◆前編 《空葬都市スカイリムズ》――重力を棄てた街で星を抱く
夜と朝の境目は、いつも浮き屑街〈ギアガター〉が最も静まる刻だ。
錆びた鉄骨が組まれた高層屑塔の屋上で、久遠永翔は膝を抱え、自作ドローン〈ハコブネ〉から送られてくる魔導電子のログをスクロールしていた。
《“逆風廻帰”起動試算 成功率:0.03%》
数字は冷笑のように赤く点滅する。――それでもやるしかない。重力に縛られたままでは、この街は死ぬ。
蒸れた風が首筋を撫で、遠方で吊り鎖が軋む低音を響かせた。天空に散る残灯の群れが、灰色の雲間へ溶けて消える。
永翔は小さく息を吐き、ハコブネ巨大モニターの電源を落とした。胸ポケットに収めた刻鍵――金属と星砂を溶接した小指ほどの鍵を撫でるたび、鼓動が早まる。
(今日こそ、重力反転波を叩き込む)
そう決めた瞬間、頭上を切り裂く閃光。暗い雲壁を貫いて、水銀色に輝く**“繭”**が落下してきた。
パリン――。
衝突というより“割れた”音。粉砕された薄膜は光子へ崩れ、無数の星屑となって夜気へ舞った。
――その中心に、少女が横たわる。
片瞳は金虹、もう片瞳は星雲の紫。髪は宇宙泡を束ねたような銀青で、透ける虚空繊維サリーが白磁の肌をほのかに浮かせる。
「……ここは、重力の檻?」
掠れた囁き。だが、その双眸だけは億年の星歴を見透かす、静謐な深さを携えていた。
永翔は己の喉が鳴るのを自覚し、慌てて視線を逸らす。胸元から滑り落ちかけたサリーの布越しに、白い肩線が覗いたのだ。
「え、えっと……怪我は? 大丈夫?」
「私はアーナンダ・ヴィルヤ。あなたが“拾い上げた”の?」
星と金の瞳がゆるく弧を描く。少女は立ち上がろうとするが、足許がふらつき永翔の胸へ倒れ込んだ。
熱を帯びた柔らかな重み。思わず抱き留めると、鼻腔を甘い花蜜の匂いがくすぐる。
この唐突な密着を、ギアガターの夜風はあまりに優しく包み込んだ。永翔は心拍が跳ね上がるのを隠しきれず――
その刹那、警告サイレンが街を震わせた。
〈浮遊鎖86番断線。航路E3に艦隊接近〉
「辺境領空艦隊……また密輸掃討だ」
砲声。水平線から伸びる赤い光条が、遥か下層の吊鎖を撃ち抜いた。
街が傾ぎ、足場の鉄骨が悲鳴を上げる。アーナンダがよろめき、再び永翔へ縋る。滑らかな肌が胸板へ押し当たり、サリーの裾が風で翻るたび、太腿が月灯に艶やかに輝いた。
(ま、まずいぞ……この状況で意識がそっちへ行くのは)
頬を熱く染めながらも、永翔は彼女の手を取った。
「ここは崩れる! ついて来い!」
踊り場へ駆け下りる途中、鉄骨デッキが千切れ、下層へ巨大な火花を散らす。
永翔は胸ポケットの刻鍵を握り込んだ。
――《逆風廻帰/時相圧縮開始》
視界が灰色に塗り替わり、時間が二拍だけ遅延する。空を舞う破片の軌道が鈍く伸び、耳鳴りの内側で彼は“未来の足場”を読み取ると、アーナンダの腰を抱えて跳躍した。
重力の爪先を滑るような浮遊感。
着地の瞬間、彼女の胸が腕に押し付けられ、柔肌の温度が脳を焼く。星と金の瞳が至近で震え、微かな汗が首筋を伝った。
「……あなた、面白いわね」
頬を朱に染めつつ囁く声。その熱を押し殺すように永翔は咳払いをした。
「俺の趣味は、空から落ちる姫を抱き止めることじゃないんだが」
「では、重力を無視してくれる騎士、と呼ぼうかしら」
胸元へ再び赤が差す。――危険だ、この少女は。意識を持っていかれる。
だが街は待ってくれない。断線した吊鎖を治さなければ、ギアガターごと落下する。
火花と塵煙の中を走り、吊鎖起重点へ出ると、そこには二つの影がいた。
一本角の獣人族少女――アーラーディヤ。褐色肌と長い尻尾を揺らし、鉤爪を構えて瓦礫を砕いている。
「よそ見してる場合か、永翔! 尻尾で抱えられたくなけりゃ手貸せ!」
尻尾が跳ね上がり、翻ったスカートから逞しい太腿が覗く。火粉が汗で光り、彼女は照れ隠しのように尻尾で裾を抑えた。
もう一人は尖耳の風精術師――アニラ。長い金髪を翻し、白のローブの胸元を手で押さえつつ、風魔法を繰り出す。
「新手の難民? ……このタイミングで美女連れ? アンカー潰す手伝いが先でしょ!」
慌ててかけ直した留め紐の隙間から、谷間がちらと覗き、彼女は頬を薄紅に染めて睨み返した。
永翔はアーナンダを背後へ庇い、刻鍵を掲げた。
「了解。二秒の未来を買う――《逆風廻帰》!」
光の杭が虚空へ射出され、断線したチェーンの**“あり得た軌道”**を結び直す。金属の悲鳴が静まり、街の傾斜が止まった。
アーラが尻尾で汗を拭い、にっと牙を覗かせる。
「やるじゃねえか。……で、その嬢ちゃんは?」
アーナンダは胸の前で卵ほどの光球を転がし、微笑を浮かべた。
「私はただの旅路の観測者。けれど、彼の重力を少し借りるわ」
光球が弾け、夜気に星屑を散らす。それが四人の髪や肩に落ち、幽かな温度で肌を撫でた。
遠く、再び艦隊の砲声。
「ここは戦場になる。西層の空洞船〈アルク・ノア〉に逃げ込むぞ!」
アニが風圧で塵を払い、ローブの裾が翻るたび、透ける脚線が月灯に染まる。永翔はそんな彼女に気づきつつも、視線を逸らして叫んだ。
「全員、生きて夜明けを迎える!」
――こうして、星を抱く少女を連れた逃避行は始まった。
空葬都市スカイリムズを覆う灰雲の向こうで、まだ見ぬ蒼い極光が微かに瞬いていた。