第10話 絶体絶命
白い長髪が宙を舞い、ドラコの体が崩れ落ちた。首のない体が、床に倒れる。赤い血が広がっていく。店主夫婦の血と混ざり合い、宿屋の床を染めていった。
「ドラコ!!」
エルザの悲鳴が宿屋に響いた。
ベアトリクスは目の前で起きたことが理解できなかった。自分を守るために。この人は自分を守るために、首を。つい数時間前、まだ味方だとは思っていないと言った。銃を向けた。謝りはしたけれど、心の底では警戒していた。なのにこの人は、一切の迷いもなく自分の命を盾にした。
なぜ、どうして。
答えはもう聞いていた。ギルバートとの約束。エルザを守るという、一五年前の誓い。あの時は信じられなかった。でも今、首を落とされてなお立ち上がろうとするこの魔王の姿を見て、ベアトリクスはようやく理解した。この存在は、本気だ。
「あーあ。旦那、相変わらず人を守る時だけは馬鹿みたいに無茶するんだよなあ」
ウィンガルは血に濡れた短剣を振り払い、エルザのほうに向き直った。
「さて、邪魔者がいなくなった。大人しく来てもらおうか、王女様」
ウィンガルが血の付いた短剣を構え直し、ゆっくりとエルザに近づいてくる。
エルザの足が震えた。ドラコが倒れた。もう守ってくれる者はいない。ベアトリクスが拳銃を構えてエルザの前に立ったが、この男に拳銃が通じるとは思えなかった。それでもベアトリクスは退かなかった。震える手で銃を構え、エルザの盾になろうとしている。
絶対絶命だった。
その時。窓の外から、一発の銃声が響いた。
一発の弾丸が、窓硝子を突き破って飛び込んできた。正確に、寸分の狂いもなく、ウィンガルの頭部を貫いた。遠距離からの狙撃。しかもこの暗がりの中で、窓越しに、動いている標的の頭部だけを撃ち抜いている。人間の業ではない。
「がっ……!」
ウィンガルがよろめいた。頭部から血が噴き出す。だが致命傷にはなっていない。吸血鬼の再生力が、即座に傷口を塞ぎにかかっている。
しかし、その隙は十分だった。
床に倒れていたはずのドラコの体が、動いた。
首のない体が、ゆっくりと立ち上がる。腹に刺さった短剣がまだ残っている。血が止めどなく流れている。それでも、その体は立った。
エルザもベアトリクスも、その光景に凍りついた。ウィンガルは目を見開いたが、驚きの質が違っていた。立ち上がったこと自体ではない。こんなに早く動いたことに、だ。首を失った体が、手探りで床に落ちた散弾銃を拾い上げる。そしてその銃口を、よろめくウィンガルに向けた。首がないのに、腹に刃が刺さったままなのに、それでもドラコは立ち、戦おうとしている。
轟音。
散弾がウィンガルの胴体を直撃した。肉が抉れ、黒い外套が吹き飛ぶ。ウィンガルの体が宿屋の壁まで吹き飛ばされ、壁に罅が走った。
「……嘘だろ、旦那。首を落とされりゃしばらく動けねえのが吸血鬼だろうが。なんですぐ立ってんだよ」
壁に叩きつけられたウィンガルが、血を吐きながらも笑った。吸血鬼は首を落とされても死なない。だがしばらくの間は動けなくなる。それが常識だ。なのにドラコは、わずか数十秒で立ち上がった。呆れと、そしてどこか嬉しそうな響き。この男にとって、ドラコの異常さは恐怖ではなく、むしろ喜びなのかもしれなかった。だが胴体の傷は深い、再生が追いついていない。
「化け物め。やっぱりあんたには敵わねえな。……今日のところは退かせてもらうぜ」
ウィンガルは壁から体を剥がし、よろめきながらも窓枠に手をかけた。その動きは重傷とは思えないほど素早かった。
「だが覚えておけよ、旦那。オレはまた来る。王女は必ず頂く。それまで精々、首の繋がりは大事にしておくんだな」
最後に不敵な笑みを残して、ウィンガルは窓から身を翻し、闇の中に消えた。追う余裕はなかった。
宿屋に、沈黙が降りた。
血まみれの床。倒れた店主夫婦。そして、首のない体のまま散弾銃を握り締めているドラコ。異様な光景だった。悪夢のような一夜がまだ終わっていないことを、すべてが物語っていた。
エルザは震える足で、床に転がったドラコの頭部に駆け寄った。白い長髪に血がこびりつき、美しかった顔が赤黒く汚れている。だが、その唇が微かに動いた。
「……死んでは、いない。安心しろ」
首だけの状態で喋った。エルザは悲鳴とも安堵ともつかない声を漏らした。信じられなかった。首を落とされて、生きている。喋っている。この存在は、一体どこまでが常識の外にいるのだろう。
「ドラコ、あなた……」
「騒ぐな。くっつければ治る。……多分な」
多分。そんな曖昧な言葉に安心できるわけがない。だがエルザは泣きそうな顔で、それでもドラコの頭部をそっと抱え上げた。重い。命の重さだと思った。血で汚れた白い髪が、エルザの腕に絡みつく。
ベアトリクスは拳銃を構えたまま、入口と窓を交互に警戒していた。ウィンガルが戻ってくる可能性がある。自分の首筋の傷はもう痛まなかった。吸血鬼の再生力が、すでに傷を塞ぎ始めているのだろう。その事実に複雑な思いを抱く余裕は、今はなかった。
宿屋の入口から、足音が聞こえた。
静かな、だが確かな足音。一人分。ベアトリクスが即座に銃口を入口に向ける。エルザもドラコの頭部を抱えたまま身構えた。
扉の向こうから姿を現したのは、一人の女性だった。
長い耳。人間ではありえないほど長く尖った、エルフの耳。長い髪を後頭部で三つ編みにまとめ、手には照準器のない狙撃銃を持っている。先ほどの狙撃は、この女性が放ったものだ。照準器もなしに、窓越しにウィンガルの頭部を正確に撃ち抜いた。信じがたい精度だった。
そして瞳の色は、紅。エルフの吸血鬼だった。
女性は血まみれの宿屋の惨状を一瞥し、床のドラコの首なし体と、エルザに抱えられた頭部を見た。
クールな顔たちに、呆れたような色が浮かんだ。
「……何やられてるんですか」
冷たい声だった。だがその声の奥に、僅かな安堵が混じっているのを、エルザは聞き逃さなかった。




