同棲中の恋人とショッピングモールに行ったら、彼女が指輪の前で「買って買ってぇ!」と駄々をこね始めた
俺・早咲晋二には付き合って7年になる恋人がいる。
彼女――神楽坂千奈との出会いは高校の時だった。
当時俺は野球部の部員で、千奈はマネージャーをしていた。
千奈の容姿はとても可愛らしく、マネージャーとして部員の世話も積極的に行なっていて。だから野球部のエースやキャプテンももれなく千奈に恋心を抱いていたわけだが……驚くことに、彼女が選んだのは補欠の俺だった。
――毎日誰よりも早くから誰よりも遅くまで練習していたよね? 私だけは、そんなあなたの姿をずっと見てきたんだから。
高校3年間、結局一度もスタメンに選ばれなかったけれど、それでも千奈のその一言で、これまでの努力が報われたような気がした。
部活を引退すると同時に付き合い始めて、卒業後は同じ大学に通い、就職するのを機に同棲し始めた。
元々世話好きな千奈だ。俺の手伝う隙がないくらい、完璧に家事をこなしている。
家のことを千奈任せになってしまっているところは、ちょっと反省。
千奈への想いはあの時から変わらないし、彼女との生活も満足している。
だから25歳の千奈の誕生日に、俺はプロポーズしようと考えていた。
「ハッピーバースデー、千奈」
「ありがとう。今年の誕生日も晋二に祝って貰って、凄く嬉しいよ」
千奈は心底幸せそうな笑みを浮かべる。
その表情を見るに、嘘は言っていないんだと思う。もし俺を気遣って嬉しいフリをしていたならば、きっと俺はその嘘を見抜ける筈だ。
伊達に千奈のことを、毎日誰よりも近くで見ているわけじゃない。
「今年だけじゃなくて、来年も再来年も、これから先毎年お前の誕生日を祝ってやるよ。……ほら、これ。誕生日プレゼント」
俺は綺麗にラッピングされた小包を渡す。
「わあ! ありがとう! ……開けても良い?」
「勿論」
包装なんてただのお飾りなのに、それでも千奈は丁寧にラッピングを剥がしていく。
中に入っているのは、少し高価な口紅だった。
「……これを塗ってキスしろってアピール?」
「そういう意図で口紅を選んだわけじゃ……」
「んー? それじゃあ晋二は、私にキスして欲しくないの?」
「それは……して欲しいです」
「素直でよろしい!」
千奈は抱き着くように、俺にキスしてきた。まだ口紅を塗っていないというのに。
「本当にありがとうね! 私、晋二の彼女でいられて嬉しいよ!」
「俺も千奈の彼氏でいれて嬉しいよ。……だけど千奈、そろそろ彼氏彼女の関係も終わりにしたいというか。渡したいのは口紅だけじゃないというか」
俺はポケットの中に手を突っ込む。
実はポケットの中には、もう一つ千奈へのプレゼントが隠されている。
隠されているのは、手のひらサイズの小箱。その中には……給料3ヶ月分を費やした指輪が入っていた。
俺は指輪の入った小箱を、ギュッと握り締める。
彼女の誕生日だなんて、これ以上にないプロポーズの機会じゃないか。何をひよっている。今言わないで、いつ「結婚してくれ」って伝えるつもりなんだよ。
「神楽坂千奈さん!」
「はっ、はい!」
珍しく俺がフルネームで呼んだので、千奈も改まってその場で正座をする。
背筋をピンと伸ばし、何かを求めるように俺を見つめてくる。心なしか、頬も好調しているような。
……あぁ、多分これは、俺がプロポーズしようとしていることを察したな。
向こうにももうバレているのなら、何も恥ずかしがることなんてない。
俺は勇気を出して、思いの丈を千奈に伝えるのだった。
「…………お誕生日おめでとう」
言い訳はしない。最後の最後で、ヘタレました。
◇
翌日。出社した俺は、昨晩のことを同期の品川仁に話した。
話を聞いた仁はというと、「晋二らしいね」と苦笑していた。
「俺らしいって、どういう意味だよ?」
「覚悟を決めても、いざって時に尻込みするところが、晋二の性格を体現しているって言っているんだよ。晋二ほどヘタレって単語が似合う人間はいないよね?」
「戦争がお望みか? よし、表に出たまえ」
「図星突かれて逆ギレしないでよ? 実際高校の時だって、神楽坂さんの方から告白されたんだろ?」
「それは……そうなんだが……」
高校時代。千奈に告白しようと決めた俺は、彼女を校舎裏に呼び出した。
「好き」という2文字を言えば良いだけなのに、覚悟なんてとっくに出来ていた筈なのに……言うことが出来なかった。
結局千奈の方に「付き合って欲しい」というセリフを言わせてしまったのだ。
因みにどうして仁がその過去を知っているのかというと、彼が俺と同じ高校出身だからだ。ついでに言えば、同じ野球部所属で、エースだったりする。
「どうして神楽坂さんほどの美少女が晋二なんかに惚れたのか? 当時は七不思議の一つに数えられていたからね」
「人の思い出を怪談扱いするな。でも……みんながそう思う気持ちも、わからなくない」
正直俺だって、千奈と付き合えるとは思ってもいなかった。ましてや7年経った今でも関係が続いているなんて、本当に夢のようだ。
「お前の言う通り、俺はヘタレだ。同棲して以降、家事だって千奈に任せきりになっている。容姿が優れているわけでもないし、沢山稼いでいるわけでもない。わかるか? 俺が千奈に釣り合う要素なんて、一つもないんだよ」
千奈が魅力的な女性だからこそ、無意識のうちに自分を比べて卑下してしまう。
本当に自分は千奈に相応しいのか? 隣で寝息を立てる彼女を見ながら、毎晩自問自答する。
「本当に千奈に受け入れてもらえるのか、凄く不安なんだ……」
千奈が大好きで大切だからこそ、拒絶されるのを何よりも恐れていた。
「野球部の頃、晋二っていつも同じことを注意されていたよね? 覚えてる?」
「……髪が伸びてきたから切ってこい?」
「それもあるけれど! そっちじゃなくて、ほら、「努力しているんだから、もうちょっと自信を持ちなさい」って」
……あぁ。確かにそんなことを言われていたな。
俺の場合結果がついてこなかったので、毎回聞き流していたが。
「3年間一度もレギュラーに慣れていないんだ。自信もクソもないだろ?」
「だけど努力したお陰で、晋二は愛する女性を手に入れたんだ」
確かに。
千奈は努力している俺の姿に惚れたと言っていた。そう考えると、俺の3年間の野球人生は無駄じゃなかったのかもしれない。
「監督はもういないから、今度は僕から言うよ。晋二、君はもう少し自分に自信を持つべきだ」
「自信、か。……わかった。折角の親友の助言だし、従ってみることにする」
「良い心掛けだね。逆転サヨナラホームラン、期待しているよ」
仁さんや。それ、現状劣勢っていうことじゃありませんかね?
◇
週末。折角の休日をずーっと家の中だけで過ごすのは気が滅入ってしまうので、俺は千奈と一緒にショッピングモールに足を運んでいた。
別に何を買いに来たわけじゃない。ただ服や家具を見るだけでも楽しい。
近頃のショッピングモールとは、購入目的なんてなくても終日楽しむことが出来る。一種のテーマパークみたいなものだ。
「休日なだけあって、結構人がいるな。……はぐれないように、手でも繋ぐか?」
自信を持つ第一歩として、俺は千奈にそう言う。
いつもなら、恥ずかしくて自分から手を繋ごうだなんて提案しない。手を繋ぐ時は、千奈からだと決まっていた。
羞恥心を抑え込み、差し出した左手。それに対する千奈の返答は――
「嫌」
速攻拒絶。悩む素振りすらなかった。
……ほらな。自信なんて、持つだけ無駄じゃないか。そう思っている俺の腕に、千奈がしがみついてくる。
「手は繋がないけど、腕は組む」
一度ドン底に突き落としてから持ち上げるなんて……破壊力抜群だった。
春の新作が出ているということで、まずは千奈御用達のアパレルショップに行く。
好みの服を見つけては、片っ端から試着して。……千奈の目的は、可愛い洋服じゃない。可愛い洋服を着ている自分の姿を、俺に褒めてもらうことだ。
一体何度「似合ってる」や「可愛い」と言ったことだろう。
その度に恥ずかしい顔をする俺を見て、千奈は非常に満足気だった。
それから雑貨売り場に行ってペアのマグカップを買い、続いてソファーカバーがボロボロになっていてのを思い出しインテリアコーナーへ向かった。
インテリアコーナーへ向かう道中、俺と千奈はジュエリーショップの前を通る。すると突然、千奈が足を止めた。
腕輪を組んでいる為、千奈が歩みを止めれば必然的に俺も止まることになる。
「……千奈?」
「……欲しい」
指輪を凝視しながら、千奈は呟く。
彼女の見つめる指輪には、「大切な人に、たった一つの贈り物を」というポップが添えられていた。つまりは、エンゲージリングである。
「ねぇ、晋二。これ、買って?」
「えーと、それは……」
答えを言い淀んだ理由は、いくつかある。
まずは現在指輪を買えるだけの現金を持ち合わせていないということ。しかし財布にはクレジットカードが入っている為、それは問題になり得ない。
二つ目は既に俺が婚約指輪を買っているということ。たった一つの贈り物なのだから、二つも買う必要はない。
そして最後に。千奈にプロポーズする心の準備が、まだ出来ていないということ。
プロポーズしようとは決めた。でも、それは今じゃない。そんな言い訳を、俺は今なお続けている。
以上の理由から、俺は目の前で展示されている指輪を買うことが出来ない。
しかしどの理由も千奈に伝えるわけにはいかず、かといって上手い言い訳も思いついていない。
「プロポーズする気がないから」なんていうのは、もっての外だ。
試行錯誤を繰り返した俺は、「また今度な」と言って1秒でも早くこの場を離れようとする。
しかしどんなに腕を引っ張っても、千奈は動かなかった。
「やだ」
そう言って、一歩たりとも足を進めようとしない。そして終いには、
「指輪欲しい〜! 買って買ってぇ〜!」
小さな子供のように、駄々をこね始めた。
その声量は、決して小さくなんかない。というか、大きいやうるさいに部類されるレベルで。
道ゆく人々が、俺たちに視線を注いでいた。子供なんかは、大爆笑している。
……どうしよう。めちゃくちゃ恥ずかしい。
俺ですら顔から火が出るほどの羞恥を覚えているのだ。千奈はもう死にたいレベルで恥ずかしいことだろう。
しかし彼女はそんな様子を微塵も感じさせず、駄々をこね続けた。
どんなにお願いされても、買えないものは買えない。俺は半ば引きずるような形で、千奈を指輪の前から遠ざけるのだった。
◇
家に帰った俺は、コーヒーを飲みながら考えていた。
どうして千奈は指輪の前で、あんな行動に出たのか? 7年間交際し続けていた彼氏の立場から、断言しよう。あの行動は、千奈らしくない。
それでも彼女があんな行動を取ったということは、なんらかの理由があるということだ。その理由を、俺には突き止める義務がある。
指輪を買って欲しいと駄々をこねる。その行動によって俺に伝えられることは何か?
ただの指輪じゃない。婚約指輪だということも、考慮しなければならないな。
婚約指輪を是が非でも欲しがる理由……そんなの、俺と結婚したいから以外に考えられない。
しかしそれだけでは不十分だ。俺と結婚したいだけなら、別に公衆の面前で「買って買ってぇ〜」だなんて恥ずかしいセリフを吐く必要もない。
夜景の綺麗なレストランで「結婚して下さい」と言うだけでもこと足りる。
千奈とてそんなことくらいわかっていただろう。それでも敢えて駄々をこねたということは……婚約指輪という点にも、注目すべきなのだ。
婚約指輪と聞いて、真っ先に思い浮かぶこと。それは千奈の誕生日の一件だった。
あの日俺は、千奈にプロポーズしようとしていた。だからポケットの中には、用意していた婚約指輪が入っていた。
千奈も、俺がプロポーズしようとしていることに気が付いていて。もしかしたらだけど、婚約指輪にも気付いていたのかもしれない。確証はないけれど、そう思う。
だとすると……千奈は俺にプロポーズさせる為に、あんな行動を取ったのか?
婚約指輪というキーアイテムを想起させると同時に、「私はあなたと結婚したいです」という意思表示もする。その両方をさり気なく伝えることで、俺にプロポーズしやすい状況を作り上げたのではないだろうか?
実際に今の俺は、プロポーズすることに対して一切消極的ではない。彼女が俺の求婚を受けてくれると、わかっているのだから。
「なぁ、千奈」
俺は千奈に話しかける。
「ん、何?」
「昼間のことなんだが……やっぱりあの指輪をお前に買ってあげることは出来ない。申し訳ないけど」
「ふーん……」
史上最高に冷たい「ふーん」だったが、俺はもうめげない。自分に自信を持て。恩師と親友からのありがたいアドバイスだ。
俺はポケットから指輪を取り出して――千奈の左手薬指にはめた。
「あの指輪は買えないけど……その代わり、これじゃダメか?」
昼間の指輪とどっちが高価かなんて、わからない。だけど大切なのは、値段より気持ちだ。
俺が千奈を愛していて、一生一緒にいたいという気持ちは、この指輪にこそ込められている。
千奈ははめられた指輪をたっぷり眺めてから、俺に微笑んでみせた。
「よく出来ました」
……やっぱり。俺が指輪を用意していたって知っていたんじゃねーか。
◇
誕生日の翌日、晋二が婚約指輪を用意していることを、千奈は電話で仁から聞いていた。
「晋二からの婚約指輪……めっちゃ欲しい」
『だよね? だけど晋二のやつ、「拒絶されたらどうしよう」って悩んじゃってて。自分に自信を持てないところは、彼の悪癖だよね』
「そうなんだよね。晋二には沢山良いところがあるっていうのに」
だからこそ、千奈は晋二と付き合っているわけで。
でも婚約指輪を用意しているだなんて聞かされれば、もう今まで通り「彼女」でい続けるなんて我慢出来なかった。
晋二と結婚したい。以前から抱いていたその願望は、ストッパーが外れたように肥大していく。
どうすれば、晋二に自信を持たせられるのか? どうすれば、晋二から婚約指輪を貰えるのか?
千奈は脳をフル回転させる。そして、一つの結論に辿り着いた。
「……指輪売り場の前で、「買って買ってぇ!」って駄々をこねてみようかな」
『……人前でそんなことするの、恥ずかしくない?』
「晋二に「好き」って伝えるだけだよ。何も恥ずかしいことなんてない」
そう、恥ずかしいことなんてない。
仮に羞恥を感じたとしても、その程度の恥で婚約出来るなら安いものだ。
千奈の思惑は見事に成功し、彼女は晴れて晋二の婚約者になった。なんだかんだ、晋二は千奈に甘いのだ。
自分にだけ優しいところも、大好きなところの一つである。
今度はベビーベッドの前で「買って買ってぇ〜」をしようかな。千奈は密かにそんなことを企むのだった。