02 聖樹宮の歓迎
次の瞬間、完全に閉じかけた枝の籠が音を立ててこじ開けられ、明るい光が差し込んできた。だがそれすらも恐ろしくて、俺はますます体を丸める。
枝を踏んで足音が近づいてきて、俺のすぐ隣でかがみ込む。そして足音の主は、そっと俺の背中に手を当てると、やかに耳になじむ声で囁いてきた。
「大丈夫だ。ゆっくり息をしろ」
夜に降る雨のような静かな男の声色に、俺は過呼吸気味になっていた息がだんだん落ち着いてくるのを感じた。何分もかけて落ち着いていく俺の背中を、彼は献身的に撫で続けていた。
ようやく発作が治まり、体力を使い果たした俺は、うまく頭が回らない状態のまま顔を上げた。そこにいたのは、見たことがないほど麗しい男性だった。
身の丈は180cmを悠に超えている長身の男性だ。肌は血の気を感じないほど白く、目は切れ長で金色の瞳をしている。腰ほどまである艶やかな銀髪は少し乱れており、身なりを気にしていられないほど慌ててやってきたのだと暗に示していた。
「来るのが遅れてすまない。本来なら一番に俺が駆けつけるべきだったのだが」
申し訳なさそうに言いながら、男は目を伏せる。
彼が身につけている紫色の衣服には細かい刺繍が施され、特別な階級の人物なのだということは今の俺にも理解できる。当然そんな人物との接点など心当たりがない俺は恐る恐るその貴人に尋ねた。
「ええと、どなたですか……?」
「つれないな。つい先日、言葉を交わしたばかりではないか」
苦笑する貴人から漂ってくる香りに、俺ははたと彼の正体へと思い至る。
水辺の匂い、湿った土と木々の匂い。
「もしかして酒場の……」
「しーっ。女巫たちに聞こえてしまう」
唇に指を当てられ、言葉を遮られる。男は神々しい雰囲気をふっと崩して、悪戯好きな子どものような表情になった。
「お忍びでたまに通っているのだ。どうか内緒にしてくれ」
女巫というのは外にいる女性たちで、彼女たちにちょっとした秘密を隠したいのだと察し、俺は目を白黒とさせながらも、神妙な面持ちでこくりと頷く。
男はそれを見て少しだけ安心した顔になると、俺の体を易々と抱え上げて立ち上がった。前世でいうお姫様抱っこというやつだが、抵抗する気力は今の俺にはない。
男は枝でできた籠の残骸を踏みしめながらその外に出ると、戸惑った様子の女巫たちへと冷たく言い放った。
「お前たち、私の聖は疲れているようだ。ここは私に任せて下がりなさい。……彼の私物を燃やすのも止めるように」
「し、しかし……!」
「今のまま聖様が宮に上がれば、汪蛇様が穢れてしまいます……!」
食い下がる女巫たちを、汪蛇と呼ばれた男は殺意にも近い視線でにらみつける。
「二度も言わせるな。ここから立ち去れ」
女巫たちは一斉に青ざめると、こちらに頭を下げながら、波が引いていくようにどこかへと去っていった。
彼女たちが汪蛇に向けるその態度に、俺は彼こそがこの聖樹宮の主である聖獣様なのだと本能に近い部分で察した。
そんな尊い方に抱きかかえられているという恐れ多さで、体が自然と震えだしてしまう。俺の様子に気付いた汪蛇は、心配そうにこちらの顔をのぞき込んできた。
「どうかしたか? まだ気分が優れないようであれば、もう少し休憩してから移動するか?」
まるで伴侶にするかのような甘やかな声で、汪蛇は俺のことを気遣ってくる。俺は焦りで目を泳がせながら、なんとか言葉を続けようとした。
「あ、あの、そうではなくて」
「うん?」
「俺、聖なんて名前じゃないです。確かに登城の手紙は来ましたが人違いでは……」
消え入りそうな声で主張し、人違いなのに騒ぎを起こしてしまったのではないかという罪悪感で縮こまる。汪蛇はそんな俺を目を丸くして見つめていたかと思うと、苦々しい顔で呟いた。
「……そうか。下界では聖の伝承も廃れていたのか。道理でなかなか見つからないはずだ」
「え?」
「私はずっとお前のことを探していたということだよ、私の聖。移動するから、少し捕まっていなさい」
戸惑ったままの俺の疑問を置き去りに、汪蛇は建物の外に出ると、軽く地面を蹴って地面から飛び立った。
「う、わぁ!?」
汪蛇はそびえ立つ岩山までたった一歩で辿り着くと、その岩肌を何度も軽く蹴って、上へ上へと登っていく。あっという間に遠ざかっていく地上の遠さに、思わず彼の服にしがみつくと、彼は俺を安心させるように俺を抱く腕にぐっと力を入れ直した。
「すまないな、すぐに到着するから辛抱してくれ。下を見るのが恐ろしければ、俺のことだけを見ていればいい」
「えっと、は、はい……」
ぎこちなく返事をしながら、俺は言われた通りに彼のことを見上げる。風を受けて靡く白銀の髪は艶やかで、見る者全てを萎縮させそうな目元は心なしか上機嫌そうに細められている。
その印象を裏付けるように、ぐっと引き絞った仏頂面が似合うであろう口元も緩やかに弧を描いて、見ようによっては笑っているようにも見えた。
吹き付ける風の音以外には何も聞こえない時間の中、気まずくなってきた俺は、彼の顔を見上げながらぽつりと呟いた。
「あの……なんだか嬉しそうですね」
聞こえるか聞こえないかの声量で言ったはずだったが、汪蛇の耳にはしっかりと届いたらしくさらに機嫌が良さそうに口元を緩めた。
「そう見えるか?」
「は、はい……」
「お前は怯えているというのにすまないな。数百年もの間待ち続けた私の聖をやっと手に入れて、年甲斐もなく浮かれているのだ」
歌うように汪蛇が言うと、風が渦巻いてひんやりと湿った空気が肌を撫でる。その心地よさに眠りに落ちてしまいそうな気分になるのを俺は必死に堪えた。
それでもうつらうつらと眠りの淵に落ちそうになっている俺に気づいたのか、汪蛇はもう一度俺をしっかりと抱え直した。
「眠いのなら眠っていてもいいぞ」
「いえ……聞きたいこといっぱいあるし……何も分からなくて、怖いから……」
「……そうか。もうすぐ着くから、お前の寝所でゆっくり説明させてくれ」
「はい……」
誠意のこもった口調で告げられ、安堵の感情がじんわりと湧き出る。まだ出会ってから数日しか経っていないというのに、自分がこうして彼の側にいるということが、まるで欠けていたガラスの破片が元の位置に収まったかのように自然で当然なことのように思える。
彼に任せていれば大丈夫だと本能は告げていたが、今まさに聖樹宮へと連れ去られるような形になっているという事実を忘れたくないという心も同時に存在し、俺は心細さから汪蛇から目を逸らして俯く。
ちょうどその時、吹き付けていた向かい風は唐突に緩み、汪蛇はどこかの地面へと着地した。
「着いたぞ。顔を上げてみろ」
柔らかな汪蛇の声とともに、川のせせらぎと草木が揺れる音が鼓膜を揺らす。知らずのうちに瞑っていた瞼を持ち上げると、そこには極楽のような光景が広がっていた。
そこは広大な庭園だった。庭園の中央には小川が流れており、それを起点とするように大小様々な花が咲き乱れている。
ところどころに植えられた柳の木は、垂れ下がった枝が揺れるごとに微かに細やかな金属がぶつかるような音を立てており、その近くにはぼんやりと光る玉が楽しそうに飛び回っている。
ふと視線を近くに戻すと、光る玉のいくつかが俺たちのもとに近寄ってきていた。
「おかえりなさいませ」
「われらのあるじ」
「めでたや、めでたや」
葉が触れ合うようなかすかな声で光る玉たちは口々に囁く。汪蛇はくくっと喉の奥で笑った。
「私一人の時は怯えて近づくこともしないのに相当に浮かれているようだな」
彼の声を聞いた光る玉たちは、ようやく汪蛇の存在に気づいたのか、逃げるように去っていった。
「お前の到着を察して、この庭の精霊たちも喜んでいるのさ。……心配しなくても、お前は歓迎されているのだよ、私の聖」
愛おしそうに頬を寄せられ、自然と俺もそれに応える。汪蛇はますます上機嫌になると、庭園の奥にある御殿へと向かっていった。
待ち構えていた女巫によって扉が開かれ、御殿の中に招き入れられる。女巫の姿を見ただけで先程の恐怖を思い出し、俺は彼女から目を逸らして縮こまった。
それに気づいた汪蛇は、静かに控える彼女へと声を投げかける。
「鈴角、私の聖は女巫たちを怖がっている。寝所には近づかせないように」
「かしこまりました」
鈴角と呼ばれた女巫は静かに返答すると、衣擦れの音一つ立てずに部屋から退出していった。
「聖、私がいない時に困ったことがあれば、鈴角を呼ぶといい。この宮でも一番の古株だからお前を怖がらせるようなことはしないはずだ」
「はい、ありがとうございます……?」
現実味がないまま話が進み、俺は戸惑いながらも返事をする。汪蛇はそんな俺を部屋の窓に近い位置にある寝台へと腰掛けさせると、少し乱れた俺の着衣を甲斐甲斐しく整え始めた。
女巫たちに触られた時のような不快感を覚えないことを不思議に思いつつ、彼のような麗しい美丈夫に世話を焼かれているという状況に居心地の悪さを感じる。それを誤魔化すように、俺は汪蛇に問いかけた。
「あの……汪蛇様。あなたの言う聖とは何のことですか? 俺、こんな歓迎されるような特別な人間じゃないのに……」
すると汪蛇はこぼれ落ちそうなほど目を驚きで見開いた後、口元を片手で覆って目をそらした。だが隠しきれない喜びは全身から伝わってきて、どこからか温かい風がふわりと吹く。
何をそんなに喜んでいるのか分からず、俺は汪蛇の様子を怪訝な目で窺った。
「ええと……」
「いやすまない。お前に名を呼ばれたことが嬉しくてな。まずは質問に答えるべきだな、うん」
若干崩れた口調でそう言うと、汪蛇は気を取り直した様子で、俺に語り始めた。
「聖とは私のような聖獣と対になる精霊の一種でな、大地と木々の化身であり、浄化の力を奮うことができる存在なのだ」
「浄化の力って……もしかして瘴気を払う力ですか?」
「ああ。聖獣と聖はともにあることで、本来の力を発揮できるのだ。そして、聖は一人の聖獣に対して一人しか現れない。いわば唯一無二の伴侶といったところか」
「は、伴侶……!?」
愛おしそうにこちらを見つめる汪蛇の視線の意味を知り、俺は声を裏返して驚く。だが、彼に伴侶と呼ばれたことには不思議と不快感はなく、理性の部分で恐れ多いと思っている感情がなければ今すぐにでも彼と寄り添い合いたいという衝動に身を任せていただろう。
そんな本能と精神が食い違っている状態に混乱する俺の手を、汪蛇はそっと握り込んだ。
「瘴気とは下界の誰もが持つ穢れが凝り固まったものだ。聖は瘴気を浄化できるが、穢れや瘴気に触れると衰弱してしまう。お前が穢れた下界の人間と触れ合うたびに吐き気を覚えて嘔吐してしまっていたのも恐らくそのせいだ。その証拠に、穢れのない私に触れても吐き気を覚えないのではないか?」
汪蛇と触れあっている手を、俺はぼんやりと眺める。確かに彼に触れても、今まで感じてしまっていた吐き気は感じない。
だがそこまでの証拠を出されても、俺はまだ納得できないでいた。
「汪蛇様、俺、浄化の力なんてありません。梓晴さんに拾われるまでの記憶もなくて、精霊なんて言われてもピンと来ないし、それにその……前世に違う人間だった記憶はありますが、それだけなんです。吐き気だって、当時のトラウマがあるからだろうし……」
ぽつぽつと雨がまばらに降るかのように、俺は言葉を唇から紡ぐ。汪蛇はそんな俺の言うことにしっかりと耳を傾けた後、宥めるような口調で話し始めた。
「お前はその人物に泉で拾われたのだろう。聖は、泉のような清浄な場所で自然と発生するものだ。たとえ前世があったとしても、お前の魂が精霊として生まれ直した聖であることは変わらないさ」
「でも……」
「それに、お前が暮らしていたあの地区は、他の地区に比べて瘴気の侵食が少なかったのだ。だから私の聖がいるのではないかと探していたのだ。お前は、無意識のうちにあの一帯を浄化していたのだよ」
次々に証拠を出されるも、俺は納得できないまま俯くことしかできなかった。
恩義のある人たちに触れられた時の吐き気が、出会って間もない汪蛇に対しては全く感じないことに、じわじわと罪悪感を覚えていく。そんな八つ当たりじみた感情を制御できず、俺は涙をこらえて唇を引き絞った。
汪蛇はそんな俺の変化に戸惑いと焦りを滲ませながら、幼子をあやすように慌てて言葉を紡いだ。
「私の聖よ、そんな悲しい顔をしないでくれ。何か望みはあるか? 私にできることなら何でも叶えよう」
「家に帰りたい、です……聖なんてできる気がしません……」
ぽろりと一粒涙をこぼして、俺は絞り出すように言う。涙は汪蛇の手に落ちると、ゆっくりと彼の肌に滲んでいく。汪蛇は一気に苦いような苦しいような顔になった。
「すまない。それだけはできないんだ」
「え……」
「仮の契約はすでに為されている。あの時、私のもとで働くかと尋ねた問いを肯定しただろう」
一瞬、何のことを言われたのか分からず、俺は顔を上げてぽかんと口を開ける。そして、数秒経って心当たりのある会話を思い出して愕然とした。
「――ならば、私のもとで働くか?」
「ん……それもいいかも、しれない、なぁ……」
「ま、まさかあの時の会話で……?」
「女巫に怯えて助けを呼んだ時、私が駆けつけることができたのが仮契約が済んだ証拠だ。だまし討ちをしてしまってすまない。だが、我が国には一刻も早く聖が必要だったのだ」
罪悪感からか、少し早口になりながら汪蛇は説明する。俺は一気に足下が崩れ去るような絶望に飲まれ、寝台の上で項垂れた。
「俺、は……」
同時に今まで麻痺していた疲労感が一気に押し寄せ、汪蛇に寄りかかるような形で、意識が眠りの淵に落ちそうになる。
眠っている場合ではないのに、と頭では理解していたが、堪えきれない眠気によってだんだんと瞼が閉じていく。
汪蛇はそんな俺を受け止めると、寝台の上にそっと横たわらせた。
「約束しよう。聖として働いてもらうのは変えられないが、お前が望むものは可能な限り叶えられるように尽力する」
「汪蛇…さま……」
「だから今は安心してお眠り。私の愛しい聖」
目元を手で優しく覆われ、薄闇に満たされた視界に引きずられるように、俺の意識は落ちていった。




