◆中編 《漂泊飛空艇アルク・ノア》――雲海を越える逃避行
王都空営局の巡察を振り切った僕らは、夜明け直前の貨客混載船〈アルク・ノア〉へ潜り込んだ。船体は風化した銅板と魔導リベットで繫がれ、蒸留魔石炉が腹の底で脈動している。甲板に立つだけで、心拍と同調するような鼓膜の震えを覚えた。
「ここが安住とは限らんが、空に出れば獣も砲門もそうそう追って来られん」
獣人少女のアーラーディヤが尻尾をゆらし、牙を白く覗かせる。彼女の褐色肌は朝霧に濡れ、首筋を一筋の汗が伝った。
「でも風向きが乱れてるわ」
風精術師アニラがローブを押さえながら眉根を寄せる。薄布の胸元が波に揺れ、思わず目を逸らすと、尖耳がかすかに震えた。
「そ、その……視線が刺さってる」
「悪い」僕は咳払いで誤魔化し、貨物目録を覗き込む。そこに記された赤インクの記号――〈SK〉――が嫌な既視感を呼び起こした。
船倉へ降りる梯子は狭く、アーラの尻尾が僕の顔にふわりと触れた。
「きゃっ、ご、誤解するなよ! 尾は勝手に動くんだ!」
彼女が火照った頬を隠す前に、梯子の下から湿った甘い匂いが立ちのぼる。星核片の匂い――重力を狂わせる禁制鉱物だ。
積載区画の鋼扉をこじ開けると、銀灰の結晶がコンテナにぎっしり詰まれていた。水銀灯が反射し、アーラの鎖骨を幽かに照らす。
「やっぱり……密輸ね」アニが囁き、ローブの裾を結んで結界陣を描く。
だが僕らより早く、コンテナの上に影が降り立った。黒銀の双剣を逆手に携える青年――影勇者アリヤン・ラージェンドラ。
「久しぶりだな、永翔。星を運ぶ旅は愉しいか?」
声は懐かしさと刃の冷たさを同居させていた。
「その鉱石を王都に落とす気か。街を沈めたいのか」
「沈めるんじゃない。歴史を“補正”するんだ。十度目を迎える前に」
剣戟が始まる。無頼者の口笛と蒸留炉のうなりが混ざり、船倉の重力がぶれて床板が浮く。アーラが跳び、尾で柱を掴むがスカートがめくれ、褐色の太腿があらわになった。
「み、見るなっ!」
ローブの裾を押さえたアニが風圧を収束させ、僕とアリヤンの間に気流の壁を張る。だが双剣が風膜を切り裂き、彼女の胸元の留め紐を弾いた。布が滑り、白い谷間が月光に浮き、アニは耳まで赤くして呪文を噛む。
星と金の瞳を揺らしながら、アーナンダ・ヴィルヤは静かに前へ出た。透けるサリーの裾が漂い、腰のラインが淡く光る。
「それは私の欠片よ。返して」
掌をかざすと、スターカイトが淡金の輝きを吸われるように光を失い、ただの鉛箱へ変わった。アリヤンの双剣が震え、彼は苦い笑みを漏らす。
「観測者の権能か……だが、まだ終わらない」
深紅の転移陣が彼の足下へ咲き、残光だけを残して姿が消える。
――静寂。
揺れるランプの下で、アーラが尻尾を垂らし、スカートの裾を握る指がまだ震えている。僕はそっと上着を肩に掛けた。
「助かった、けど……尻尾も心臓も止まるかと思った」
彼女が照れ隠しに尾で僕の頬を撫で、今度は僕が赤面した。
反対側では、紐を結び直したアニがため息をつきながら薬草茶を差し出す。「のぼせたでしょ」
湯気が立ち上り、口をつけようとした瞬間、船体が大きく傾いた。窓外に、雲を割る蒼い極光――天空裂〈ゼロ・ライム〉が現れたのだ。
「……あそこだ」アーナンダが呟き、胸元の紋が星色に瞬く。
「最後の欠片が眠ってる。付き合ってくれる?」
僕は茶碗を置き、頷いた。
「重力どころか未来だって、振り切ってやるさ」
甲板へ出ると雲海の匂いが肺を満たし、夜明けの光が星屑を散らすサリーを透過させた。白磁の脚線と淡い腰の曲線が、薄紅に染まって見えたのは、朝焼けのせいだけではない。
「……見惚れてる」
アーナンダの囁きに、僕は咄嗟に視線を逸らした。
「空を見てただけさ」
その嘘を見透かしてか、彼女は微笑む。星と金の瞳が、遠い未来よりも近い瞬間を映して揺れた。
こうして〈アルク・ノア〉は、重力0の裂け目を目指し、雲海を裂いて進路を取った。
胸に残る熱は、蒸留炉の鼓動よりも確かに、僕らを次の世界へ引き寄せていた。