きる。手を繋いだまま眠っていた二人は、ほとんど同時に起き上がった。
「何が……」
「静かにしろ、一階で何かあった」
ドラコの声に緊張が滲んでいた。宮殿の時とは違う。あの時は余裕があった。今は、何かを警戒している。
ドラコは扉をゆっくりと開き、廊下の気配を探った。血の匂いがした。薄く、だが確かに。
「ついてこい、オレの後ろから離れるな」
三人は音を殺して階段を降りた。ドラコが先頭、エルザが真ん中、ベアトリクスが拳銃を構えて最後尾。木の階段が微かに軋む。それ以外の音は、何も聞こえない。悲鳴を上げた者は、もう声を出せなくなったのだ。
一階のカウンターが見えた。
ドラコの足が、止まった。
カウンターの向こう側に、二つの人影が倒れていた。
宿屋の店主と、その隣にいる女性。店主の妻だろうか。二人とも仰向けに倒れ、喉元を短剣で貫かれていた。血が床一面に広がり、まだ温かい湯気を立てている。つい先ほどまで生きていた。ほんの数分前まで。
手遅れだった。
エルザが小さく悲鳴を上げ、口を押えた。また、人が死んだ。自分たちを泊めてくれた人が。ベアトリクスはエルザの前に立ち、拳銃を構えて周囲を警戒した。その手はもう、震えていなかった。
ドラコは店主の傍にしゃがみ、首筋に指を当てた。脈はない。隣の女性も同じだった。体はまだ温かい。殺されてから、ほとんど時間が経っていない。
「……二人とも、もう助からん」
ドラコは静かに立ち上がり、周囲を見渡した。紅い瞳が鋭く細められている。犯人の気配を探っているのだ。
店主たちの首に刺さった短剣。その刃の形に、ドラコは見覚えがあった。
追手が、来ている。
ドラコは散弾銃を構え直し、宿屋の入り口に目を向けた。扉は開いたままだった。外から冷たい風が吹き込み、血の匂いを運んでくる。
束の間の平穏は、あまりにも短かった。




