04 猜疑心と恐怖
「けほ、けほっ……」
己の咳き込む音で目が覚め、重い瞼を持ち上げる。部屋の中は薄暗く、眠りこけているうちにすっかり夜になってしまったのだと悟った。
転生してからこの方、こんなに静かな夜を過ごしたことはない。
場所の近隣は、主に夕方から夜にかけて営業する店ばかりだった。いわゆる繁華街というやつだ。
そんな煌々と夜通し焚かれる灯りと騒がしい客の声がどこにもないせいで、俺は落ち着かない気分になっていた。
「皆、元気かな……」
あまりにも違う環境に置かれているせいか、つい昨日まで過ごしていたはずの騒がしい日々がやけに遠くに思える。自分を拾ってくれた女性の顔すら薄れかけているような気すらして、俺はぶんぶんと首を横に振った。
大丈夫。ちょっと疲れているだけだ。これから穢れや瘴気を浄化する仕事をしていかなければならないのだから、小さな子どものように懐かしがっている場合ではない。
そうやって自分を奮い立たせると、俺は寝台から降りて、サイドテーブルに置かれた水差しから水を飲もうとした。しかし、水が口の中に入った途端、強烈な違和感が喉を襲い、俺は思わず咳き込んで水を吐き出してしまった。
「うぇ、げほっ……! な、何だこの水……」
見た目はただの水だというのに、本能的に体が受け付けない味がするそれをサイドテーブルへと戻し、部屋から出ようとドアへと向かう。
ちゃんとした水で口の中を洗わなければ、いつものようにまた吐いてしまいそうだ。きっと部屋を出れば、誰かには会うことができるだろう。
できれば知らない人ではなく汪蛇か鈴角を頼ることができたらいいんだけど……。
僅かな希望を抱きながら、俺はドアへと手をかける。しかしその時、ドアの向こう側から聞こえてきた囁き声に、俺はぴたりと動きを止めた。
「聖様にも困ったものだ」
「三日も眠り続けて」
「あの方が持ち込まれた穢れで、汪蛇様も弱ってしまわれているというのに」
強い嘆きと呆れが含まれた女性たちの声が、やけに大きく耳の中に響く。同時に、ストレス性の頭痛がぐっと頭の奥を締め付け、俺はよろめくようにしてドアから距離を取った。
穢れを持ち込んだ? 三日も眠っていた? 汪蛇が弱っている?
思いも寄らない言葉が頭の中で反響し、何とか思考をまとめようとするも上手くいかない。
持ち込んだ穢れというのはきっと、俺が町の人たちに託された荷物のことだろう。本来なら焼却されるべきものを、俺のわがままでここに持ち込んでいるのだ。
でも、そのせいで汪蛇が弱ってしまうことになるだなんて聞いていない。そうだと知っていれば、荷物を諦めることも考えたのに。
不思議とここに来た時よりも、荷物への執着は薄れていた。自分のために託されたプレゼントだということは頭では分かっているが、今はどこか他人事のような気分で荷物を見ることができる。
俺はサイドテーブルの上で、水差しの隣に置いてある荷物へと歩み寄る。
こんなものどうでもいい。女巫の人たちに渡して、さっさと燃やしてしまおう。
荷物を持ち上げて運ぼうとしたその時、荷物の中から一本の短刀が床へと転がり落ちた。
「あっ」
鈍い音を立てて、床に落ちた短刀を拾い上げる。自分を保護してくれた女性が託してくれた大切なものだ。その表面には歪んだ文字で、とある名前が書かれていた。
「沐陽……?」
一瞬、それが何を意味しているのか分からず、俺は停止する。
数秒の沈黙の後、俺はそれが自分の名前だということを思い出した。
「え、な、なんで俺、自分の名前を忘れて、あれ?」
困惑で頭を抱えながら、短刀を取り落として数歩後ずさる。
そうだ。自分は沐陽で、これを託してくれたのは梓晴という恩人の女性だ。他の荷物も俺にとって大切なもので、絶対に燃やして捨てたりしたくない、はずだ。
記憶が混濁していることを自覚し、頭を抱えたまま俯く。自分が塗りつぶされていくかのような感覚に、必死で理性にしがみつくために思考を続けようとする。
そうだ、もしかしてこれは、穢れのせいで思考が混乱しているのでは……?
一瞬だけそんな疑惑を抱くも、すぐにそれは何かによってかき消されてしまった。代わりに残されたのは、胸の内に巣くう強い猜疑心だ。
「汪蛇様は、俺を騙してたのか……?」
一度言葉にしてみると、それが本当のことのように思えて、俺は足をもつれさせながら、衝動的に部屋から庭へと飛び出した。
とにかく逃げなければ。汪蛇の手の届く場所から、早く。
焦燥感に駆られて、裸足のまま俺は庭園の奥へと歩いていく。ぜえぜえと息が上がり、呼吸をするごとに息苦しさは増していく。
やがて体力が底をつき、俺はその場でしゃがみ込む。
汪蛇の顔が脳裏によぎり、ぐちゃぐちゃになる思考をなんとかまとめようと必死になる。
「ダメだ、あんな優しい人を疑ったりしちゃ」
理性で吐き出された言葉を、こみ上げてくる疑いと絶望が否定する。
「でも汪蛇様は、俺を閉じ込めたいと言っていたじゃないか。俺はもう、ここから逃げられないんだ」
まるで他人が自分の口を借りて喋っているかのように、すらすらと疑念が言葉になって呟かれる。
こみ上げてくる吐き気を堪えようと口元に手を当てると、ふわりと淡く光る玉たちが俺へと寄ってきた。
光る玉――精霊たちは次々に現れて、俺の周りを照らし始める。手を伸ばすと、精霊は俺の指先にそっと止まった。
「……慰めてくれるのか?」
俺の言葉を肯定するように精霊たちは細かく震える。そして俺の耳は、彼らが囁く水のせせらぎのような細やかな声を捉えた。
「かわいそう」
「かわいそうに」
「しぁんになったら、なまえをとられるわ」
「なまえをうばわれたら、わすれてしまうのに」
「ぜんぶぜんぶ、わすれてしまうのに」
嘆きのようにも嘲笑のようにも聞こえるその囁きに、俺は愕然と目を見開く。
聖になったら名前を奪われる? 名前を奪われたら記憶が消える?
つい先ほど感じたばかりの記憶の違和感の正体を知り、俺は口を押さえて震え出す。
「やっぱり最初から、汪蛇様は俺を騙してたってこと……?」
くすくす、くすくす、と精霊たちは俺の周りで笑い続ける。
その声に気が狂いそうになったその時――突然吹き荒れた風によって精霊たちは吹き飛ばされ、俺の前から消えていった。
代わりに現れたのは、少し離れた位置に立つ汪蛇だ。
「汪蛇様……」
「怪我はないか? 今のは瘴気に侵された精霊だ。お前を惑わせようとしたのだろう」
そう言いながら歩み寄ってくる汪蛇に、俺は喉の奥から悲鳴がこみ上げてくるのを抑えきれないまま、勢いよく立ち上がって後ずさった。
「ひっ、こ、来ないでっ……!」
明らかな恐怖を含んだ目を汪蛇に向けると、彼は目に見えて動揺した様子で足を止めた。そして、状況を把握できていないながらも、何とか事態を好転させようと、子どもを宥めるような声を出す。
「落ち着くんだ、俺の聖。お前は混乱しているだけだ」
「……精霊たちから聞きました。聖になったら、名前を奪われて今までのことを全部忘れてしまうって」
「っ……!」
ついさっき知った内容を告げると、汪蛇は言葉に詰まったようだった。視線をさまよわせ、言葉を選んで汪蛇は俺に語りかけてくる。
「聖になって名を捨てると下界のことを忘れるのは本当だ。だが――」
「どうしてそれを隠してたんですか。俺のことを逃がしたくなくて、騙してたんじゃないんですか」
「違う、俺の聖! 俺は――!」
この期に及んで俺のことを聖としか呼ばない汪蛇に苛立ち、俺はつい大声で叫んでしまった。
「俺は、あなたの聖なんかじゃない!」
「――じゃあ、わたしたちのものだね」
「……え?」
触れるほど近い位置で背後から囁かれ、俺の体は何かに絡め取られて後ろに傾いていく。
「っ……!」
汪蛇は咄嗟に俺の名前を呼んで手を伸ばそうとしたが、彼の口から俺の名前が出ることはなかった。
それを見て、ようやく俺は真実に思い至る。
ああ、そうだ。呼びかけるべき名前すら汪蛇に教えていなかったのは、俺の方だった。
後悔とともに涙が宙に舞ったのは、己がすっかり闇に飲まれてからだった。




