第7話 告白
ドラコが帽子を被り直した後も、部屋の空気は重いままだった。
ベアトリクスは銃を膝の上に置いたまま、ベッドの縁に座っている。紅い瞳がじっと床を見つめていた。車の中で感じた体の違和感。鋭くなった五感。何かが決定的に変わったという確信だけがあって、その正体がまだ分からない。
分からないことが、怖かった。姫様の表情が気がかりだった。車の中で「何でもありません」と言った時の、あの引きつった笑顔。何かを隠している。それも、とても辛いことを。
「……姫様。さっき、あとで全部話すと言ってくださいましたよね」
ベアトリクスの声は静かだった。エルザを責めているのではない。ただ、もう待てないのだ。
エルザは息を吸った。覚悟を決めるように、小さく拳を握る。ずっと先延ばしにしてきた言葉。でも、これ以上逃げることはできない。
「……ベアト。あなたに、話さなければいけないことがあります」
エルザはベアトリクスの隣に座り、その手をそっと取った。冷たい。前より、ずっと冷たい。
「宮殿で、あなたは吸血鬼の短剣で斬られました。刃には毒が塗られていて……わたくしの魔術では、止められませんでした」
ベアトリクスの目が、わずかに見開かれた。
「毒の進行は速くて、あのままでは……あなたは、死んでいました」
声が震える。あの時の恐怖が、言葉にするだけで蘇ってくる。腕の中で冷たくなっていくベアトリクス。途切れていく呼吸。何もできない自分。
「ドラコが、あなたを救うために、吸血鬼の吸血によって、毒を消し命を救いました。ただし、その代わりに……」
エルザの声が、詰まった。ベアトリクスはエルザの顔をじっと見つめている。その紅い瞳が、続きを待っている。
「……吸血症を、発症して、つまり」
言えなかった。最後の一言が、どうしても喉を通らない。
代わりに答えたのは、ドラコだった。
「吸血鬼になる。貴様は今、吸血鬼だ」
低い声が、静かに部屋に落ちた。
ベアトリクスは動かなかった。数秒の間、瞬きすらしなかった。それから、ゆっくりと自分の手を持ち上げ、見つめた。見た目は何も変わっていないように見える。でも体の内側が、昨日までの自分とは明らかに違っていた。
「……鏡」
かすれた声だった。唇が震えている。
「鏡を、見せてください」
エルザがテーブルの上に置かれていた小さな手鏡を取り、ベアトリクスに渡した。手が震えていた。渡すエルザの手も、受け取るベアトリクスの手も。二人の指先が触れた瞬間、その冷たさにエルザの胸が痛んだ。
ベアトリクスは、鏡を覗き込んだ。
映っていたのは、自分の顔だった。見慣れたはずの自分の顔。頬も、鼻も、唇も、何も変わっていない。でも、一つだけ違うところがあった。
瞳が、紅い。
あの化け物たちと同じ色。自分たちを襲い、大切な人たちを殺した、あの吸血鬼たちと同じ色だった。ベアトリクスは鏡を近づけ、もう一度よく見た。見間違いであってほしかった。暗い部屋のせいで、そう見えているだけであってほしかった。
でも何度見ても、瞳は紅いままだった。
鏡を持つ手が、がたがたと震え始めた。
「……嘘」
声が、壊れたように漏れた。
「嘘、です。だって、わたし。わたしは、人間で」
鏡の中の紅い瞳が、涙でに滲んでいく。でも、どれだけ瞬きを繰り返しても瞳の色は変わらない。紅いままだ。ずっと、紅いままだ。
ベアトリクスの手から、鏡が滑り落ちた。
床に落ちた鏡が、小さな音を立てた。割れはしなかったが、ベアトリクスの中で何かが割れた音がした気がした。
「いや……」
膝を抱え、体を丸めた。小さな体がさらに小さくなる。メイド服の肩が、細かく震えている。
「いやです。わたし、化け物になんか……化け物に」
嗚咽が漏れた。一四歳の少女の、押し殺しきれない泣き声。それは、宮殿で聞いたどんな悲鳴よりも、エルザの胸を引き裂いた。
エルザは何も言えなかった。言葉が見つからなかった。
ごめんさい。あの時、わたくしが「はい」と答えたから。根拠もないのに「はい」と。あなたが吸血鬼になったのは、わたくしのせいだ。でも、答えなければあなたは死んでいた。どちらを選んでも、ベアトリクスを傷つけることに変わりはなかった。
正しい選択だったのか、今でも分からない。でも、あの時の自分にはあの答えしか出せなかった。この手を離したくない。ただそれだけの、祈りだった。
そんな言葉は今のベアトリクスには何の慰めにもならない。
だから、エルザは言葉の代わりに動いた。
ベアトリクスの背中に、そっと腕を回した。
小さな背中。震えている。あの日、宮殿に引き取られてきた時も、こんなふうに震えていた。何も持たず、誰も知らない場所に連れてこられた幼い少女。あの時エルザがしたことは、ただ手を握ることだけだった。
今も、同じだ。できることは、きっとそれだけだ。
「ベアトは、化け物なんかじゃありません」
エルザの声も震えていた。でも、腕の力は緩めなかった。
「瞳の色が変わっても、あなたはわたくしのベアトです。わたくしの大切な、たった一人の親友です。それは、何があっても変わりません」
ベアトリクスの震えが、一瞬止まった。
「……でも、わたしはもう人間じゃない。あの化け物たちと同じ……」
「同じじゃありません」
エルザの声が、はっきりと響いた。
「あの者たちは人を殺しました。でもあなたは、命を懸けてわたくしを守ってくれた。体を盾にして、わたくしの前に立ってくれた。それはあなたが人間だからじゃない。ベアトリクスだからです。瞳の色なんかで、それは変わらない」
「ひめ、さま……」
「わたくしがそばにいます。ずっと。何があっても」
ベアトリクスの体から力が抜け、エルザの胸に崩れ落ちた。声を上げて泣いた。遠慮も、抑制もなく。宮殿で怖い目に遭った時も泣かなかった。短剣で斬られた時も声を上げなかった。でも今、初めて、ベアトリクスは泣いた。まるで子供のように、ただ泣いた。
エルザはその背中をさすりながら、自分も涙を流していた。声は出さなかった。今は、ベアトリクスが泣いていい番だから。自分の涙は、あとでいい。




