05 新たな世の始まり
背後から噴き出た黒色に絡め取られ、聖の体は凝った闇の中へと飲み込まれる。汪蛇はその後を追いかけて闇へと飛び込もうとしたが、蠢く黒い靄のようなそれは、不定形に伸び縮みしながらひらりとそれをかわして距離を取った。
「ふふ、ふふふ」
「てにいれた」
「てにいれちゃった」
くすくすと笑う声が、瘴気に弱い己の体を苛み、汪蛇は顔を顰める。
「くっ……!」
精霊とは大地から生まれ出る力の結晶のようなものだ。瘴気に染まることは珍しい話ではないが、聖樹宮まで侵入を許すのはごく稀だ。
おそらく、聖を迎え入れた時に紛れ込んでしまったのだろう。
「あはは!」
「ふふふふ!」
甲高い笑い声を上げながら、瘴気精霊たちは天高く遠ざかっていく。向かおうとしている先は――この宮の外である、下界だ。
「っ……待てっ!」
「お待ちください!」
足に力を込めて飛び立とうとした汪蛇の目の前に鈴角が立ちはだかる。汪蛇は思わず足を止め、聖を取り込んだ瘴気は飛び去ってしまった。
「なぜ邪魔をする! 私の聖が……!」
「御身は持ち込まれた瘴気にあてられて弱っております。無策のまま下界に向かうのは自殺行為です」
凪いだ水面のように冷静な眼差しで鈴角に告げられ、汪蛇は感情を爆発させるように問い詰める。
「だったらどうすればいいと言うのだ! 本来は互いの瘴気を浄化しあうのが聖獣と聖の関係だ! その聖が囚われたのなら、私の瘴気をどうにかする方法など……!」
幼子のように途方に暮れた声を出す汪蛇に、鈴角は静かながらも力強い声色で言いながら、何かを差し出した。
「私は、無策で立ち向かうのは自殺行為と申し上げたのです。こちらをお持ちください」
鈴角から手渡されたのは、聖がこの宮に持ち込んだ古ぼけた短刀だった。そしてその表面には、不器用な形で「沐陽」という名が刻まれている。
「これは……」
「おそらくは、聖様の御名でしょう」
沐陽、と心のうちで呟いてみる。ただそれだけのことで、己の中で荒れ狂っていた焦りが落ち着いていくのを感じた。
これは、私の聖の名だ。汪蛇はそう確信する。
「名を楔とすれば、あるいは呼び戻せるかもしれません。そのためには、聖様が戻ってきたいと強く望まなければなりませんが」
その覚悟と自信はあるか、と鈴角は鋭い視線で問いかけてきた。もしないのであれば、どんな手を使ってでもこちらを引き止めるという覚悟の籠った目だ。
汪蛇はその眼差しを受け止め、強く頷いた。
「無論だ。私はあの子を――沐陽を必ず取り戻す」
■□■□■
不意に名前を呼ばれた気がして、微睡んでいた俺の意識は浮上する。だが俺を包む何かに沈み込んでいるかのように全身は重く、みじろぎ一つできない。
「ここ、は……?」
なんとか声を発するも、その響きはすぐに闇へと吸い込まれて消え去り、自分がどこにいるのかもわからない。立っているのか倒れているのかすらわからず、俺は襲い来る眠気のまま意識を手放しそうになる。
その時、聞き覚えのある声が、遠くで響いたような気がした。
「だ…じょうぶかい……しっかりす……だよ……!」
焦りを帯びたその女性の声に、俺は思わず瞼を開く。暗闇の向こう側で、見覚えのある女性――梓晴が老婆を助け起こしていた。
老婆は何か恐ろしいものを見る目でこちらを見たまま腰を抜かしており、梓晴はそんな老婆をなんとか逃がそうと叱咤している。
「おお、おお……この世の終わりじゃ……! こんな巨大な瘴気、逃げられるわけがない……!」
「安心しな! きっともうすぐ聖獣様が来てくださる! ほら、諦めずに逃げるんだよ!」
梓晴は老婆に肩を貸して逃げようとするが、なかなかうまくいかない。俺はそんな彼女たちを助けようと手を伸ばそうとして――自分が伸ばした手が、禍々しい巨大な腕になっていることに気が付いた。
「そうか、俺、瘴気に飲み込まれて……」
ようやく自分が置かれている状況を理解し、俺は伸ばしかけた腕をなんとか引き戻す。すると、耳元で川のせせらぎのような複雑に混ざり合った声で、何かがささやいてきた。
「おまえはだまされたんだ」
「なまえときおくをうばわれそうになった」
「うらぎられたんだ」
「こわいだろう?」
「かなしいだろう?」
「にくいだろう?」
そのささやきは、こちらの負の感情を増幅させようと煽り立ててくる。俺は、その言葉を受け止め――やけに落ち着いた気分になっていた。
確かに自分は騙されていたのかもしれない。名前と記憶を奪われ、聖として新たな生を歩ませられようとしていたのかもしれない。汪蛇は、俺を独占するために俺の気持ちを裏切っていたのかもしれない。
でも――それでいいのかもしれない。何もなかった自分を守り、様々なことを教えてくれた恩人たちを助けられるなら、名前を捨てて聖の力に身を任せてもいいのかもしれない。
俺は大きく息を吐いて自分の体がここにあるのだと認識すると、周囲を取り囲む瘴気たちに堂々と言い放った。
「俺は、お前たちの言葉には乗らない! 皆を助けるためなら、名前も記憶も奪われたっていい……! 俺は、お前たちを祓う、聖だ!」
俺の言葉に呼応するように、己の中から力の奔流があふれ出す。強い光を伴ったそれは周囲の瘴気を吸い込んでいき、それに侵されていた精霊たちをも吸い込んだ。
それらすべてが己の肉体へと流れ込み、強い苦痛を伴いながら浄化されていくのを感じる。
まだ外側に残っていた瘴気の化け物の足元から、無数の枝葉が天を目指して伸びていき、折り重なったそれはやがて大樹の形になっていく。
その中で俺は、木々と自分の体が一体化していくのを感じていた。
「全て捨てて、この体が大樹になっても……それで皆を守れるなら……」
ただの植物へと近づき、苦痛すら遠ざかっていく感覚の中――ふと、汪蛇の顔が頭をよぎった。
俺が疑いを持ったせいで、傷つけてしまったかもしれない俺の片割れ。どうしようもなく俺を愛そうとしていた彼。
最後に、謝っておきたかったな。
そんな最後の後悔から涙が一滴こぼれたその時――力強い声が、まっすぐ俺へと近づいてきた。
「沐陽――ッ!」
「……汪蛇、様?」
薄れゆく意識の中、ぽつりと名を呼び返すと、それに応えるように枝葉がバキバキと少しずつ破砕していく音が響いてきた。
「沐陽、そこにいるのか! 返事をしてくれ……!」
やみくもに叫ぶ汪蛇の声に、一瞬だけ心が揺れるも、俺はすぐにそちらから目をそらした。
「もう、いいんです。ここで俺が大樹になれば、この先、千年は瘴気のない日々が続くって、なんとなくわかるんです。どうせ聖になって名前も記憶も消えるなら、俺はそのほうが……」
「――駄目だ!!」
目の前の枝葉の壁に、梓晴の短刀が突き立てられる。それを手がかりにして、汪蛇は壁をこじ開け始めた。
穴を広げようとする汪蛇の指に枝葉が突き刺さり、締め付けるように侵入を拒む。汪蛇は手が血まみれになるのにも構わず、さらに力を込めて俺に近づこうと体をねじ込んだ。
「俺は、お前のすべてを愛したいんだ。俺を慕ってくれる運命の相手のお前だけじゃなく、下界で育まれ愛された優しいお前も愛したいんだ! 名前や記憶を奪わずに済む方法は、どれだけ時間がかかったとしても見つけてみせる! だから――!」
決死の思いで叫んだ汪蛇の言葉に、俺は一瞬呆気にとられる。同時に枝葉の勢いも弱まり、汪蛇は一気に枝の檻をかき分けると、俺へとたどり着いてきつく抱きしめてきた。
「……不安な思いをさせて、本当にすまなかった。俺はお前を悲しませたくない。お前の意思に反したことをするつもりはない。どうか、信じてくれ」
声を震わせながら言う汪蛇の額からは聖獣の証である角が生え、全身は服も肌もボロボロになっている。
持てる全ての力を尽くしてここまで来てくれたのだ。ただ、俺を連れ戻して謝るために。
俺は、自分の中で諦めかけていた幸せを目の前に示されたような気がして――微かに笑いながら汪蛇の体をそっと抱きしめ返した。
「ふふ、汪蛇様って結構欲張りなんですね」
「ああ。失望したか?」
「いいえ、それぐらい強欲な方が、俺を愛してくれた民の幸せを取りこぼさないと思います」
己の中に巣食っていた最後の瘴気が浄化され、晴れやかな気分で俺は汪蛇と向かい合う。
どちらともなく顔を寄せて、二人の唇は重なった。
ひんやりと冷たいような、湧き出る熱を交換しているかのような、一瞬の触れ合い。
それをきっかけにして、俺たちを覆っていた植物は光の粒となって消えていき、俺は汪蛇に抱きかかえられる形で地面へと降り立った。
「汪蛇様、俺……うぐぇ……!?」
「沐陽!?」
慌てる汪蛇のことを気にすることもできず、俺は地面に膝をついて、発作のままに胃の中身を吐き出す。しばらく何も食べていなかったのでほとんど胃酸しか出てこなかったが、その代わりに見覚えのある光の玉がいくつも俺の口から吐き出された。
「げほ、これって、精霊……?」
まだ地面にうずくまりながら、俺は茫然と呟く。汪蛇はそんな俺の背中をさすりながら、言いづらそうに切り出した。
「これは私の予想なのだが……聖としてのお前には、自分の中に取り込んだ瘴気を浄化し、元の姿になった存在を吐き出すという性質があるんじゃないか?」
「え?」
汪蛇に言われた内容をゆっくりと飲み込み、俺は引きつった顔を汪蛇へと向ける。
「つまりこれから俺は、嘔吐で民を救っていくってことですか……?」
汪蛇は気まずそうに目をそらし、ぼそぼそと続けた。
「それから聖と聖獣は、互いの中に溜まった瘴気を祓いあう関係性でな……その方法として有用なのが接吻なんだが……」
そこまで言うと、汪蛇はしょんぼりと肩を落とし、おやつを地面に落とした幼子のような悲しい顔になった。
「つまり接吻をするたびに、私はお前に嘔吐されるということで……」
「えっ、お、俺、汪蛇様との接吻が嫌なわけじゃないですから! 本当ですよ!」
慌てて俺が弁明すると、汪蛇は落ち込んだ顔をころりと変え、いたずらっ子のような表情になった。
「くくっ、わかっているとも。揶揄っただけだ」
「むっ……」
せっかくフォローしたのにただの冗談だったと知り、俺は汪蛇に視線で抗議する。汪蛇は穏やかに笑いながらそれをいなしてきた。
そんな平和なじゃれあいをしていると、とある人物が俺たちの前へと歩み出てきた。
「沐陽……」
その人物――俺の恩人である梓晴は、聖獣の隣にいる俺にどう話しかけるべきか迷っているようだった。俺も同様にどうやって返事をすればいいかわからず、俺たちは気まずい沈黙のまま向かい合う。
そんな俺たちの様子をよそに、汪蛇はなぜか一人で納得したような顔になっていた。
「ああそうか、その手があったか」
「え?」
こちらの理解が追いつくのを待たず、汪蛇は俺の肩を抱き寄せて、周囲に集まってきていた民たちへと声を張り上げた。
「民たちよ、紹介しよう。彼は私の伴侶である聖であり、この都で育まれた沐陽という人間だ。我らはともにこの国を愛し、民が良き日々を送れるよう見守り続けよう!」
朗々と響く汪蛇の声を聞き、民たちは一気に歓喜の笑顔を浮かべる。
「めでたい!」
「聖獣様に伴侶ができたのか!」
「これほどめでたいことはない! 今日という日を祭日にしよう!」
「沐陽様、万歳!」
訳が分からないまま称えられた俺は、目を白黒とさせて汪蛇の顔を見上げる。汪蛇は顔を寄せてそっと囁いてきた。
「お前が自分を見失いそうになっても、民たちがこうして覚えていてくれる。お前は聖であり、沐陽でもあると、民たちが証明し続けてくれる。民がいる限り、沐陽としてのお前が消えることはない」
こちらを安心させる声色で、ゆっくりと汪蛇は告げる。そして、最後に俺と額を合わせると、愛しそうに呟いた。
「民の愛に、お前は生かされるということだ」
その言葉はゆっくりと俺の臓腑へと落ちていき、喜びを伴って体中に広がっていく。
嬉しさで頬を紅潮させながら顔を上げて民たちを見ると、ちょうどそこにいた梓晴と目が合った。
「応援してるよ、沐陽!」
「沐陽様、万歳、ばんざーい!」
民たちからの心から祝福が降り注ぐ。無尽蔵に与えられるその愛は、不安だった俺を納得させるには十分だった。聖としても人としても、民たちは受け入れてくれる。そんな確信で、胸が温かくなる。
涙をにじませながら俺は汪蛇へと寄り添い、宣言した。
「ありがとう皆。俺、精一杯頑張るよ」
それは、この国に新たな聖が誕生した瞬間だった。
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東の国には、深い愛情を持った聖獣と、一風変わった浄化をする聖がいる。
彼らは民をよく愛し、民もまた彼らをよく愛した。
良き王とその伴侶によって、その国には永い平穏の日々が訪れた。
……時折、彼らによく似た人物が都の片隅の酒肆へと現れるそうだが、他人のそら似だと誰もが見て見ぬ振りをするのだった。
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この物語はこれで完結です!
お付き合いいただきありがとうございました!




