第5話 問いかけ
車が、がくんと揺れた。
蒸気機関の唸りが細くなり、やがて力を失うように止まった。車体が惰性で少しだけ前に進み、静かに停まる。急な沈黙が耳に痛い。ずっと聞こえていた機関の音がなくなると、代わりに鳥のさえずりと風の音が聞こえてきた。
「燃料切れか」
ドラコが短く言った。計器盤に目を落とし、小さく舌打ちする。
車窓の外には、のどかな村の風景が広がっていた。石造りの家が街道沿いに並び、畑が朝もやに煙っている。オバサーブの、名もない小さな村。首都イルドブルからは随分と離れたらしい。あの地獄が嘘のような、穏やかな朝だった。
空はすっかり白んでいた。東の稜線から朝日が顔を覗かせ、柔らかな光が村全体を包み始めている。遠くで鶏が鳴いた。日常の音。つい数時間前まで自分がいた場所とは、まるで別の世界のようだった。
「ここからは歩くしかないが、その前に休息が要る。貴様たちはまともに眠っていないだろう」
ドラコは後部座席のエルザとベアトリクスを一瞥した。エルザの顔には夜通しの疲労が色濃く刻まれている。ベアトリクスは吸血鬼として目覚めたばかりで、体が安定しているとは言い難い。
「あそこに宿屋がある。休むぞ」
ドラコが指差した先に、石造りの二階建ての建物があった。木の看板に宿屋の名前が刻まれ、一階の窓から淡い灯りが漏れている。
三人は車を降り、宿屋へ向かった。ドラコが扉を開けると、カウンターの奥から初老の男が顔を出した。宿屋の店主らしい。
店主はドラコの姿を見た瞬間、顔色を変えた。白い長髪。青白い肌。そして何より、暗がりの中でもはっきりと見える紅い瞳。人間ではないと、一目で分かる。店主の手がカウンターの下に伸びた。おそらく武器か何かが隠してあるのだろう。
「す、すまないが、うちには空き部屋が……」
「嘘をつくな。客がいないのは見ればわかる」
ドラコは淡々と言い、軍服の胸元から小さな金属の記章を取り出した。精巧な紋様が刻まれ、微かに青白い光を帯びている。特別な付呪が施された、帝国軍の証だ。
店主の目が大きく見開かれた。カウンターの下に伸ばしていた手が、止まった。
「それは……帝国の」
「見ての通りだ。一晩の宿賃は払う」
ドラコはもう片方の手で紙幣を数枚、カウンターに置いた。店主は記章と紙幣を見比べ、それからドラコの後ろにいるエルザとベアトリクスに目をやった。疲れ切った少女が二人。片方の瞳は紅いが、もう片方の少女は明らかに人間だ。
吸血鬼が人間の少女を連れている。異様な取り合わせに、店主は何か言いたげだったが、帝国軍の記章を前にしては断ることもできないのだろう。渋い顔のまま鍵を差し出した。
「……二階の奥の部屋だ。何かあっても、うちは関与しないからな」
「ああ、それでいい」
部屋に入ると、ドラコは窓の鎧戸を閉めた。朝日を遮るためだろう。薄暗くなった室内にはベッドが二つと、小さなテーブル、それに古びた椅子が一脚。壁には安物の風景画が一枚。決して広くはないが、今の三人には十分すぎるほどだった。
ベアトリクスは片方のベットの縁に腰を下ろした。体を起こしてはいるものの、時折目を閉じている。吸血鬼として目覚めたばかりの体が、まだ安定していないのかもしれない。
「眠れるうちに眠っておけ。いつまた動くことになるか分からん」
ドラコは椅子にどかりと腰を下ろし、散弾銃を膝の上に置いた。眠るつもりはないらしい。見張りを買って出たということだろうか。
エルザはベッドの縁に腰を下ろしたが、とても眠れる気分ではなかった。目を閉じると宮殿の光景が蘇る。
赤黒く染まった廊下。動かなくなった人々の顔。それを振り払おうとすると、今度はベアトリクスの紅い瞳が浮かんでくる。
頭の中がぐるぐると回っている。このまま何も考えずに眠ってしまいたい。でも、それは許されない。王女として、今起きていることを理解しなければならない。
それに、聞かなければならないことがある。車の中では口にできなかった問い。今なら、聞ける。聞かなければならない。
「……ドラコ様」
「様はいらん。ドラコでいい」
「では……ドラコ。聞かせてください」
エルザはまっすぐにドラコの紅い瞳を見つめた。王女としての覚悟を込めて。震える膝を、拳を握ることで抑え込んだ。
「あの吸血鬼たちの集団は、一体何なのですか。なぜわたくしの命が狙われているのですか。あなたは何者なのですか。父との関係は何なのですか」
矢継ぎ早の問い。堰を切ったように、溜め込んでいたものが溢れ出した。ドラコは少しだけ目を細め、口元に薄い笑みを浮かべた。
帽子を脱ぎ、白い長髪を指で梳いた。制帽の下から現れた顔は、やはりどこから見ても女性のものだ。美しい顔立ちに似合わない低い声で、ゆっくりと口を開く。
「一つ目。あの吸血鬼たちが何者かは知らん。わたしは長い間眠っていた。目を覚ましたらいきなりあの騒ぎだった。何が起きているのか、わたしにも分からんことだらけだ」
「二つ目。貴様が狙われている理由も分からん。だが、あいつらは明確に王女である貴様を探していた。貴様自身に何か価値があるんだろう。今は推測しかできん」
エルザの表情が曇る。自分でも分からない理由で命を狙われている。それは、宮殿で味わった恐怖とはまた別の、底知れない不安だった。
「三つ目。わたしは魔王だ。ただの魔王だ。それ以上でも以下でもない」
「ただの魔王という人はいないと思うのですが……」
「……まあ、そうかもしれんな」
ドラコは肩をすくめた。少しだけ、楽しそうだった。
「四つ目。ギルバートとは、昔からの友だ。それだけだ」
友。魔王と人間の王が、友。あまりにも不釣り合いな言葉だったが、ドラコの声には嘘の響きがなかった。「友だ」と口にした時のドラコの声は、他の回答の時とは明らかに温度が違っていた。
「……父は、あなたのことを話してくれませんでした。棺の中で眠る者を起こせとは言っていましたが、それが魔王だとは」
「言えなかったんだろう。魔王と友だなどと知れたら、王としての立場が危うくなる。ギルバートは賢い男だった。必要なことだけを伝え、余計なことは口にしない。あいつらしいやり方だ」
あいつらしい。その言葉に確かな親しみが込められていた。対等な友だからこそ出てくる言葉だ。
エルザは小さく頷いた。
少しの間があった。ドラコが口を開く。
「逆にわたしから聞くぞ、貴様は……」
「貴様ではありません」
エルザが静かに、しかしはっきりと遮った。
「エルザです。わたくしには、ちゃんと名前があります」
ドラコは一瞬きょとんとした顔をした。それから、ふっと息を漏らすように笑った。
「……エルザ、か。いい度胸だな。魔王に向かって名前を名乗り直させるとは」
「度胸の問題ではありません。礼儀の問題です」
ドラコは肩をすくめたが、その口元にはさっきまでとは違う、柔らかい笑みが浮かんでいた。だがその笑みは、次の問いかけと共にすぐに消えた。




