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ブラッディ―メイデン  作者: しましまましま


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第30話 唯一無二

 その日の夕方、ドラコたちはセクレタリア帝国に向かう準備を進めていた。

 といっても、大した荷物はない。ケネロットに着いた時点で、手持ちの物資はほとんど残っていなかった。フローレンスが宿屋の店主から地図と保存食を買い付け、アビゲイルが消耗した魔術の触媒を補充する。エルザとベアトリクスは、汚れた衣服を洗い、乾かしていた。逃亡の最中にそんな余裕はなかったから、数日ぶりの洗濯だった。

 ドラコはテーブルの上に置かれた短機関銃と散弾銃の弾薬を確認していた。フローレンスが村の鍛冶屋で調達してきた銃だ。こんな辺境の村の鍛冶屋にしては上等な品だったが、値段もそれ相応だったらしい。


「あの鍛冶屋、足元を見るのが上手い。辺境の村で短機関銃と散弾銃を買えること自体が珍しいとはいえ、相当ふっかけられました。高い買い物です」


 フローレンスが淡々と言った。だが、その声には明確な不満が滲んでいた。


「……すまん、フロー。次はオレが払う」

「あなたが持っているお金は、全部わたしが管理しているものです」

「……本当にすまん」


 ドラコが帽子の鍔を引き下げた。フローレンスはそれ以上何も言わず、鞄の整理に戻った。

 明日の朝、出発する。帝国までの道のりは長い。テオドル王国を抜け、いくつかの都市を越えなければならない。徒歩では何週間もかかる距離だ。途中で蒸気機関車か、あるいは車を捕まえる必要がある。

 日が傾き始めた頃、宿屋の店主が二階に上がってきた。恰幅のいい中年の男で、額に汗を浮かべている。


「お客さんがた。日が暮れる前に、部屋の鎧戸を閉めさせてもらいますよ」


 店主はそう言いながら、窓に取り付けられた分厚い鎧戸を一枚一枚閉めていった。木製ではなく、鉄の板が組み込まれた頑丈な作りだった。普通の宿屋にしては、物々しい。後から取り付けたのだろう。窓枠に真新しい釘の跡が残っている。


「近頃、夜になると物騒でしてね。この村だけじゃないんですが、夜中に妙な連中が出歩くようになりまして。鎧戸を閉めておかないと、安心して眠れませんよ」


 店主の声には疲れが滲んでいた。毎晩こうしているのだろう。村全体が、夜を恐れている。

 店主は苦笑いを浮かべ、最後の鎧戸を閉めた。がちゃん、と金属の留め具がかかる音が響いた。部屋が薄暗くなった。窓の外で鳴いていた鳥の声も、鎧戸一枚で遠くなった。

 ドラコとフローレンスは目を合わせた。夜に出歩く妙な連中。この大陸で夜に活動する厄介な存在と言えば、心当たりはいくらでもある。財団の影が、こんな辺境の村にまで伸びているのか。だが、今は深入りしている余裕がない。帝国に向かうことが最優先だ。

 店主が階下に戻った後、部屋にはランプの明かりだけが残った。鎧戸で窓が塞がれ、外の光は一切入ってこない。夕暮れの村が、鉄の壁一枚で遮断された。鎧戸の隙間から、冷たい夜風が僅かに吹き込んでくる。

 ドラコは窓際のテーブルに移動し、軍服のポケットから小さな手帳と鉛筆を取り出した。使い込まれた革表紙の手帳。幾つもの折り目がついている。

 膝の上で手帳を開き、鉛筆を走らせ始めた。日記だった。

 エルザはその姿を初めて見た。慣れた手つきだった。書きなれている者の動きだ。いつからの習慣なのかは分からないが、ドラコにとって日記をつけることは、呼吸と同じくらい自然な行為なのだろう。鉛筆を走らせるドラコの表情は、いつもの陽気さとも先ほどの頑なさとも違う。穏やかな、静かな顔だった。

 数分で書き終えると、ドラコは手帳を閉じ、ポケットにしまった。



 夜。

 準備を終えた一行は、それぞれの時間を過ごしていた。明日からの長旅に備えて体を休めるべきだったが、この部屋の中には、まだ片付けなければならないことが一つ残っていた。

 ベアトリクスは部屋の隅で、テーブルの上に置かれた皿を見つめていた。

 皿の上には、肉が載っていた。フローレンスが調達してきたものだ。人間の肉。吸血鬼の栄養源。ベアトリクスが、これから口にしなければならないもの。

 ベアトリクスの顔は青ざめていた。唇を強く結び、両手は膝の上で握りしめられていた。エルザがベアトリクスの隣に座り、何も言わず傍にいた。

 部屋の反対側では、アビゲイルがベッドの縁に腰掛け、足をぶらぶらさせている。膝の上には閉じた本が載っていた。ドラコは窓際の壁にもたれ、帽子を目深に被っていた。二人とも、ベアトリクスが食事に向き合う姿を、少し離れた場所から見守っている。近すぎず、遠すぎない距離。吸血鬼の先輩として、それが最も適切な距離だと二人は知っていた。

 アビゲイルが小さな声で尋ねた。ドラコに向けた言葉だった。


「ねえ、ドラコ。一つ聞いてもいい?」


 ドラコは帽子の鍔を少し上げ、アビゲイルを見た。


「ベアトリクスを吸血鬼にした理由。命を助けるため、というのは分かるけど。それだけじゃないでしょう? 吸血鬼にするということは、あの子の人生を根本から変えるということ。それでも、あなたはそうした」


 鋭い問いだった。アビゲイルの紅い瞳が、真っすぐにドラコを見つめている。ドラコは少しの間、沈黙した。それから口を開いた。


「……昔、どうしても助けたい奴がいた。その時のことを、思い出したんだ」


 ドラコの声は静かだった。いつもの軽い口調ではなく、記憶の底から言葉をすくい上げるような、慎重な話し方だった。紅い瞳が、遠い過去を見つめている。


「助けるために、大きな代償を払った。それでも、後悔はしていない。大切な奴を失うよりは、ずっといい。ベアトリクスを見た時、同じだと思った。助けられる命が、目の前にあった」


 アビゲイルの目が、一瞬だけ伏せられた。ドラコが語っている「助けたい奴」が誰なのか、アビゲイルはよく知っている。あの人のために、ドラコがどれほどの代償を払ったかも。

 部屋の向こうで狙撃銃の手入れをしていたフローレンスの手が、一瞬だけ止まった。彼女もまた、知っている。すぐに手入れを再開したが、その横顔には微かな感情の揺れがあった。

 ドラコは視線をベアトリクスに向けた。テーブルの前で肉を見つめ、固まっている少女。あの夜、吸血鬼に襲われ瀕死の状態だった小さなメイド。


「それに、あいつは自分で選んだ。吸血鬼になることを。エルザのためなら吸血鬼になることもいとわないと。そんな感じがした。あの状況で、あの決断ができる。普通じゃない。あいつは見かけ以上に強い女だ」


 ドラコの言葉に、アビゲイルは静かに頷いた。


「今後、あいつはオレたちにとって無くてはならない存在になる。断言する」


 アビゲイルは少し驚いたように目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。ドラコがここまではっきりと仲間を評価するのは、珍しいことだった。


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