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ブラッディ―メイデン  作者: しましまましま


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第20話 昔

 異変は、蒸気機関の音で分かった。

 シュクレを離れて一時間ほど走った頃だった。それまで力強く唸りを上げていた機関の音が、不規則に途切れ始めた。がくん、がくんと車体を揺れ、速度が落ちていく。

 運転席のドラコが計器盤を見て、眉をひそめた。


「蒸気圧が下がっている。配管のどこかに亀裂が入ったな」


 フローレンスが助手席から身を乗り出し、計器盤を覗き込んだ。


「おそらく、お姉様の矢です。逃げる時に車体を狙っていた。一発は避けましたが、それ以前に当たっていたのかもしれません」


 蒸気機関の唸りがさらに細くなり、やがて力を失うように止まった。車体が惰性で少しだけ前に進み、静かに停まる。街道の真ん中で、蒸気自動車は動かなくなった。

 ドラコは車を降り、機関部を確認した。しゃがみ込んで車体の下を覗く。白い蒸気が、配管の継ぎ目から漏れていた。矢が直接当たったわけではない。衝撃で配管の接合部に亀裂が入り、そこから少しずつ蒸気が漏れていたのだ。走っている間に亀裂が広がり、ついに機関を維持できなくなった。


「直せるか?」


 自分に問いかけたが、答えは分かっていた。ここには工具もなければ部品もない。街道の周囲は畑と牧草地が広がるだけで、村の影すら見えなかった。遠くで鳥が鳴いている。のどかな風景だった。つい数時間前に命を狙われていたことが嘘のように。

 ドラコは立ち上がり、帽子を被り直した。車内で待っている四人に向かって、苦笑いを浮かべた。


「悪い。ここからは歩きだ」


 エルザとベアトリクスの顔に、疲労の色が浮かんだ。宮殿での緊張、全力の逃走、そしてあの戦闘。体力も精神力も限界に近い。それでも歩かなければならない。

 フローレンスが荷物をまとめ始めた。棺の中から必要な物を鞄に詰め替えていく。弾薬、包帯、水筒、携帯食。棺そのものは大きすぎて運べない。荷台に残すしかなかった。

 アビゲイルが棺を名残惜しそうに撫でた。


「わたくしの寝床を置いていくのは心苦しいわ」

「仕方ないでしょう。アビー様の棺を担いで歩くほど、わたしたちは暇ではありません」


 フローレンスの声は素っ気なかったが、その口元はわずかに緩んでいた。

 五人は街道を歩き始めた。ドラコが先頭に立ち、フローレンスが最後尾。エルザとベアトリクスを二人の間に挟み、アビゲイルがその傍をちょこちょこと歩く。小柄な体に大きな魔杖を抱え、帽子のとがった先端が歩くたびに揺れている。

 午後の日差しが街道に降り注いでいた。吸血鬼であるドラコたちにとっては快適とは言えないが、帽子や外套でしのげる程度だ。ベアトリクスも肌がちりちりする感覚はあったが、我慢できないほどではなかった。

 しばらくは無言だった。宮殿での出来事が、まだ全員の心に重くのしかかっている。

 沈黙を破ったのは、アビゲイルだった。


「ねえ、ねえ」


 アビゲイルがエルザの隣に並び、見上げるようにして話しかけた。エルザよりも頭一つ分低い。幼い顔立ちが、好奇心に満ちた目をしている。


「あなたがエルザ王女? ドラコが守ると約束した人」

「は、はい。エルザ・ヴェンツェルです」


 エルザは少し戸惑いながら答えた。目の前の少女は、先ほど広場で吸血鬼の兵士を一瞬で凍りつかせた、あの凄まじい魔術師だ。それなのに、こうして間近で見ると、歳はベアトリクスと変わらないような幼い少女にしか見えない。

 アビゲイルはにっこりと笑った。


「わたくしはアビゲイル。ドラコとフローレンスの仲間で魔術師よ。昔から一緒に冒険をしていたの。ずっと、ずっと長い間」


 長い間。アビゲイルの言う「長い間」が、人間の感覚とはまったく違うものであることは、エルザにも察しがついた。吸血鬼にとっての「長い間」は、何十年か、あるいは何百年か。


「偉い魔術師なのよ、わたくし。ありとあらゆる魔術を使えるの。特に氷の魔術はだれにも負けないわ。さっきのも見たでしょう?」


 胸を張って言うアビゲイルの顔に、嫌味はまったくなかった。子供が自慢話をするような、無邪気な誇らしさだった。あの圧倒的な魔術の実力と、この幼い振る舞いとの落差に、エルザは不思議な気持ちになった。


「見ました。あの魔術は、本当にすごかった。あなたのおかげで助かりました」


 エルザが素直にそう言うと、アビゲイルはぱっと顔を輝かせた。


「でしょう? もっと褒めてもいいのよ」


 ベアトリクスが思わず小さく笑った。宮殿の恐怖が、アビゲイルの明るさに少しだけ和らいでいく。


「昔の冒険の時もね、こうやって歩いたの。蒸気自動車なんてない時代だったから、どこに行くにも自分の足。ドラコが先頭を歩いて、フローレンスが後ろから見張って、わたくしがその間で魔術の研究をしながらついていくの」


 アビゲイルは楽しそうに語った。まるで昨日のことのように。


「山を越えたり、川を渡ったり、たまに魔物と戦って。夜は焚き火を囲んで、ドラコがくだらない話をして、フローレンスが呆れて、わたくしが笑って。そんな毎日だったわ」


 アビゲイルの瞳が、遠い記憶を見つめるように細まった。幼い顔立ちにその表情が浮かぶと、見た目の年齢とは釣り合わない深さがあった。この少女が語る「昔」は、人間が想像する「昔」とはまるで違うのだ。


「大変なことも沢山あったけれど、楽しかった。本当に、楽しかった」


 アビゲイルが少し声を落として呟いた。その声には、懐かしさだけではない何かが滲んでいた。失われたものへの、静かな哀惜あいせきのようなもの。だが、すぐにいつもの明るさが戻った。


「だからね、こうしてまた歩いていると、あの頃を思い出すの。嬉しいわ」


 その言葉を聞いて、フローレンスが後方から口を開いた。


「ドラコと一緒にいると疲れます。本当に、心底疲れる」


 素っ気ない言葉だった。だが、振り返ったエルザは見た。フローレンスの顔に、微かな笑みが浮かんでいるのを。いつもの無表情ではない。穏やかで、どこか懐かしそうな顔だった。


「ですが、冒険はとても楽しいものです。あの日々は、わたしにとってもかけがえのない宝物でした」


 フローレンスが笑っている。あの冷静で感情を見せないフローレンスが、過去の冒険を語って笑っている。宿屋で店主夫婦の死を前にしても崩れなかった表情が、今はこんなにも穏やかだ。その光景は、エルザの胸に温かいものを灯した。

 ベアトリクスも驚いていた。フローレンスがこんな顔をするのは初めて見た。あの宮殿で冷静に銃を撃ち、塔の上の姉と対峙した時の鋭い目つき。それと同じ人が、こんなに優しい顔で笑える。この人たちの間に流れている絆は、本物なのだと思った。

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