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ブラッディ―メイデン  作者: しましまましま


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第36話 確証

 その夜、村は静かだった。

 風が木々を揺らす音と、虫の声だけが聞こえる。鎧戸の向こう側で、ケネロットの夜が穏やかに過ぎていく。昨夜まで村人たちを恐怖に陥れていたゴブリンの奇声は、もう聞こえない。

 宿屋の窓際で、ドラコは鎧戸の隙間から外を見ていた。暗闇の中に動く影はない。紅い光も、獣の唸り声もない。静寂だけが、夜を満たしている。

 店主が一時間おきに一階と二階を行き来し、窓の外を確認していた。最初は強張った顔で、二度目はまだ不安そうに、三度目にはようやく肩の力が抜け始めていた。四度目が来る前に、店主は一階のカウンターに突っ伏して眠ってしまった。毎晩の緊張から解放された体が、限界を迎えたのだろう。

 エルザとベアトリクスも眠りについていた。フローレンスは狙撃銃を傍に置いたまま、椅子に腰掛けて静かに目を閉じている。アビゲイルはベッドの上で本を開いたまま寝落ちしていた。起きているのは、ドラコだけだった。

 鎧戸の隙間から、冷たい夜風が僅かに吹き込んでくる。ランプの炎が揺れた。ドラコは手帳を取り出し、鉛筆を走らせた。今日はあったことを、いつものように日記に記す。迷宮のこと。ゴブリンのこと。アビゲイルが浮かべた、あの表情のこと。書き終えると手帳を閉じ、再び鎧戸の隙間に目を向けた。

 深夜を過ぎ、空が白み始めても、何も起きなかった。

 ゴブリンによる被害は、止まった。


 朝。

 店主が目を赤くして、何度もドラコたちに頭を下げていた。


「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます。昨夜は一度も襲撃がなかった。この半年で初めてです。子供たちが外で遊べるようになります。畑の仕事も、夜を気にせずに済む」


 声が震えていた。感謝というより、安堵だった。半年間ずっと張り詰めていた糸が、ようやく切れたのだ。店主は約束通り宿代を無料にし、さらに村の蓄えから路銀を包んでくれた。ドラコは「気持ちだけで十分だ」と断ろうとしたが、フローレンスが無言でそれを受け取った。


「路銀は必要です。受け取ります」

「……フローが言うなら」


 ドラコが肩をすくめた。金銭の管理はフローレンスに一任している。反論しても無駄だと、長い付き合いで理解していた。


 二階の部屋で出発の準備をしながら、ドラコたちは昨日の迷宮で見たものについて話し合っていた。

 ドラコは窓際の壁にもたれ、腕を組んでいる。帽子の鍔の下から覗く紅い瞳が、壁の一点を見つめていた。考え事をする時の癖だ。


「吸血鬼化したゴブリンの集団。あんなものは初めて見た」


 低い声が、静かな部屋に落ちた。


「ゴブリンが吸血鬼になること自体は、理屈の上では不可能じゃない。吸血症は種族を選ばない。だが、あの数は異常だ。自然発生じゃない。誰かが計画的にやっている」


 フローレンスがテーブルに地図を広げながら頷いた。


「召喚術式で無限にゴブリンを生み出し、生成と同時に吸血症を付与する。手間も技術も桁違いです。村一つを実験場にするような真似、普通の魔術師はしません」

「財団と何かしら関係がある。そう考えるのが自然だろうな」


 フローレンスは僅かに目を細めた。ヴェンツェル王国の襲撃、テオドル王国のドルメロ、帝国の宮殿への攻撃。そしてゴブリンの吸血鬼化。財団の影が、あらゆる場所に伸びている。やつらが何を目的としているかはまだ掴めないが、手段を選ばない組織であることは確かだった。

 吸血鬼を兵器として利用し、ゴブリンまで道具にする。医者であるフローレンスにとって、吸血症を意図的にばら撒く行為は、許し難いものだった。紅い瞳の奥に、静かな怒りが宿っている。

 そこで、アビゲイルが口を開いた。


「ねえ」


 ベッドの縁に腰掛けたアビゲイルが、足をぶらぶらさせるのを止めた。幼い見た目に似合わない、真剣な表情だった。


「あの魔術式のこと。わたくし、ずっと考えていたの」


 ドラコとフローレンスがアビゲイルに目を向けた。


「あの術式に刻まれていた文字の筆跡。見覚えがある、と言ったでしょ?」

「ああ。何か分かったのか」


 ドラコが壁から背を離した。アビゲイルは少しの間、言葉を選ぶように黙った。それから、慎重に口を開いた。


「まだ確証はない。だから、名前は出せない。でも、一つだけ言えることがある」


 アビゲイルの紅い瞳が、真っすぐにドラコを見た。


「あの術式を描いた人物は、わたくしたちの知らない遠い場所にいる誰かじゃない。もしかしたら、わたくしたちの身近に存在しているかもしれない」


 部屋の空気が、一瞬で変わった。フローレンスの手が僅かに強張り、ドラコの目が鋭くなった。


「身近、とは」

「そのままの意味よ。あの水準の術式を描ける魔術師は、わたくしが知る限り片手で数えられる。そして、その全員をわたくしは知っている。顔も、名前も、筆跡も」


 アビゲイルの声に、いつもの軽やかさはなかった。一語一語を噛みしめるように、言葉を紡いでいる。


「でも、まだ分からない。見間違いかもしれない。似ているだけかもしれない。だから今は、これ以上は言えない」


 それは、アビゲイル自身がまだ受け入れられていないということでもあった。信頼している誰かが、裏で財団と繋がっているかもしれない。その可能性を口にすることは、まだできなかった。

 ドラコは暫くの間アビゲイルを見つめ、それから小さく頷いた。


「分かった。無理に聞かない。お前が話せる時が来たら、聞かせてくれ」


 アビゲイルは目を伏せ、「ありがとう」と小さく呟いた。フローレンスも何かを問いたそうにしていたが、ドラコの判断に従い、口を閉じた。アビゲイルが名前を出さないのには理由がある。それを信じるだけの信頼関係が、三人の間にはあった。

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