第3話 脱出
走った。
ドラコが先頭に立ち、眠るベアトリクスを片腕で軽々と担いだまま、もう片方の手で散弾銃を構えている。その後ろをエルザが必死についていく。
宮殿の廊下は、地獄そのものだった。
壁にこびりついた赤黒い痕。床に転がった、もう動かない人たち。衛兵も、使用人も、つい昨日まで言葉を交わしていた人たちが冷たくなって横たわっている。
エルザが知っている顔もあった。毎朝「おはようございます、姫様」と敬礼してくれた老衛兵。いつも焼きたてのパンを分けてくれた料理人のおば様。この人たちは自分を守ろうとして、こうなったのだ。
その人たちの目は、もう何も映していなかった。
足が止まりそうになった。でも、この人たちの死に報いるには自分が生き延びるしかない。分かっている。分かっているのに、体が言うことを聞かない。それでも足を動かした。歯を食いしばって、前だけを見て。
目を逸らしたかった。でも逸らす余裕すらない。走って、走って、ただ足を動かし続けるだけで精一杯だった。
曲がり角の先に二体の食屍鬼が佇んでいた。虚ろな目がこちらを捉えた瞬間、ドラコは足を止めず散弾銃を片手で構え、走りながら二発。付呪の弾丸が食屍鬼の頭部を砕き、崩れ落ちる。
まるで道端の石を蹴るような気軽さだった。この存在にとって、この程度の敵は障害にもならないらしい。
エルザはドラコの背中を見ながら走った。ベアトリクスを片腕で抱え、もう片方の手で銃を操る。それでいて足取りには一切の乱れがない。人間にはできない動き。吸血鬼だからこそ可能な、圧倒的な身体能力。
この存在は味方なのだろうか。父の言葉を信じてはいる。でも、まだ何も分からない。分かっているのは、この存在がいなければ自分もベアトリクスも死んでいたということだけだ。
だが、エルザの足は限界に近づいていた。王女としての暮らしは体を鍛える機会に恵まれてない。息が上がり、足がもつれそうになる。ドレスの裾が邪魔で何度も躓きかけた。
「遅い」
ドラコが振り返りもせずに言った。
「置いていかれたくなければ、歯を食いしばって走れ。王女だろうが何だろうが、止まったら死ぬぞ」
乱暴な言葉だった。でも不思議と腹は立たなかった。嘘がないからだ。この状況で気を遣われるより、ずっとましだった。
エルザは歯を食いしばった。ドラコの腕の中で静かに眠るベアトリクスの顔がちらりと見えた。あの子を守ってもらっている。ならば自分がここで足手まといになるわけにはいかない。ドレスの裾を片手で掴み上げ、走る速度を上げた。
廊下の先から、再び複数の足音が響いてきた。吸血鬼だ。四体。行く手を塞ぐように立ちはだかっている。その紅い目がエルザを捉えた瞬間、獣のように口元が歪んだ。
「王女だ。逃がすな」
やはり自分を狙っている。その声を聞いた瞬間、恐怖より先に怒りがこみ上げた。この化け物たちのせいで、大切な人たちが死んだのだ。
ドラコは速度を落とさなかった。散弾銃を腰だめに構え、先頭の一体の胸を撃ち抜く。灰になって崩れるその体を平然と踏み越え、二体目に銃身を突きつけて引き金を引いた。残りの二体が左右から襲いかかる。ドラコはベアトリクスを担いだまま身をひねり、散弾銃の銃床で一体の顔面を殴りつけた。よろめいた隙に、もう一体ごと撃ち抜く。
四体が灰になるまで、一〇秒もかからなかった。片腕に少女を抱え、もう片方の手だけでこの戦い方をする。ドラコの強さは、人間のそれとは根本的に違っていた。
「まだ走れるな」
「……はい」
息は切れている。足は痛い。でも止まらなかった。止まるわけにはいかなかった。長い廊下を抜け、宮殿の裏手に出た。夜空の下、冷たい風が汗ばんだ肌を撫でる。宮殿の中に漂っていた血と煙の匂いが、外の冷気に押し流されていく。思わず深く息を吸い込んだ。それだけで、少しだけ頭がはっきりした。
振り返ると、宮殿のあちこちから煙が上がっているのが見えた。あの美しかった宮殿が、こんな姿になっている。父が守り、エルザが継いだ場所。もう戻れない。そのことが、じわじわと胸に染みてきた。
月明かりに照らされた広場に、一台の蒸気自動車が停まっていた。来客用だろうか、装甲の施された大きな車体だった。
「乗るぞ」
短く、一言だけ。でもその声には有無を言わさぬ力があった。
ドラコはベアトリクスを後部座席にそっと横たえた。眠る少女の頭が座席に触れないよう、手で支えながら慎重に下ろす。さっきまで吸血鬼を殺していた手とは思えないほど丁寧な手つきだった。
エルザは後部座席に乗り込み、ベアトリクスの頭を自分の膝にそっと乗せた。乱れた髪を指で整える。安らかな寝顔。さっきまで死の淵にいたとは思えないほど穏やかで、それがかえって胸を締めつけた。
ベアトリクスの首筋に、小さな噛み痕が残っているのが見えた。ドラコの牙の痕。あれが、この子の運命を変えた印だ。エルザはそこから目を逸らし、そっとベアトリクスの手を握った。
ドラコが運転席に滑り込み、蒸気機関の起動装置に手をかけた。ボイラーに火が入り、蒸気が低い唸りを上げる。
「運転できるのですか」
「見くびるな。オレはだいたいの物は扱える」
オレ。倉庫では「わたし」と言っていたのがいつの間にか変わっている。緊張が解けたのか、元々こちらが素なのか。どちらにしても、あの美しい顔から発せられる男の口調には、まだ頭が追いつかない。
蒸気自動車が動き出した。車輪が石畳を噛み、低い振動が車体を揺らす。ガタン、と段差を超えた衝撃にエルザの体が揺れ、膝の上のベアトリクスが小さく身じろぎしたが、目は覚まさなかった。
後方で叫び声が聞こえた。振り返ると宮殿の出入口から吸血鬼たちが飛び出してくるのが見えた。中には屋根の上を走って追いかけてくる者もいる。だが車は加速を続け、紅い瞳の群れが少しずつ闇の中に遠ざかっていた。
追いつかれる恐怖に全身が強張っていたエルザは、吸血鬼たちの姿が完全に見えなくなってようやく息をつくことができた。
イルドブルの街並みが、窓の外を流れていった。
あちこちで火の手が上がっていた。宮殿だけではなかったのだ。街全体が混乱に陥っている。悲鳴も聞こえる。逃げ惑う人々の影が炎に照らされて揺れていた。助けに行きたい。でも今の自分にその力はない。
自分が狙われているせいで、この街がこんなことになっている。あの吸血鬼たちは「王女を探せ」と叫んでいた。自分さえいなければ、この街は襲われなかったのではないか。
エルザは唇を噛んだ。涙がまた込み上げてくるのを必死に堪えた。今泣いたら、もう立ち上がれなくなる気がした。




