第2話 メイデン
低い声で問いかけてくる。美しい唇と声の落差に、エルザの思考が一瞬追いつかなかった。
魔王。世界のどこかに君臨しているとされる王。本当にいるのかさえ怪しまれ、半ば都市伝説のように語られてきた存在。紅い瞳、この存在もまた、吸血鬼だ。
「はい、わたくしが起こしました」
声が震えそうになるのをこらえ、エルザはまっすぐにドラコの紅い瞳を見つめ返した。
「貴様、名前は?」
「……エルザ・ヴェンツェル。この国の、王女です」
その名を聞いた瞬間、ドラコの表情がわずかに変わった。紅い瞳が見開かれ、何か遠い記憶を辿るように宙を見る。だが、すぐに不敵な笑みを浮かべた。
「そうか……ギルバートの、娘か」
低い男の声で、けれど、どこか懐かしそうだった。
しかし、感傷に浸る暇は与えられなかった。倉庫の外から一〇では足りない数の足音が押し寄せてくる。
「まだいるのか。目を覚ましてすぐこれとは、つくづく運がない」
ドラコは肩をすくめたが、紅い瞳の奥は楽しそうに輝いている。
ベアトリクスが拳銃を握り直し、エルザを庇うように立った。そして銃口をドラコに向ける。
「……姫様から、離れなさい」
ドラコは銃口を一瞥し、ふっと息を漏らした。
「この魔王に向かって、度胸のある小娘だな。好きに警戒しておけ。……来るぞ」
廊下から吸血鬼の群れがなだれ込んできた。一〇体以上。その後ろには目が虚ろで肌が腐りかけた食屍鬼たち、噛まれた者も同じ化け物に変える、最悪の存在もいた。
ドラコはエルザの前に出て弾丸の雨を浴びせた。踊るように敵の間を縫い、正確に急所を撃ち抜いていく。一体、また一体と灰に変えていくその動きには一切の淀みがなく、目覚めたばかりとは思えない圧倒的な強さだった。
だが、数が多すぎた。
前方の敵を撃っている隙に、一体の吸血鬼がドラコの死角から回り込んだ。その紅い瞳は、エルザだけをまっすぐに見ていた。
「姫様ッ!」
ベアトリクスが叫んだ。考えるより先に体が動いていた。エルザの前に飛び出し、その小さな体で主人を覆い隠す。さっきは撃てなかった。銃を構えても何もできなかった。でも、体を盾にすることだけは、できた。
鈍い衝撃。吸血鬼の短剣がベアトリクスの背を深々と切り裂き、メイド服が赤く染まっていく。
「ベアトッ!?」
崩れ落ちるベアトリクスを抱きかかえ、エルザは顔色を失った。傷口の血はおかしな色をしていた。毒だ。刃に毒が塗られている。ベアトリクスの顔がみるみる青ざめ、唇が紫色に変わっていく。
エルザは回復術を試みるが、毒の浸食は止まらなかった。回復の速度より毒が体を蝕む速度のほうが、はるかに速い。
「だめ、だめベアト、目を閉じないで……!」
残りの敵を片付けたドラコが振り返った時に見たのは、親友の命が消えていく光景に泣き叫ぶ王女の姿だった。
「お願い、死なないで。わたくしを置いていかないで、ベアト……!」
ベアトリクスの手が力なく垂れ下がる。呼吸が、途切れ途切れになっていく。このままでは、死ぬ。
ドラコはしばらく、黙ってその光景を見つめていた。紅い瞳の奥に、何かが揺れる。遠い昔、自分にもこんな夜があった。どうしても助けたい命が合って、どうしても失いたくない存在がいて。
「……おい。その小娘は、処女か」
あまりにも場違いな問いに、涙で滲んだ瞳がドラコを見上げる。
「命に関わる質問だ、正直に答えろ」
ドラコの声に冗談の色はなかった。先ほどの余裕ある態度とは打って変わった厳しい顔。
エルザは腕の中のベアトリクスを見下ろした。苦痛に歪む親友の幼い顔。一緒に育った。ずっと一緒だった。
――でも。
ベアトリクスがエルザの元に来る前のこと。幼い頃にどんな境遇にいたのか、エルザはすべてを知っているわけではない。たまに見せるふとした瞬間の遠い目。過去について聞いても、困ったように笑ってはぐらかすあの顔。触れていはいけない何かがあることだけは、ずっと感じていた。
もしも「そうでなかった」なら、吸血鬼ではなく食屍鬼になってしまう。自我を失った生ける屍。それは、死よりも残酷な結末だ。
分からない。でも、答えなければベアトリクスは確実に死ぬ。
その時、腕の中のベアトリクスが微かに動いた。もう意識はほとんどないはずなのに、力の入らない指先がエルザの袖をきゅっ、と掴んだ。まるで、大丈夫だよ、と言うように。
エルザの目から、涙がこぼれた。
「……はい」
声が震えた。でも、目は逸らさなかった。
「はい。ベアトは……はい」
根拠なんてない。確証もない。あったのはただ、この手を離したくないという祈りだけだった。
ドラコはエルザの目を見つめ、一つ頷いた。ベアトリクスをそっと受け取り、首元に顔を近づける。
「黙ってみていろ。この小娘を助けたいのなら」
ドラコの牙が、静かにベアトリクスの白い首筋に沈んだ。
吸血。吸血鬼が他者の血を啜る行為であり、吸血症を感染させる行為でもある。性交渉の経験がなければ自我を保ったまま吸血鬼として目覚める。だがそうであれば、食屍鬼となる。
エルザは祈った。拳を握りしめ、ただひたすらに、お願い。お願いだから。
やがて、ベアトリクスの顔から苦悶の色が消え、荒い呼吸がゆっくりと穏やかになる。
毒に蝕まれていた肌の色が戻っていく。そして、安らかな眠りに落ちた。
ドラコは口元を拭い、眠るベアトリクスを担ぎ上げた。
「……助かるのですか」
「毒は消えた。命に別状はない。ただし……この小娘が次に目を覚ました時、覚悟しておけ」
何も言えなかった。ただ、ベアトリクスの温もりがまだ手のひらに残っていた。
人間ではなくなる。でも、食屍鬼ではなかった。安堵と罪悪感が、胸の中でぐちゃぐちゃに混ざり合う。
「行くぞ。脱出するなら今しかない」
ドラコは眠るベアトリクスを軽々と担いだまま歩き出す。まるで宮殿の構造を隅々まで知っているかのように。
エルザは涙を拭い、その背中を追った。
黒い軍服の上で白い長髪が暗い廊下に揺れる。見た目は美しい女性。声は男。その紅い瞳の中に、一体どんな過去が眠っているのだろう。
――何者なの、あなたは。
問いかける余裕はなかった。ただ走った。地獄の底から這い出るように、ひたすらに。魔王を名乗る吸血鬼と、吸血鬼に命を狙われている王女と、人間ではなくなる運命を背負ったメイド。それが、地獄のような夜に始まった、長い旅の幕開けだった。




