第22話 皇帝
セクレタリア帝国の宮殿は、重い沈黙に包まれていた。
円形の会議室。長い楕円のテーブルを囲むように、帝国の重臣たちが席についている。窓から差し込む午後の光が、石造りの壁を白く照らしていた。
テーブルの上座に、白い甲冑に全身を包んだ男が座っている。兜の面頬は下ろされたままで、顔は見えない。会議の場ですら素顔を晒さない。異様な光景ではあったが、この場にいる誰もそれを指摘しない。彼らの皇帝は、いつもこうだった。
レオン・セクレタリア。セクレタリア帝国の皇帝。かつて「勇者」と呼ばれた男。
その隣に、一人の女性が立っていた。長い髪を背中に流し、青白い肌に目の下の隈が目立つ。椅子に座らず、壁に背を預けるようにして立っている。手には分厚い書物を抱え、会議の内容を記録しているようだった。
マリアム。かつてレオンと共に魔王打倒の冒険をした魔術師であり、今は皇帝の側近を務めている。
「以上が、現時点で判明している各国の被害状況です」
帝国軍の将軍が報告を終え、書類をテーブルに置いた。
報告の内容は深刻だった。ヴェンツェル王国の首都イルドブルが吸血鬼と食屍鬼の群れに襲撃された。王女エルザは現在行方不明。同様の襲撃が他の国でも報告されている。小規模なものを含めれば、この数か月で十数件。いずれも突発的で、組織的な犯行の痕跡がある。
テーブルの上に広げられた地図には、襲撃が確認された場所に赤い印がつけられていた。大陸全土に散らばっている。一つの国や地域に偏りはない。まるで大陸全体を標的にしているかのようだった。
重臣の一人が、テーブルを拳で叩いた。
「これは明らかに、何者かが意図的に行っている。各国の吸血鬼が同時に蜂起するなど、指揮する者がいなければ不可能だ」
「問題は、その指揮者が誰かということです」
別の重臣が言った。そして、少しの間を置いてから、慎重に言葉を選んだ。
「一つ、可能性を申し上げてもよろしいでしょうか。死んだはずの魔王が復活し、再び世界の支配を目論んでいるのではないか、と」
会議室の空気が、一瞬で張り詰めた。
魔王。一五年前、勇者レオンによって打倒されたとされる存在。吸血鬼の頂点に立つ者。その名が会議の場で口にされたことで、重臣たちの間に動揺が走った。
レオンは、それまで一言も発していなかった。白い甲冑に包まれた体を椅子に預け、じっと報告を聞いていた。何を考えているのか、その表情からは読み取れない。寡黙な皇帝。何を考えているのか分からない男。帝国の重臣たちの間では、そう評されている。
だが、魔王の名が出た瞬間、レオンの体が微かに動いた。
「それは絶対にない」
静かな声だった。だが、そこに込められた確信は揺るぎないものだった。会議室にいる全員の目が、レオンに向いた。
「陛下。なぜそう断言できるのですか。魔王の遺体は確認されていないと聞いています。復活の可能性は」
「ない」
レオンは重ねて否定した。短い言葉だった。理由は説明しなかった。この場にいる者たちには、説明できない事情がある。レオンの隣に立つマリアムだけが、小さく頷いた。彼女だけは、皇帝の言葉の裏にある真実を知っている。
魔王は死んでいない。ヴェンツェル王国の宮殿で眠っていた。そしておそらく、今は目を覚ましている。だがそれは、世界を支配するためではない。
「ともかく、犯人が誰であれ対策を」
重臣の一人がそう言いかけた時だった。
会議室の扉が、轟音と共に開いた。
蹴り開けられたのだ。両開きの重い樫の扉が壁にぶつかり、けたたましい音を立てた。重臣たちが椅子から腰を浮かせる。
扉の向こうに、一人の帝国兵が立っていた。正確には、立っているのがやっとだった。甲冑の胸部に深い爪痕が走り、そこから血が流れている。左腕は力なく垂れ下がり、折れているようだった。顔は蒼白で、目は恐怖に見開かれていた。廊下の向こうから、何かを追われるようにしてここまで辿り着いたのだ。
兵士は会議室の中に数歩よろめき入り、レオンの方を見た。口が動いた。血に濡れた唇が震えている。声はかすれていたが、はっきりと聞こえた。
「逃げて、ください」
それだけ言って、兵士は前のめりに倒れた。石の床に甲冑がぶつかる金属音が響いた。動かなくなった。
会議室が静まり返った。
だが、静寂は一瞬だった。
廊下の奥から、音が聞こえてきた。複数の足音。だが人間の足音ではない。不規則で、引きずるような、湿った音。そして、低い唸り声。獣のような、だが獣ではない声。
レオンは立ち上がっていた。いつ立ち上がったのか、誰も見ていなかった。気づいたときには、白い甲冑の皇帝は椅子の前に立ち、背に負った大剣の柄に手をかけていた。
廊下から、影が現れた。
最初の一体は食屍鬼だった。灰色の肌、虚ろな目、だらりと垂れた両腕。人間だったものの成れの果て。知性を失い、ただ生きた肉を求めて徘徊する化け物。
その後ろに、さらに複数の影。食屍鬼の群れ。そしてその中に、紅い瞳を光らせた吸血鬼が混じっている。食屍鬼を兵として操り、先導している。組織的な襲撃だった。
重臣たちが悲鳴を上げ、椅子を蹴倒して後退した。
「マリー」
レオンが短く呼んだ。
「はいはい」
マリアムは書物を閉じ、壁から背を離した。目の下の隈が深い顔に、不敵な笑みが浮かんだ。面倒そうでいて、どこか楽しそうだった。
「皆様は、部屋の奥に下がっていてください。ボクたちが片づけますので」
軽い口調だった。だが、マリアムの両手から紫色の光が漏れ始めた。魔力が凝縮されていく。勇者と共に魔王を打倒したとされている魔術師。その肩書きは、伊達ではない。
レオンが背中の大剣を引き抜いた。
白銀の刀身が、午後の光を反射して輝いた。重く、長い剣。常人には片手で持ち上げることすら困難な重量を、レオンは軽々と片手で構えた。
食屍鬼の群れが会議室に雪崩れ込んできた。
レオンが動いた。
速かった。白い甲冑が残像を引くほどの速度で、最前列の食屍鬼に肉薄した。大剣が一閃。横薙ぎの斬撃が、三体の食屍鬼の首を同時に刈り取った。首を失った体が崩れ落ちる前に、レオンはすでに次の敵に向かって踏み込んでいた。
二体目。縦に斬り下ろし、頭蓋から股下まで両断する。三体目。突きで旨を貫き、そのまま振り抜いて四体目の首を刎ねる。一太刀に無駄がなく、一歩の踏み込みに迷いがない。これが勇者と呼ばれた男の戦い方だった。




