第23話 勇者と呼ばれた男
マリアムの魔術が発動した。紫色の光が術式を描き、会議室の入口に炎の壁が出現した。食屍鬼たちが炎に巻かれ、悲鳴すら上げずに焼け崩れていく。マリアムの目は冷静だった。術式の構成を瞬時に組み替え、炎の強度を調整している。会議室に燃え移らないよう、精密に制御された炎。勇者と共に戦場を駆けた魔術師の技量は、一五年の歳月を経ても衰えていなかった。
だが炎の壁を越えて、吸血鬼が飛び込んできた。食屍鬼と違い、吸血鬼は知性がある。炎を飛び越え、天井を蹴り、マリアムに向かって爪を振るった。
レオンの大剣がそれを迎え撃った。吸血鬼の体が横に両断される。切断面から灰が舞い、吸血鬼は消滅した。
「行儀の悪いお客さんですね」
マリアムが呟きながら、さらに術式を展開した。紫色の雷撃が廊下を走り、押し寄せる食屍鬼の群れを焼き払う。レオンは廊下に飛び出し、大剣を振るい続けた。一太刀ごとに敵が倒れていく。圧倒的だった。
数分後、会議室周辺の敵は全滅していた。
だが、レオンの足取りは重かった。廊下を進むにつれ、状況が明らかになっていく。
帝国兵の遺体があった。一人、二人ではない。廊下のいたるところに、甲冑を着たままの兵士たちが倒れている。ある者は喉を嚙み切られ、ある者は腹を食い破られていた。食屍鬼と吸血鬼の仕業だ。会議室以外の場所にいた兵士たちは、ほとんどが全滅していた。
レオンは一人一人の傍を通り過ぎながら歩いた。毎朝、宮殿の門前で敬礼をしていた若い兵士。訓練場で新兵を指導していた古参の隊長。彼らが、物言わぬ骸となって廊下に横たわっている。兜の下でレオンが何を思っているのか、誰にも見えなかった。だが、大剣の柄を握る手が白くなるほど力が込められていた。
マリアムがレオンの隣に立ち、廊下の惨状を見渡した。先ほどの軽い口調は消えていた。
「宮殿の外は無事みたい。ターリンガ自体の被害はない。狙われたのは宮殿だけ」
「ああ」
レオンは短く答えた。
「帝国の中枢を叩くのが目的だ」
宮殿の守りは強固だ。大門には強力な付呪が施されており、並の吸血鬼や食屍鬼では突破できない。それを突破してきた。つまり、相手には強力な魔術師がいる。大門の付呪を破れるほどの術者が。
廊下の奥で、物音がした。レオンは即座に剣を構えた。
壁際に、一体の吸血鬼が倒れていた。片足を失い、這うようにして逃げようとしている。レオンの斬撃で脚を斬り落とされた個体だった。再生が追いついていない。銀の成分を含む大剣で斬られた傷は、吸血鬼の再生力をもってしても容易には塞がらない。
レオンは大剣の切っ先を、吸血鬼の喉元に突きつけた。逃げようとしていた吸血鬼の動きが止まった。
「お前たちは何者だ。誰の命令でここを襲った」
静かな声だった。怒りを押し殺した、低い声。
吸血鬼はレオンを見上げた。紅い瞳が、恐怖ではなく、狂信的な光を宿していた。唇が歪み、笑みのようなものが浮かんだ。
「答えろ」
レオンが剣を僅かに押し込んだ。吸血鬼の喉の肌に、赤い線が走る。
吸血鬼は笑った。血の泡を吹きながら、笑った。
「財団、万歳」
その言葉と同時に、吸血鬼の体が光り始めた。
内側から、異常な熱を発している。皮膚の下で何かが膨張していく。自爆。マリアムが咄嗟にレオンの腕を引き、防御の術式を展開した。紫色の障壁が二人を包んだ瞬間、吸血鬼の体が爆発した。
炎と血しぶきが廊下に飛び散った。だが障壁に阻まれ、レオンとマリアムには届かなかった。爆発が収まった後、吸血鬼がいた場所には焦げた石畳と、微かな灰しか残っていなかった。何も残さない。証拠も、手がかりも。
「……財団」
レオンが呟いた。聞いたことのない名前だった。
「知っているか、マリー」
「いや。ボクも初耳だよ」
マリアムは障壁を解除し、爆発の跡を観察した。
「でも、ただの吸血鬼じゃないね。自爆すように術式が組み込まれていた。捕まった時に情報を漏らさないための仕組みかも。組織的で、用意周到。相当な規模の組織だよ、これは」
マリアムはしゃがみ込み、焦げた石畳を指先でなぞった。術式の残滓を読み取ろうとしている。
「この自爆の術式、かなり高度だね。構成員一人一人にこれを施すには、相当な数の魔術師が必要になる。資金も、人材も、そしてこれだけの吸血鬼を統率する指導者も。……厄介だね」
財団。各国を襲撃し、帝国の宮殿すら攻撃する組織。構成員は捕えられれば自爆する。大門の付呪を破れる魔術師がいる。そしてヴェンツェル王国の襲撃も、おそらくこの組織の仕業。
レオンは大剣を背に戻した。白い甲冑に返り血がこびりついている。
廊下の窓から、午後の光が差し込んでいた。穏やかな光だった。首都ターリンガの街並みが見える。街は平穏だ。宮殿の中だけが、地獄に変わっていた。
レオンは窓から目を離し、会議室に戻った。重臣たちは無事だったが、恐怖で顔面蒼白になっている者が大半だった。
レオンは重臣たちに指示を出した。生存者の救助。宮殿の警備体制の再構築。各国への緊急連絡。負傷者の手当。遺体の収容。声は淡々としていたが、的確だった。寡黙な皇帝は、こういう時にこそ真価を発揮する。混乱の中でも揺るがない判断力。それが、皇帝が帝国を率いている理由だった。
指示を終えたレオンは、会議室を出た。マリアムが後に続く。
二人は、宮殿の奥にある一室に向かった。皇帝の私室。壁には何枚かの絵画が掛けられている。その中の一枚の前で、レオンの足が止まった。
絵画の中には、一人の女性が描かれていた。穏やかな微笑みを浮かべた、気品のある女性。長い銀色の髪と、深い碧の瞳。額縁の下に、小さな銘板がある。
――ヘレン・セクレタリア皇女。
一五年前に亡くなった、先代の皇女。レオンの前任者。そして、ドラコとも深い縁のあった人。この国を守り、民を愛し、最期まで未来を案じていた人。
レオンは絵画を見上げた。白い甲冑に包まれた体が、微かに強張った。兜の下で何を思っているのか、マリアムにすら分からない。だが、絵画の前で立ち尽くすその姿には、言葉にならない感情が滲んでいた。
その口が、小さく動いた。
「あいつが、目を覚ましたかもしれません」
独り言のようだった。だが、それは絵画の中の女性に向けた言葉だった。亡き皇女への報告。魔王ドラコが目覚めた。ヴェンツェル王国の宮殿で眠っていた棺が、開かれた。
あの者が目を覚ましたということは、エルザ王女の身に、何かが起きている。そして今、帝国までもが襲撃を受けた。大陸全体が、何かの渦に吞み込まれようとしている。
レオンは絵画から目を離さなかった。白い甲冑に包まれた背中は、微動だにしない。だがその沈黙の中に、静かな決意が凝縮されていた。
マリアムは何も言わなかった。レオンの背中を見つめ、静かに扉を閉めた。
皇帝の私室に、午後の光が静かに差し込んでいた。絵画の中のヘレンが、変わらぬ微笑みでレオンを見つめていた。




