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ブラッディ―メイデン  作者: しましまましま


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第31話 吸血鬼の食事

 ベアトリクスは、皿の上の肉を見つめ続けていた。

 フローレンスが調達してきた人間の肉。吸血鬼の栄養源。ベアトリクスが、これから口にしなければならないもの。どこからどう手に入れたのか、ベアトリクスは訊かなかった。訊けなかった。

 エルザがベアトリクスの隣に座っていた。何も言わず、ただ傍にいた。

 フォークを手に取った。先端が微かに震えている。肉に刺そうとして、止まった。また刺そうとして、止まった。それを何度も繰り返していた。吸血鬼としての本能が肉を求めているのに、人間としての心がそれを拒んでいる。

 吸血鬼の栄養源は、人間の肉と体液だ。それ以外の一般的な食事を口にすると、体が拒絶反応を起こす。つまり、ベアトリクスはもう普通の食べ物を食べることができない。パンも、スープも、果物も。人間の肉だけが、ベアトリクスの命を繋ぐ糧となる。

 頭では分かっている。だが、体が受け付けない。口に入れるだけでいい。噛んで、飲み込むだけでいい。それだけのことが、途方もなく高い壁に感じられた。

 フローレンスが、テーブルの反対側に座っていた。手元では狙撃銃の手入れをしている。分解した部品を布で丁寧に拭き、油を差していく。その手つきは慣れたもので、目はベアトリクスを見ていなかった。だが、ベアトリクスの様子をずっと気にしていたのだろう。しばらく黙って手入れを続けた後、その口が開いた。


「吸血鬼は不老不死と言われていますが、死なないわけではありません」


 淡々とした声だった。狙撃銃の部品を組み直しながら、フローレンスは続けた。感情を排した。事実だけを伝える声。だが、ベアトリクスに向けた言葉であることは明白だった。


「栄養失調で死ぬことがあります。吸血鬼の体は、人間の肉と血から得られる特殊な栄養素で維持されています。それが断たれれば、体は衰え、やがて機能を停止する。不老不死であっても、餓死はする」


 フローレンスの声が、僅かに低くなった。


「わたしたちの大切な人が、吸血鬼でありながら、人間の食事を摂り続けた。体に必要な栄養が足りず、少しずつ衰弱していった。最終的には、命を落としました」


 部屋の空気が凍った。ドラコが帽子の鍔の下で目を伏せた。アビゲイルが膝の上の本を握りしめた。三人の間に、共有された喪失の記憶が横たわっていた。フローレンスは一瞬だけ言葉を切り、それから平静な声に戻った。


「だから言っているのです。好き嫌いの問題ではない」


 フローレンスの目が、初めてベアトリクスを見た。紅色の瞳が、真っすぐにベアトリクスを射抜いた。


「食べなさい。食べなければ、死にます」


 厳しい言葉だった。だが、そこには嘘がなかった。フローレンス自身が吸血鬼として何百年以上を生きてきた者の、実感の込もった忠告だった。食べることは、生きることだ。それが人間の肉であっても。

 ベアトリクスの手が、また震えた。フォークが皿の縁に当たり、小さな音を立てた。

 エルザが、ベアトリクスの手にそっと自分の手を重ねた。


「ベアト」


 優しい声だった。命令ではない。懇願でもない。ただ、傍にいる者の声。


「無理しなくていいの。でも、一つだけ。一つだけでいいから。一緒にやりましょう」


 エルザはベアトリクスの手を、フォークごと包み込んだ。二人の手が、一緒にフォークを握っている。


 ベアトリクスはエルザを見た。エメラルド色の瞳が、まっすぐにベアトリクスを見ている。不安も、恐れも、嫌悪もない。ただ、信じている目だった。あなたならできる、と語っている目だった。

 ベアトリクスは唇を噛んだ。フォークを握り直した。エルザの手が、その手を支えている。今度は震えていなかった。

 肉にフォークを刺した。小さな一切れを、持ち上げた。目を閉じた。そして、口に運んだ。

 噛んだ。

 吸血鬼の舌はそれを受け入れていた。だが、人間だった頃の記憶がそれを認めることを拒んでいた。ただ、何かが喉を通っていく感覚だけがあった。体が拒絶しなかった。

 飲み込んだ。

 一つ、食べた。たった一切れ。だが、それはベアトリクスにとって途方もなく大きな一歩だった。

 エルザが、ベアトリクスの手を握った。よく頑張った、と。言葉にはしなかったが、その手の温もりが全てを伝えていた。

 ベアトリクスの目から、涙が溢れた。

 だが、それは肉を食べたことへの嫌悪の涙ではなかった。もっと深い場所から湧き上がってきた涙だった。食べられた安堵でもない。もっと根源的な、喪失の涙だった。


「わたし……姫様に、もう料理を作ってあげられないんですね」


 声が震えていた。ベアトリクスの得意は料理だった。エルザが「ヴェンツェル王国で一番美味しい」と称した、自慢の腕前。エルザの笑顔を見るために、毎日台所に立っていた。朝は焼きたてのパンの香りで起こし、夜は温かいスープで一日の疲れを癒す。それがベアトリクスの日常であり、メイドとしての誇りだった。

 それが、もうできない。吸血鬼の舌は、人間の食べ物を受け付けない。料理は作れても、味見ができない。味の分からない料理を、大切な人に出すことはできない。

 ベアトリクスの肩が小さく揺れていた。声を殺して泣いている。メイドとして、主人の前で泣く姿を見せたくない。その矜持が、嗚咽を押し殺していた。だが涙だけは止められなかった。頬を伝い、膝の上に落ちた。

 エルザが、ベアトリクスを抱きしめた。

 小さな体を、両腕で包み込んだ。何も言わず。ただ、強く。ベアトリクスの涙が、エルザの肩を濡らしていく。だが、エルザは離さなかった。


「ベアト」


 エルザの声も、震えていた。自分のせいだ。ベアトリクスが吸血鬼になったのは、自分を守ろうとしたからだ。その罪悪感が、エルザの胸を締めつけた。だが、今はそれを口にしなかった。今ベアトリクスに必要なのは、謝罪ではない。


「一緒にいてくれるだけで、十分です」


 それだけだった。料理がなくても。味見ができなくても。一緒にいてくれるだけでいい。生きていてくれるだけでいい。エルザの言葉には、飾りがなかった。王女としての格式も、気品も、何もない。ただ、一人の少女が、一番大切な友達に伝えたい本心だけがあった。

 ベアトリクスの手が、エルザの背中にゆっくりと回された。声を殺していた嗚咽が、小さく漏れた。


「……はい。姫様」


 かすれた声だった。だが、その一言に、ベアトリクスの覚悟が凝縮されていた。吸血鬼になっても、メイドであることは変わらない。エルザの傍にいることは変わらない。料理は作れなくなった。でも、守ることはできる。一緒にいることはできる。それだけで、十分だ。

 ドラコは帽子の鍔を深く引き下げ、顔を背けた。アビゲイルは本を胸に抱え、二人を静かに見守っていた。フローレンスは狙撃銃の組み立てを終え、音を立てずにテーブルから離れた。

 ランプの明かりが、抱き合う二人の影を壁に映していた。鎧戸の向こうで、ケネロットの夜が静かに更けていく。明日、彼女たちは帝国に向けて旅立つ。

 ベアトリクスは、もう泣くだけの少女ではない。自分で選び、自分で立ち、自分で食べる。ドラコの言葉は正しかった。この小さなメイドは、見かけ以上に強い。

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