1.爵位授与
九之池さんの外伝、はじまりはじまりー
九之池将浩は、ベルトゥル公、
両脇に居並ぶ貴族の視線を一身に浴びていた。
彼は、彼等のまえで、一芸を披露しているのだろうか。
それにしては、挙動が定かでなく、視線が泳いでいた。
発汗している量は、大理石の床に水溜まりを
作ってもいいくらいであった。
ベルトゥル公を前に九之池は、緊張のあまり、
カタカタと歯が震え、コトコトと足が震えて床を叩き、
パチパチと若干は引き締まった腹の肉が震えていた。
今の九之池には、ベルトゥル公や宰相の言葉が
何も耳に入らなかった。
遡ること、30日ほど前、稲生たちが去った後、
だらだらと過ごしていた九之池がシリア卿の
執務室に呼ばれた。
嫌々であったが、九之池が執務室を訪れると、
不機嫌そうなシリア卿が不機嫌そうな声で伝えた。
「決まった。貴様への爵位授与が正式に決まった。
一代であるが、男爵だそうだ。式典が催される。
追って、伝える。
爵位を得る前に屋敷を準備して、ここから出ろ。
いいな」
言い終えると、右手を振り、出て行くように促した。
突然のことに九之池は、その場で頭が
くらくらしてしまった。
目に入るシリア卿は、右手を振っている。
ふらついているせいでよく理解できぬまま、
その場で次の言葉を待った。
シリア卿を見ると、いまだに右手を振っている。
九之池は、その行為を見て、久々に手首の
ぶらぶら運動を思い出していた。
「おいっ、豚、聞こえないのか、此処から出て行け!」
両手をぶらぶらさせながら、シリア卿の言葉を聞き、
執務室を退室した。
歩きながら、九之池は頭の中で先ほどの爵位の話を
反芻していた。
爵位、爵位、爵位。
なんども頭の中でその言葉が浮かんでは、消えていた。
通路を歩いている内に九之池の顔は、
にやにやと頬をほころばせ始めていた。
社会人になって、20年、派遣業務に
勤しんでいた九之池には、昇格や昇進の経験などなく、
肩書など持ったこともなかった。
あるのは、時給が少々上がる程度であった。
ふん、ところ変われば、評価も変わる、そう思った。
そして、九之池は、爵位を得ることで、
会社の役職に就いたかのような気分に浸り始めいていた。
「九之池さん、どうしました?
お顔がにやけていますよ?」
ルージェナは、九之池に会うなり、開口一番に言った。
「ええっ、そうそうでもないけど。
そうそう、さっき、シリア卿から、話があってね。
聞きたい?」
九之池は、更ににやにやしながら、ルージェナに言った。
「はあ、別段、シリア卿のお話に興味はありませんけど」
ルージェナが珍しく、冷たく九之池をあしらった。
九之池の表情はみるみるうちに暗くなり、
物言わぬ人形のようになってしまった。
「冗談ですけど、それで、シリア卿の話とは?」
「そう、それがね、まあ、男爵の地位を
貰えるみたいな感じらしいよ。
爵位といっても所詮、男爵だし。
今までと差して変わらないかな。
ルージェナもいままで通りでいいよ」
心底、嬉しそうに少々、イラっとすることを
話す九之池であった。
そんな幸せを噛みしめている九之池へ
ルージェナが真剣な眼差しで見つめ、伝えた。
「九之池さん、爵位を舐めていませんか?
立場に伴う責任と振る舞い、
ちゃんとご理解されていますか?
貴族に列せられるということは、
民草の範となる立場なのですよ。
地位に伴う責任を受け入れる覚悟は
ありますか?
ただ、貴族になれればいいでは、
早晩、排除されますよ」
無意識に避けていたことを
ズバリと言われ、九之池は現実に引き戻された。
地位に伴う責任、九之池にしてみれば、
未知の恐怖と面倒事以外に何物のでもなかった。
「どっどうすれば?ルージェナは、元貴族でしょ?
どうすればいいのか知っているじゃん。教えてよ」
先ほどの夢心地な気分から、
一転、ルージェナに詰め寄り、すがった。
「くっ九之池さん、ちかいちかっ。
一先ず、お屋敷の確保が最優先です。
それと香水等のおしゃれです」
「むあぁーそうなのかな。
そう言えば、臭い消しが切れていたかな。
稲生さんは、なんかいいに臭いしてたよね」
ここ数日のだらけた生活から、
にじみ出る体臭や加齢臭で酷い臭いであった。
当然のことながら、毎日、お風呂に
入れる環境でもなく、本来、香水等の香りで
臭いを誤魔化すのだが、そういったものに
知見のない九之池は、適当な安物の臭い消しを
使っていた。
「そうです、そうです。奥様を迎え入れるにあたって、
そのようなズボラ対応では、駄目ですよ」
ルージェナがダメ出しに追い打ちをかけた。
「はっ?」
聞きなれない言葉に反応した九之池。
「えっ?」
反射的に反応してしまったルージェナ。
「いやいやいや、どういうこと?
嫁って?なにそれ、おいしの?」
混乱する九之池であった。
「いえ、爵位を得れば、そういった話もでてくるかと。
チャンスを捕えて逃さないように日々から、
身だしなみに気を付けてください」
「イラナイ。それ、イラナイカラ。
そんな話あったら、ルージェナ、断っておいて。
取り敢えず、物件でも見に行こう」
そう言うと、その手の話から逃れる様に
足早に部屋を後にした。
「はぁ、まったく」
ルージェナは、ため息をつくと、九之池の後を追った。
どうなることやら