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ブラッディ―メイデン  作者: しましまましま


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第27話 召喚

 アビゲイルは本を閉じ、ベッドから降りた。鞄の中を探り、白い棒状のものを取り出した。チョークだ。

 口論を続けるドラコとフローレンスの横を、するりと通り抜ける。部屋の中央にかがみ込み、床にチョークを当てた。

 描き始めた。

 白い線が、木の床の上を走っていく。円。大きな円。部屋の半分ほどを占める巨大な円形の図形。その中に、複雑な紋様が刻まれていく。幾何学的な模様と、見たことのない文字の羅列。魔術式だった。

 アビゲイルの手つきは迷いがなかった。何百回と描いてきた図形なのだろう。チョークが床を滑る音だけが、静かな部屋に響いている。口論で熱くなっていた空気が、その規則的な音に冷やされていくようだった。

 エルザは息を呑んだ。シュクレで見たあの氷結の魔術とは違う。あの時は杖をかざすだけで術式が展開された。今は手で、一本一本の線を丁寧に描いている。それだけ精密な術式が必要な魔術だということだ。

 ドラコとフローレンスも、さすがに気づいた。口論が途切れ、二人ともアビゲイルの手元を見下ろした。


「アビー。何をしている」


 ドラコが眉をひそめた。アビゲイルは顔を上げず、チョークを動かし続けた。


「あのね、二人の言い分はどっちも分かるの。フローの言う通り、帝国の情報は必要。でもドラコが勇者に会いたくない気持ちも分かる。だから、わたくしが解決してあげる」


 チョークが床の上で円を完成させた。その中に、さらに小さな円と三角形が描き加えられていく。


「だったら、帝国に行かなくても帝国の情報を得る方法を使えばいいの」


 エルザが思わず口を開いた。


「それは、何をするのですか」


 アビゲイルはチョークを置き、立ち上がった。完成した魔術式を見下ろし、満足そうに頷く。巨大な円形の中に、同心円と幾何学模様が幾重にも重なっている。その一つ一つの線に魔力が込められ、淡い青白い光を帯び始めていた。部屋の空気が変わった。魔力の濃度が上がっている。エルザの肌がぴりぴりと痺れた。


「帝国が財団の情報を持っているなら、帝国で一番賢い人をここに呼べばいいの。召喚術よ」


 召喚術。人や物を呼び寄せる魔術。エルザは魔術の知識に明るくはないが、それがどれほど高度な術であるかは想像がつく。離れた場所にいる人間を、瞬時にこの場に呼び出す。空間そのものを繋ぐ魔術。国と国を隔てる距離を、術式一つで無にする。

 フローレンスが目を見開いた。アビゲイルの意図を、瞬時に理解した顔だった。


「まさか、マリアム様を?」

「そう。マリーなら帝国の情報に一番近い位置にいるし、魔術師だから召喚への適性も高い。それに、わたくしの友人だもの。召喚に応じてくれるわ」


 アビゲイルは魔杖を構えた。杖の先端の青い宝珠が、鈍い光を強めていく。魔術式の線が反応し、床の上の紋様全体が脈動するように光り始めた。

 ドラコは何も言わなかった。腕を組んだまま、壁にもたれている。帝国に行かずに済む方法。それなら、異論はない。先ほどまでの怒りが、少しだけ和らいだようだった。

 フローレンスも口を閉じた。結果的に情報が得られるなら、手段は問わない。ドラコと視線が交わった。先ほどの険しさはまだ残っていたが、互いに小さく目を逸らした。喧嘩の決着はついていない。だが、今はアビゲイルの術を見守ることで一時休戦だ。

 アビゲイルが魔杖を魔術式の中心に向けた。


「では、始めるわね」


 詠唱はなかった。だが、アビゲイルの紅い瞳がさらに深い紅に変わった。魔力が全身から溢れ出し、魔術式に流れ込んでいく。小さな体から発せられる魔力の量が、尋常ではなかった。これがありとあらゆる魔術を使えると豪語する魔術師の力。

 部屋全体が青白い光に包まれた。魔術式の紋様が回転を始めた。床の上で、光の線がぐるぐると渦を巻いている。風が起きた。窓も扉も閉まっているのに、部屋の中で風が吹いている。魔力の奔流が空気を震わせているのだ。テーブルの上の地図が舞い上がり、壁にかけてあった絵が揺れた。

 エルザは目を細めた。光が強すぎる。ベアトリクスがエルザの前に立ち、庇うように手を広げた。メイドの本能だ。何が起きようとも、主人を守る。その姿勢だけは、吸血鬼になっても変わっていなかった。

 光が、一点に収束した。魔術式の中心。そこに、人の形をした光の輪郭が浮かび上がった。輪郭が次第に鮮明になっていく。色がつき、質感が生まれ、空間の中に一人の人間が形作られていく。

 数分が経った。光が徐々に収まっていく。魔術式の輝きが薄れ、部屋の中に日常の明るさが戻ってきた。チョークで描かれた線は、魔力を使い果たして消えかけていた。アビゲイルが小さく息を吐いた。額に薄く汗が滲んでいる。国を超える距離の召喚は、この魔術師にとっても軽い仕事ではないのだ。

 魔術式の中心に、一人の女性が立っていた。

 長い髪を背中に流し、青白い肌に目の下の深い隈。手には分厚い書物を抱えている。白いローブを纏い、どこか眠そうな目をしている。だが、その目の奥には鋭い知性の光があった。

 女性は周囲を見回した。見慣れない宿屋の部屋。見慣れた顔と、見慣れない顔。状況を把握するのに、数秒もかからなかった。

 そして、魔術式の傍に立つ小さな魔術師を見て、目の下の隈が深い顔に、笑みを浮かべた。


「やあ、アビー。相変わらず乱暴な魔術だね」


 軽い口調だった。だが、その声には旧友との再会を喜ぶ響きがあった。

 マリアム。セクレタリア帝国の皇帝の側近にして、かつて勇者と共に魔王を打倒したとされている魔術師。帝国の情勢を、最も深く知っている女性だ。

 アビゲイルはにっこりと笑い、小さな手を振った。


「ごめんね、マリー。でも、ちょっと急ぎの用事があるの」

「急ぎの用事ね。ボク、さっきまで書庫で調べ物をしていたんだけど。気づいたら光に包まれて、ここにいた。心臓に悪いよ、まったく」


 マリアムは肩をすくめたが、その口調に怒りはなかった。むしろ、嬉しそうですらあった。

 そしてマリアムは、アビゲイルの後ろに立つ面々を見た。フローレンスを見て、小さくうなずいた。久しぶりだね、と目が語っている。エルザとベアトリクスを見て、事情を察したように目を細めた。

 最後に、ドラコを見た。

 壁にもたれて腕を組んだまま、帽子の鍔で目元を隠している者。白い長髪。紅い瞳。かつて敵として対峙した、あの魔王。

 目の下の隈が深い顔に、複雑な表情が浮かんだ。驚きと、感慨と、そしてどこか可笑しそうな笑み。


「なるほどね。急ぎの用事、か。確かにそのようだ」


 マリアムの視線が、ドラコの紅い瞳を捕えた。一五年ぶりの再会。かつて敵として戦った魔王と、勇者の仲間だった魔術師。互いに知っている顔。だが、一五年の歳月が、その間にあった出来事が、二人の関係を単純な敵味方ではくびれないものに変えていた。

 ドラコは帽子の鍔を引き下げたまま、口を開いた。


「……久しぶりだな、マリアム」


 その声は、先ほどまでの頑なさとは違っていた。ぶっきらぼうだが、どこか懐かしさを含んだ声だった。

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