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ブラッディ―メイデン  作者: しましまましま


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第37話 猶予

 部屋の反対側、ベッドの上で。

 ベアトリクスは毛布を膝まで引き上げ、壁にもたれていた。顔色が悪かった。迷宮から戻ってからずっと、血の気の引いた白さをしている。目は開いているが、どこも見ていなかった。

 あの光景が、まだ瞼の裏に焼き付いていた。ゴブリンたちが人間の肉を貪り食っていた光景。血まみれの手で肉を引きちぎる音。そして、自分も同じものを食べなければ生きていけないという事実。

 何より辛かったのは、せっかく食べた一切れを吐いてしまったことだった。エルザの助けを借りて、必死の思いで飲み込んだあの一口。もう一度食べる勇気が、今のベアトリクスにはなかった。

 自分はあのゴブリンたちと同じなのだ。同じものを食べて、同じように生きている。いつかあのように理性を失い、獣のように肉を貪る姿になるのではないか。そんな想像が、頭の中でぐるぐると回っていた。

 エルザが、ベアトリクスの隣に座っていた。何も言わず、背中をそっとさすっている。ゆっくりと、一定のリズムで。


「ベアト。大丈夫ですか」

「……はい。大丈夫、です。姫様」


 返事はしたが、声がかすれていた。大丈夫ではないことは、誰の目にも明らかだった。エルザはそれ以上何も訊かず、背中をさすり続けた。

 フローレンスが黒い鞄を手に取り、中を探った。鞄の底のほうから、小さな金属の容器を取り出す。蓋を開けると、中には白い錠剤が並んでいた。タブレット型の薬。一〇錠。

 フローレンスはそれを手に、ベアトリクスの方へ歩いた。が、途中でドラコの前で足を止めた。


「ドラコ。一つ、許可をいただきたいのですが」


 フローレンスの声が、わずかに硬かった。許可を求めるということは、それが簡単な判断ではないということだ。ドラコは帽子の鍔を上げ、フローレンスの手の中にある錠剤を見た。一瞬、目が見開かれた。


「……それは」

「はい。あの薬です」


 短い会話だったが、二人の間にはそれだけで通じる何かがあった。


「本来なら、あの方のために渡す薬です。わたしが研究を重ねて、ようやく形にしたもの。数も限られています。この一〇錠が、今手元にある全てです」


 フローレンスの声は淡々としていたが、その奥には覚悟があった。この薬を手放すことの重さを、フローレンス自身が一番理解している。


「ですが、今のベアトリクス様の健康状態なら、仕方がないと判断しました」


 ドラコはベアトリクスを見た。エルザに背中をさすられながら膝を抱えている小さなメイド。あの子は強い。だが、今は限界に近い。


「……分かった。お前がそう判断したなら、オレに異論はない。頼む」


 フローレンスは一度だけ小さく目を伏せ、それからベアトリクスのもとへ歩いた。

 ベアトリクスが顔を上げた。紅い瞳が、不安げにフローレンスを見つめている。迷宮でのことがあってから、合わせる顔がなかった。食べろと言われたのに、吐いてしまった。

 フローレンスはベアトリクスの前にしゃがみ、目線を合わせた。金属の容器を差し出す。


「これを。わたしが作った薬です。吸血鬼専用の栄養補助剤とでも言いましょうか。この薬を飲めば、人間の肉を食べなくても空腹を満たし、体に必要な栄養を補うことができます」


 ベアトリクスの目が、大きく見開かれた。エルザも驚いた顔でフローレンスを見た。人間の肉を食べずに済む薬。それがどれほどの研究と努力の末に生まれたものか、エルザには察することができた。


「人間の肉を食べなくても……?」

「完全な代替にはなりません。効果は一日分。一錠で一日、食事をしなくても体を維持できる。一〇錠で十日分です。その間に、少しずつでいい、自分の体と折り合いをつけてください」


 ベアトリクスは容器を見つめていた。十日分の猶予。あの味も、あの感触も、あの罪悪感も、しばらくは感じなくていい。だが同時に、フローレンスの言葉の端々に滲む重さにも気づいていた。ドラコに許可を求めていたこと。この薬は、もともと自分のために作られたものではない。


「フローレンスさん。この薬は、本当は別の方のためのものではないですか」


 フローレンスの表情が一瞬だけ動いた。ほんの僅かな、痛みのような揺れ。だが、すぐに冷静な顔に戻った。


「……そうです。でも、今は、あなたに必要です」


 ベアトリクスの目に、涙が滲んだ。


「すみません……すみません、フローレンスさん」


 声が震えていた。迷宮で吐いてしまったこと。大切な薬を使わせてしまうこと。全てが申し訳なくて、涙が止まらなかった。エルザがベアトリクスの肩を抱いた。

 フローレンスは、泣いているベアトリクスをしばらく見つめていた。

 そして、笑った。

 ほんの僅かに、口元を緩めた。フローレンスが笑顔を見せることは稀だった。常に冷静で、感情を見せることを好まないエルフの吸血鬼。その彼女が、今、笑っている。冷たい顔立ちが、柔らかくなっていた。


「大丈夫です。何とかなります」


 静かな声だった。だが、そこには確かな温もりがあった。医者として、先輩の吸血鬼として、フローレンスはその言葉を口にしていた。


「薬はまた作れます。わたしは医者ですから。患者を治すのが仕事です。今あなたが必要としているなら、渡すのは当然のことです」


 ベアトリクスが顔を上げた。涙で滲んだ紅い瞳が、フローレンスの顔を見た。フローレンスの笑顔はもう消えていた。いつもの表情に戻っている。だが、あの笑みはベアトリクスの目に焼き付いていた。

 ベアトリクスは涙を拭い、両手で金属の容器を受け取った。小さな容器が、手の中でずっしりと重く感じられた。一〇錠分の重さではない。フローレンスの覚悟と、仲間であるという意味の重さだった。


「ありがとう、ございます」


 かすれた声だったが、感謝が詰まっていた。深く頭を下げるベアトリクス。エルザもまた、フローレンスに向かって静かに頭を下げた。言葉はなかったが、王女の目には感謝と敬意があった。自分の親友を救ってくれた人に対する、偽りのない感情だった。

 フローレンスは何も言わずにテーブルへと戻った。再び地図を広げ、帝国への経路を確認し始める。何事もなかったかのように。だが、その横顔には微かに安堵の色があった。

 ドラコは帽子を目深に被ったまま、手帳を取り出し鉛筆を走らせた。今日の出来事を、日記に記す。フローレンスの決断のこと。ベアトリクスの涙のこと。あの小さなメイドが、一〇錠の薬を大切そうに受け取った姿のこと。鉛筆が紙を擦る小さな音だけが、静かな部屋に響いていた。

 ベアトリクスは容器の蓋をそっと閉め、大切そうにポケットの中にしまった。十日分の猶予。その間に、自分自身と向き合う。逃げるのではなく、受け入れるために。フローレンスの言葉が胸に残っていた。「何とかなります」。あの一言が、今の自分をどれほど支えているか。いつか薬がなくても、自分の力で食事ができるようになる。そう信じたかった。

 アビゲイルが本を開き、足をぶらぶらさせ始めた。いつもの姿に戻っている。だが、その胸の中には、まだ小さな棘が刺さったままだった。あの筆跡のこと。身近な誰か。答えはまだ、見つからない。

 窓の外で、鳥が鳴いた。その声は、昨日までよりもどこか明るく響いていた。

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