第12話 覚悟
直球の問いだった。慰めも、遠回しな言い方もない。ベアトリクスが何を覚悟しているのかを、正面から確かめようとしている。
ベアトリクスは黙った。
やっていけるのか。正直、分からない。吸血鬼になったことをまだ受け入れられていない。自分の瞳が紅くなったことを知ってから、まだ数時間しか経っていないのだ。これから何が起こるのか、何一つ分からない。怖い。とても怖い。人間の食べ物はもう食べられないのだろうか。日光の下をまともに歩けなくなるのだろうか。あの化け物たちのように、いつか人を襲うようになるのだろうか。
でも。
隣にいるエルザの顔が見えた。疲れ切った顔。泣き腫らした目。それでもまっすぐに自分を見つめている親友の顔。あの宮殿で、自分の背中をずっと追いかけて走ってくれた人。吸血鬼になった自分を「化け物じゃない」と抱きしめてくれた人。
「……正直に言えば、分かりません。自分が吸血鬼としてやっていけるかどうかなんて、今の自分には想像もつきません」
ベアトリクスの声は震えていた。でも、目は逸らさなかった。
「でも、わたしにはやらなきゃいけないことがあります。姫様を守ること。それだけが、わたしがここにいる理由です。そのためなら、どんな状況でも頑張れます。吸血鬼になっても、それだけは変わりません」
フローレンスは黙ってベアトリクスの目を見つめていた。紅い瞳の奥に宿る光を、測るように。
「……分かりました。今はそれで十分です」
フローレンスは静かに立ち上がった。納得したわけではないだろう。だが、ベアトリクスの覚悟は本物だと認めたのだ。フローレンスの紅い瞳が、一瞬だけ柔らかくなった気がした。
「ベアトリクス様。吸血鬼の体について不明なことがあれば、わたしに聞いてください。わたしは医師です。吸血症の研究をしています。あなたの体に何が起きているのか、できる限り説明します」
その言葉には、冷たさの中に確かな温かさがあった。ベアトリクスは小さく頷いた。
「状況を整理します」
フローレンスは全員に向き直り、淡々と話し始めた。
「イルドブルでの吸血鬼と食屍鬼による襲撃は、ヴェアヴォルフ同胞団の傭兵と王国の兵士たちによって、ひとまず鎮圧されました。街の被害は大きいですが、これ以上の拡大は食い止められています」
「ヴェアヴォルフ同胞団?」
エルザが聞き返した。名前だけは聞いたことがあった。各国の戦場で名を馳せている傭兵組織だ。だが、その実態については多くが謎に包まれている。
「大陸でも有数の傭兵組織です。今回、イルドブルの鎮圧に協力してくれました。詳しい説明は後ほど。今は、もう一つ重要なことがあります」
フローレンスの表情が、さらに厳しくなった。
「襲撃はヴェンツェル王国だけではありません。わたしが把握している限り、複数の国で同時に起きています。アンティグア王国では宮殿近くで食屍鬼の群れが確認され、セアビル王国でも国境付近で吸血鬼の集団が目撃されています」
複数の国で。同時に。
エルザの背筋が凍った。これは、一つの国を狙った襲撃ではない。大陸全体を巻き込む何かが動いている。ウィンガルが言っていた「上からの命令」という言葉が、急に重みを増した。
「……テオドル王国は」
エルザが、すぐに口を開いた。
「隣国のテオドル王国は、どうなっていますか。ドルメロ国王の安否は」
「テオドルについては未確認です。情報が入っていません」
「情報が入っていないということは、襲撃が起きている可能性があるということですか」
「その可能性は否定できません」
エルザは唇を引き結んだ。ドルメロ国王とは、父の代から同盟関係にある。父が病に倒れた後も、ヴェンツェル王国を支えてくれた恩人だ。父亡き今、エルザにとって最も頼れる隣国の指導者である。もしテオドル王国にも襲撃が起きているなら、一刻も早く安否を確認し、連携を取らなければならない。王女として、この国を背負う者として。
「テオドル王国に向かうべきです」
エルザの声は、王女のものだった。疲れ切った少女の声ではなく、国を背負う者の声。宮殿を失い、民を守れなかった悔しさが、今は前に進む力に変わっていた。
「ドルメロ国王が無事なら状況を共有し、対策を協議できます。もし襲撃が起きているなら、なおさら確認が必要です。わたくしたちだけではできないことも、二国が連携すれば道が開けるかもしれません」
ドラコはエルザの目を見た。覚悟の宿った紅くない瞳。疲れと悲しみの奥に、確かな意志が灯っている。ギルバートと同じ目だ、とドラコは思った。あいつも、追い詰められた時ほど強い目をする男だった。
「……いいだろう。テオドルへ向かう」
ドラコは即座に頷いた。一五年の空白がある自分よりも、今この世界を知っている王女の判断に従うべきだ。
「足は確保してあります」
フローレンスが宿屋の外を顎で示した。
「ここに来る途中で、乗り捨てられていた蒸気自動車を拾いました。燃料はまだ十分にあります」
「相変わらず手回しがいいな、フロー」
「あなたが無茶をする分、わたしが準備するしかないでしょう」
素っ気ない言葉。だがそこには長い年月をかけて積み上げた信頼が滲んでいた。
フローレンスは黒い棺を背負い直し、宿屋の出口へ向かった。その足取りには一切の迷いがない。ドラコが立ち上がり、首の繋がりを確かめるように首を回す。まだ完全ではないようだったが、動くことに支障はないらしい。散弾銃を拾い上げ、弾を確認してから肩にかけた。
エルザはベアトリクスの手を取り、立ち上がった。
「行きましょう、ベアト」
「はい、姫様」
宿屋を出ると、外には朝の光が広がっていた。村の通りに一台の蒸気自動車が停まっている。先ほどまで乗っていたものより一回りが大きい車体だった。
フローレンスが運転席に座り、ドラコが助手席に。エルザとベアトリクスは後部座席に乗り込んだ。フローレンスの黒い棺は荷台に積まれている。
蒸気機関に火が入り、低い唸りが響く。
「テオドル王国の首都シュクレまで、この車なら半日ほどです」
フローレンスが計器盤に目を落としながら言った。
車が動き出した。村の風景が後ろに流れていく。小さな宿屋が遠ざかる。あの中には、まだ店主夫婦が横たわっている。自分たちにはどうすることもできなかった。せめて誰かがあの二人を見つけて、弔ってくることを祈るしかない。その無力さが、エルザの胸に重くのしかかった。
だが、立ち止まっている暇はない。前を向かなければ、自分にできることをしなければ。
エルザは窓の外を流れる景色を見つめた。テオドル王国。ドルメロ国王。父が信頼した同盟国。そこに何が待っているのかは分からない。
でも、もう一人ではなかった。隣にはベアトリクスがいる。前の座席にはドラコとフローレンスがいる。たった四人。それでも昨夜、宮殿の倉庫で棺を開けたときの自分よりは、ずっと強いはずだ。
ベアトリクスがエルザの手をそっと握った。冷たい手。でも、その冷たさにはもう慣れ始めていた。エルザは握り返した。
車は朝の街道を走り、テオドル王国の首都シュクレを目指した。




