第35話 魔術式
アビゲイルの言葉に、全員の表情が険しくなった。村のゴブリン被害は、天災ではなく人災だった。誰かが、この村を標的にして仕掛けた罠だ。目的は分からない。実験なのか、嫌がらせなのか、それとも何か別の意図があるのか。
エルザが小さく拳を握った。あの店主の疲れ切った顔が、脳裏に浮かんだ。村人が殺され、家畜が襲われ、助けを求めても兵士は来ない。その全てが、誰かの意思で引き起こされていた。人の命を弄ぶ行為。王女として、いや、人として、許せないことだった。
ベアトリクスもエルザの隣で唇を嚙んでいた。あのゴブリンたちが食べていた人間の死体。あれも、この術式が生み出した被害の一つだ。
「アビー、止められるか」
ドラコが訪ねた。
「もちろん、少し時間をちょうだい」
アビゲイルは魔杖を構え、術式の解析に取りかかった。杖先の宝珠が淡い光を放ち、魔術式の紋様に触れていく。永続召喚を維持している魔力の流れを読み取り、その核となる部分を特定する作業だ。紋様の上を光が走るたび、アビゲイルの瞳が細かく動く。術式の構造を読み解いているのだ。
その間にも、魔術式からゴブリンが現れ続ける。ドラコとフローレンスが、アビゲイルを守るように前に立ち、湧き出るゴブリンを片端から排除していった。銃声が断続的に広間に響く。エルザもベアトリクスの肩を支えながら、後方で二人の背中を見守っていた。
数分後。
「見つけた。核はここ」
アビゲイルが杖を術式の中央に向けた。紋様が重なり合う一点。そこに、全ての魔力の流れが集約されている。魔力が杖先に集中し、宝珠の輝きが増していく。
宝珠から放たれた光が、魔術式の中央を貫いた。紫色の光が激しく明滅し、紋様の線が一本、また一本とひび割れていく。魔力の循環が断たれ、術式が崩壊を始めた。
最後の一線が消えた時、広間から紫の光が消えた。魔術式は、ただの線刻に戻っていた。もうゴブリンは現れない。
這い出しかけていた最後のゴブリンが、姿を保てなくなり、紫の光と共に消滅した。召喚途中だったのだろう。実体化する前に、術式の崩壊に巻き込まれた。
静寂が、広間を包んだ。先ほどまでの銃声と咆哮と魔術の轟音が嘘のように、何も聞こえない。既に灰となったトロールの死骸が床に舞っている。その周囲に、無数のゴブリンの亡骸が散乱していた。
「終わったわ。もうこの術式からゴブリンは出てこない」
アビゲイルが立ち上がり、額の汗を袖で拭った。解呪は成功した。小さな体にとって、あれだけの魔術式を打ち破るのは相当な消耗だったはずだが、アビゲイルはそれを表情に出さなかった。
だが、アビゲイルは魔術式から目を離さなかった。
しゃがみ直し、術式に刻まれた文字をもう一度、じっと見つめた。解呪によって魔力は失われたが、文字そのものは石に刻まれたまま残っている。
アビゲイルの表情が、変わった。
好奇心でも、警戒心でもない。もっと個人的な、動揺に近い何かが、紅い瞳に浮かんでいた。
文字の傾き、線の運び方。それは指紋のようなもので、同じ文字でも書き手によって微妙に異なる。
アビゲイルは、この筆跡に見覚えがあった。
どこで見たのか。誰の文字なのか。記憶を辿ろうとする。だが、確信には至らない。似ている。とても似ている。でも、まさか。あの人がこんなことをするはずがない。こんな非道な召喚術を仕掛け、罪のない村人を殺すようなことを。
だが、筆跡は嘘をつかない。文字の癖は、意識して変えられるものではない。特に古代語のように複雑な文字体系では、長年の書き慣れが無意識に表れる。
アビゲイルの思考が、渦を巻き始めた。もし本当にあの筆跡だとしたら。財団と、自分たちの身近な誰かが繋がっているということになる。それは――
「アビー」
ドラコの声が、思考を断ち切った。
アビゲイルは顔を上げた。ドラコが広間の出口に立ち、こちらを見ている。
「行くぞ。日が暮れる前に村に戻る。今夜、ゴブリンが現れなければ成功だ」
アビゲイルは一瞬だけ、魔術式の跡に目を戻した。刻まれた文字が、薄暗い広間の中で沈黙している。答えは、ここにはない。
アビゲイルは立ち上がり、魔杖を手に取った。
「ええ。行きましょう」
声はいつも通りだった。だが、アビゲイルの胸の中には、小さな棘が刺さったまま残っていた。あの筆跡のことを、今はまだ誰にも言えない。確証がない。ただの思い過ごしかも知れない。でも、もし違ったら。自分たちが信頼している誰かが、裏で財団と繋がっているとしたら。
アビゲイルは一度だけ振り返り、暗い広間を見た。魔術式の跡が、闇の中で静かに横たわっている。あの文字を刻んだ者は、いつここに来たのか。何のためにゴブリンを召喚し続けたのか。答えはまだない。
アビゲイルはドラコの後に続いて広間を出た。迷宮の通路には、先ほどまでの戦闘の跡が残っている。ゴブリンの死骸と、銃弾の痕と、氷の残骸。それを踏み越えながら、一行は来た道を引き返した。
エルザがベアトリクスの肩を支え、フローレンスが後方を警戒し、ドラコが先頭を歩く。ベアトリクスはまだ青ざめた顔をしていたが、自分の足で歩いていた。エルザが何度も「大丈夫?」と小声で訊き、ベアトリクスがそのたびに小さく頷く。アビゲイルは最後尾で、時折振り返りながら迷宮を後にした。あの筆跡が、頭から離れなかった。
石の階段を上り、森の中に出た。午後の日差しが木々の隙間から差し込んでいる。地下の闘いと血の匂いから解放され、エルザが深く息を吸った。ベアトリクスも目を閉じ、森の空気を吸い込んだ。腐臭ではない、土と緑の匂い。それだけで、少しだけ楽になった。
ドラコは森の入口で足を止め、迷宮の方向を振り返った。
「あとは、今夜の結果を見届けるだけだ」
もし今夜、村にゴブリンが現れなければ、任務は成功だ。店主との約束は果たされる。
だが、ドラコの頭の中にあるのは、村の安全だけではなかった。吸血鬼化したゴブリン。吸血鬼化したトロール。そして、熟練の魔術師が仕掛けた召喚術式。この辺境の村で起きたことは、孤立した事件ではないかもしれない。帝国の宮殿を襲撃した財団。テオドル王国の国王を取り込んだ財団。その影が、こんな場所にまで伸びている。
一行は、村への帰路についた。午後の陽が木々の間から斜めに差し込み、森の地面に長い影を作っていた。誰も、多くを語らなかった。それぞれが、迷宮で見たものを胸の中で反芻していた。




