第34話 トロール
トロールが動いた。
一体目が丸太のような腕を振り上げ、ドラコに向かって叩きつけた。石の床が砕け、破片が飛び散る。衝撃で広間全体が揺れた。ドラコは横に跳んで回避し、短機関銃の引き金を引いた。連射された弾丸がトロールの胸に着弾する。だが、硬い皮膚に弾かれ、傷は浅い。弾痕が僅かに血を滲ませるが、見る間に塞がっていく。再生している。
通常のトロールでさえ銃弾が通りにくい。それが吸血鬼化している。皮膚の硬度が増し、さらに再生能力まで加わっている。厄介だ。
二体目のトロールが床の石を引き剝がし、エルザとベアトリクスに向かって投げつけた。
「伏せて!」
フローレンスが叫んだ。エルザがベアトリクスを抱えて地面に伏せた。石塊が頭上を掠め、背後の壁に激突して砕けた。破片がエルザの背中に降り注ぐ。
「弾が効きにくい。急所は心臓だが、あの分厚い胸板は銃弾じゃ貫けない。フロー、まず目を潰して動きを止めろ。隙を作る」
ドラコの声に応え、フローレンスが狙撃銃を構えた。広間の後方から、冷静に照準を合わせる。吸血鬼の急所は心臓だ。だが、トロールの分厚い胸板を銃弾で貫通させるのは困難。ならば、まず視覚を奪って隙を作り、心臓に届く一撃を叩き込む。
銃声が一発、鋭く響いた。
狙撃銃の弾丸が、二体目のトロールの右目を貫いた。トロールが咆哮を上げ、両手で顔を押さえてよろめく。だが、倒れない。紅い左目が怒りに燃え、フローレンスの方向を睨みつけた。
三体のトロールが壁を殴りつけ、石の塊をフローレンス目がけて投げつけた。フローレンスは身を翻して回避する。石塊が背後の壁に激突し、通路の一部が崩落した。
「アビー!」
ドラコが叫んだ。
アビゲイルが魔杖を振り上げた。杖先の宝珠が眩い青白い光を放つ。
広間の空気が一瞬で凍りついた。アビゲイルの足元から氷の奔流が走り、三体のトロールの足を凍結させた。膝から下が氷に閉じ込められ、巨体の動きが止まる。
一体目のトロールが氷を砕こうと腕を振り下ろすが、アビゲイルは続けて杖を振った。氷の槍が空中に生成され、トロールの胸を貫いた。心臓を狙った一撃。吸血鬼の急所だ。
トロールの動きが止まった。紅い瞳の光が消え、巨体がゆっくりと前のめりに崩れ落ちた。広間が揺れた。
残り二体。
右目を潰されたトロールが咆哮を上げ、痛みに暴れている。だが、残った左目がフローレンスを捉えた。怒りで紅い瞳が一層強く光る。地面を蹴って突進してきた。
フローレンスは素早く狙撃銃に次弾を装填し、冷静に照準を合わせた。突進してくるトロールの揺れる頭部。その左目に、照準が吸い込まれるように重なる。
一発。
弾丸がトロールの左目を撃ち抜いた。両目を失ったトロールが闇雲に腕を振り回す。その隙を逃さず、ドラコが散弾銃に持ち替え、トロールの懐に飛び込んだ。振り回される丸太のような腕を紙一重で潜り抜け、至近距離から胸の中央に向けて発砲した。散弾が分厚い胸板を抉り、心臓を破壊する。二体目のトロールの紅い瞳の光が消え、巨体が崩れ落ちた。
「下がって!」
アビゲイルの声が響いた。エルザがベアトリクスを抱えて通路の影に身を隠す。魔杖に込められた魔力が、一気に解放される。氷の壁が突進するトロールの前に出現し、激突。氷が砕け散るが、トロールの速度が僅かに鈍った。足元に氷の破片が散らばり、巨体がよろめく。
その一瞬を、ドラコは逃さなかった。
短機関銃を腰に戻し、トロールの横に回り込む。吸血鬼の速度で地面を蹴り、トロールの背後に跳んだ。そして散弾銃の銃口を、背中越しに心臓のある位置へ押し当てた。
「終わりだ」
至近距離からの一撃が、背中から心臓を貫き、最後のトロールを仕留めた。
巨体が崩れ落ちる。地面に叩きつけられた衝撃で、広間全体が揺れた。天井から石の欠片がぱらぱらと降ってくる。
三体のトロールが、全て倒れていた。紅い瞳の光は消え、広間には静寂が戻った。
ドラコは散弾銃を肩にかけ、息を吐いた。
「やれやれ。半日どころか、結構手こずったな」
軽口を叩いているが、額には薄っすらと汗が滲んでいた。吸血鬼化したトロール三体を相手にするのは、さすがに楽な戦いではなかった。軍服のあちこちに石の粉塵がこびりつき、散弾銃の銃身が熱を帯びている。
フローレンスが狙撃銃を下ろし、周囲を確認した。残存するゴブリンの気配はない。エルザとベアトリクスも無事だ。ベアトリクスは青ざめた顔のまま壁際に座り込んでいたが、怪我はない。エルザがベアトリクスの隣にしゃがみ、その手を握っていた。
だが、安堵するのはまだ早かった。
広間の奥に、何かがあった。
トロールたちの背後。広間の最も奥まった場所に、巨大な円形の紋様が床一面に描かれていた。
魔術式だった。
直径は一〇メートルを超える。床の石材に直接刻み込まれた、複雑で精緻な紋様。幾何学的な図形が幾重にも重なり、その隙間を埋めるように、びっしりと文字が書き込まれている。古代語だ。紋様の線は淡い紫色の光を帯びており、今もなお魔力が循環していることを示していた。光は脈動するように明滅を繰り返し、まるで生きているかのようだった。
そして、その魔術式の縁から、新たなゴブリンが這い出そうとしていた。紋様の光が強くなるたびに、紅い瞳のゴブリンが一体、また一体と、まるで地面から湧き出るように現れる。紫の光に包まれて実体化し、紅い瞳を宿した状態で迷宮に放たれていく。
召喚術。それも、自動で発動し続ける永続型の召喚術だ。迷宮中に溢れていたゴブリンは、全てこの魔術式から生まれたものだった。
「これが、ゴブリンが無限に湧き出ていた原因か」
ドラコが魔術式を見下ろして言った。
「召喚術式ね。それも、極めて高度な」
アビゲイルが魔術式に歩み寄り、しゃがみ込んで紋様を観察し始めた。紅い瞳が、文字の一つ一つを追っている。
「自動発動型の永続召喚。召喚対象をゴブリンに限定し、かつ召喚と同時に吸血症を付与する術式が組み込まれている。二重の術式を一つの紋様に統合している。信じられない。こんな複雑な術式を、一人で描いたの?」
アビゲイルの声には、純粋な驚きがあった。魔術師としての好奇心が刺激されている。だが、同時に警戒心も強まっていた。これほどの術式を描ける者は、アビゲイル自身と同等か、それ以上の実力者だ。
「これを描ける魔術師は、そう多くない。大陸でも指折りの実力者よ。少なくとも、片手で数えられる程度しかいないわ」
ドラコが腕を組んだ。
「つまり、犯人の候補は限られるということか」
「そういうこと、そして、わたくしが知らない魔術師がこれを描いたとは考えにくい。この水準の術式を扱える者なら、魔術界で名が知られているはず」
フローレンスが眉をひそめた。
「つまり、これは誰かが意図的に仕掛けたということですね。村を襲わせるために」
「ええ。間違いない。これは自然発生ではない。誰かがこの迷宮に来て、この術式を描き、ゴブリンを無限に召喚し続けるよう設定した。計画的な犯行よ」




