第1話 目覚め
悲鳴が、途絶えた。
つい先ほどまで宮殿中に響いていた叫び声も、剣がぶつかり合う金属音も、銃声も、すべてが嘘みたいに静まり返っている。
だけど、静寂は安心をくれない。むしろ耳が痛いほどの沈黙が、もう誰も抵抗する者がいなくなったのだと教えてくれる。
ヴェンツェル王国、首都イルドブル。魔術文明の発祥地とうたわれたこの美しい国の心臓部が、今夜、地獄に変わった。
「姫様、こちらです」
薄暗い廊下を、二つの影が走っている。
先を行くのは小柄な少女。メイド服の裾をたくし上げ、もう片方の手でしっかりと後ろの人物の手を引いていた。
ベアトリクス。年齢はわずか一四歳。ヴェンツェル王国の宮殿に仕えるメイドであり、引いている手の主、エルザ・ヴェンツェル王女にとっては小さい頃からの親友でもある。
「ベアト……っ、あの人たちは。衛兵のみなさんは」
後ろから聞こえる声は震えていた。金色の長い髪を揺らし、エメラルド色の瞳に涙をにじませた少女、エルザ。一五歳。一年前に病で父ギルバートを失い、たった一人で王女の座を継いだ少女。
宮殿を襲ったのは、吸血鬼と食屍鬼の群れだった。紅い瞳を爛々《らんらん》と光らせた化け物たちは口々に「王女を探せ」と叫びながら、衛兵を、使用人を、次々と手にかけていった。
なぜ自分が狙われているのか分からない。ただ、自分のせいで皆が殺されている。そう思った瞬間、足が止まりそうになった。
「姫様!」
ベアトリクスの声に引き戻される。繋いだ手の力が、少しだけ強くなった。
「……ここです」
たどり着いたのは、宮殿の奥まった一角にある倉庫だった。重たい扉を開け、二人で滑り込む。ベアトリクスが内側から鍵をかけ、背中を預けてようやく一つ息をついた。
倉庫の中は暗い。だが、目が慣れてくるにつれて異様な光景が浮かび上がってきた。
床一面に描かれた巨大な円形の魔術式。壁際に並べられた拳銃、短機関銃、散弾銃、などの武器の数々。そして部屋の中央に鎮座する、一つの大きな黒い棺。
ベアトリクスが呆然と呟く。宮殿で長く働いてきたが、こんな場所があることなど知らなかった。まるで誰かが何かに備えて、密かに用意していたかのような部屋だった。
ふと、壁際の武器に目がいく。あの化け物たちがすぐに追いつくかもしれない。鍵だけで止められるとは思えない。今の自分にできることは限られている。でも、何もしないよりはましだ。
ベアトリクスは意を決して壁際に駆け寄ると、手近な拳銃を手に取った。ずしりとした金属の重さが掌に冷たく伝わる。銃なんて触ったこともない。それでも、自分の命に代えても、この人だけは守り抜く。
「大丈夫です。姫様。何が来ても、わたしが守りますから」
声が震えていることは自分でも分かっている。それでもベアトリクスは拳銃を両手で握り、扉のほうへ銃口を向けた。
その時、エルザの視線は黒い棺に釘づけになっていた。
『……いいか、エル。もしもお前の身に、どうしようもない危機が迫った時。あの倉庫へ行きなさい。そして、棺の中で眠る者を起こしなさい。あの方は、きっとお前を守ってくれる』
亡き父の言葉が、心の奥から蘇る。起こし方も、父は教えてくれていた。
――ドンッ。
倉庫の扉が、外側から殴りつけられた。続けて二度、三度。
「いたぞ、ここだ。王女の匂いがする」
低く粘りつくような、およそ人間とは思えない声。ガギッ、と金属が軋む。鍵が、持たない。
ベアトリクスは拳銃を構えた。両腕が激しく震えている。狙いなんて定められるはずもない。それでもエルザの前に立った。
だがエルザは、ベアトリクスの後ろには隠れなかった。一歩前に出て、両手を黒い棺に向ける。エメラルドの瞳に覚悟の光が宿った。
エルザの両手から淡い光が放たれ、黒い棺を包み込んだ。棺に刻まれた紋様が青白く輝き始めた。エルザは警戒して、棺のそばを離れる。
そして、棺の蓋が内側から弾き飛ばされた。
同時に、倉庫の扉も破壊された。
蹴り開けられた扉の向こうからも現れたのは、三体の吸血鬼。紅く輝く瞳に獣のように細い瞳孔、鋭く尖った歯。赤黒いものがこびりついた短剣を手にした先頭の一体が、エルザを見つけて嗤った。
「見つけたぞ、王女」
ベアトリクスは引き金に指をかけた。撃て。撃つんだ。――撃てなかった。指が動かない。全身がこわばって、呼吸すらまともにできない。
吸血鬼がゆっくりとエルザに歩み寄る。
その時、背後で気配が動いた。棺から身を起こした者が、音もなく立ち上がっていた。
白い。エルザが振り返って最初に思ったのは、それだった。
雪のように白い長髪。青白く、陶器のように滑らかな肌。黒い軍服に身を包み、頭には制帽。長い白髪がさらりと肩から流れ落ちる。
美しい、と思った。この地獄のような夜にはあまりにも不釣り合いなほど、その存在は美しかった。女性、だろうか。少なくとも見た目は、この世のものとは思えないほどの美貌を持つ女性にしか見えない。
その人は怠そうに首を回し、半開きの目で周囲を見渡した。崩れた扉。散らばった武器。紅い瞳の吸血鬼たち。そして自分を見上げている少女が二人。眠りから覚めたばかりだというのに、その所作には不思議な余裕があった。
吸血鬼たちも足を止めていた。棺から現れた存在に、本能的な警戒を覚えたのだろう。
沈黙を破ったのは、その人だった。壁際の短機関銃を左手に、散弾銃を右手に。無造作に掴み取ると、両腕を左右に開いて構える。
そして、その唇が開いた。
「退屈な眠りを邪魔されたんだ。少しくらい暴れさせてもらうぞ」
エルザは、耳を疑った。
低い。明らかに、男の声だった。
目の前にいるのはどう見ても美しい女性だ。白い長髪も、繊細な顔立ちも、細い体の線も、何もかもが女性のそれだ。なのに喉の奥から響くその声は太く低く、はっきりと男性のものだった。あまりの落差に、一瞬自分の聞き間違いかと思った。
ベアトリクスも目を見開いている。声の主と姿を見比べるように、視線がさまよっていた。
だが、驚いている暇は与えられなかった。銃声が倉庫を震わせた。
短機関銃の連射が先頭の吸血鬼を撃ち抜き、散弾銃の一撃が残りの二体を壁際まで吹き飛ばす。倉庫にあった銃弾には付呪が施されていた。武器や防具に魔術的な力を付与する魔術。弾丸の一発一発が吸血鬼を滅する魔力を帯びており、撃ち抜かれた三体は声を上げる間もなく灰と化した。
わずか数秒の出来事だった。
硝煙の中、白い長髪の存在がくるりとエルザのほうを振り返る。紅い瞳がエメラルドの瞳と交差した。
「この魔王ドラコを目覚めさせたのは、貴様か?」




