表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
<R15>15歳未満の方は移動してください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

チートな結界で味方を支援していたが、役立たずは必要ない、とAランクパーティを追放された最強の結界師。強力なバフとデバフが無くなり、落ちぶれているみたいだが、今更戻って来いと言われても、もう遅い

作者: 昨夜名月

「ジェド、悪いが、お前には今日限りパーティを出て行ってもらうことにした」

 ロックが言った。赤髪をツンツンと立てた二十歳前後の剣士だ。


 言われた方は金髪碧眼の滅多にお目にかかれないほどのハンサム。だが、気弱そうだ。ロックの言葉に青ざめ、ぶるぶると震えている。


「……でも、そんな、いきなり」

 ジェドはやっとのことで口を開いた。まだ、事態が飲み込めていない。なんだって、こんなことになったのかわからないのだ。


「いきなりじゃねえよ。エラとマリンと3人で話し合った結果だ」


 酒場の片隅。周囲の喧騒が4人の座るテーブル席を包んでいる。

 ジェドは恐る恐る右隣に座る女性を見た。


「ていうかさ、あんた、超役立たずじゃん。戦闘中、ぼ~っと立ってるだけだし。昔はもうちょっと働いてた気もするけど」

 魔法使いのエラが、大皿のソーセージをフォークでつつきながら言った。

 クルクルと巻いた新緑色の髪の女性。とんがり帽子とマントを脱いでいると、その際どい服装から娼婦と間違われかねない。


「いや、でも、それは、僕は、結界士だから。戦闘中は結界の維持に集中してて……」


「でた、お決まりの言い訳」

 エラは、聞えよがしのため息をついた。

「あたし、結構、あんたのことかばったんだけどなあ。顔、好みだしさ」

 誘うように細めた目でジェドを見る。

「明日から、あたしの愛人でもやる?」


 ジェドはエラに何度か誘われた時のことを思いだし、胃が締め付けらるような心地になった。彼は一途だったし、仲間内でもめごとが起こるのは避けたかった。エラから誘惑されるたびに、困っていたのだ。


 ジェドは勇気を振り絞って、恋人のマリンを見た。ちょうど一週間前に、実家の伯爵家の後継を正式に弟に譲ったことを話して以来、妙によそよそしかったのだ。


「マリン、君も僕を追い出すことに賛成なのか?」

 震える声で言った。


 白い神官着に髪までもおおった楚々(そそ)とした美女は、慈愛に満ちた笑顔をジェドに向けると言った。

「当たり前です。伯爵家を継がないあなたに、なぜ、このわたくしが媚び続けなくてはならないのです。分をわきまえなさい」


「おい、そんなにいじめるなよ。ここまでこれたのはジェドのおかげだろ。あっ、ちなみにな、この女、俺とお前の二股かけてたんだぜ」

 ロックが言って、マリンの肩を抱いた。


 マリンがため息をついた。

「二股とは下衆な言い方を。わたくしは本気でジェドの妻になるつもりでした。ジェド伯爵様のですけど」

 それから、鼻を鳴らした。

「あら、あなた、泣いているんですか? 最後まで女々しい人」


 うつむき、鼻をすするジェド。

 その後ろに男が立った。二十台半ばの少しアウトローのにおいのする男だ。茶色い髪をうしろに撫でつけている。

 ジェドが男に気づいたときには、彼は椅子から投げ出されていた。


「もう、ここは俺の席。役立たずはさっさと消えな」

 男が言って、手をしっしと払う。


「サックス。これからよろしく頼むよ」


 ロックがさっそく新メンバーを紹介する。

 いわく、レアなジョブである忍者であること。

 ジェドの張る結界の効果、バフとデバフのスキルも持っていること。

 それだけではなく、戦闘面でもあらゆるレンジでの攻撃手段を持っていること。

『罠解除』や『宝物探知』などスカウトのスキルも持っている、などなど。


 もはや誰も床に転がり、打ちひしがれるジェドに見向きする者はいなかった。




 ジェド・クリストフは幼少時から冒険者に憧れていた。その憧れは成長するごとに強くなり、確固たるものへと変わっていった。伯爵家の長子で、跡を継がなくてはならない立場であるにも関わらず。


 父ジェフ・クリストフが、ジェドが冒険者になることを許したのは、息子の夢を叶えてやりたいという親心とともに、お人好しで人を信じやすい部分を矯正きょうせいしたかったからでもあった。


 3年間という期限付きで、ジェドは冒険者になることを許された。14歳のときである。


 クリストフ伯爵領から離れ、ハイク市へとやってきたジェドは、さっそく冒険者ギルドの扉をくぐった。

 大きな期待に胸を弾ませ、それと同程度のおびえを内側に押し込めながら。


「よう、あんたも冒険者デビューかい? 俺もそうなんだ」

 受付嬢と話をしていた少年がそう声をかけてきた。手をさし出す。

「ロック。よろしくな」


 ロックとは、一緒に登録手続きをする間に仲良くなった。

 奥の能力鑑定室で先に鑑定を受けたロックは、ジェドが鑑定を受ける間も待っていた。

 浮かない顔で部屋から出たジェドに、どうだった、と声をかける。


「結界士の適正があるって」

「結界士? 聞いたことねえな」

「珍しいジョブみたいだけど」


 ジェドは、能力鑑定士の資格を持つギルド長の興奮で赤らんだ顔を、思いだした。 

「結界士だ。こんな適性を持った奴は俺も初めてだ」

 絶対に結界士になるべきだ、と力説。神官や魔法使いになる道もあるが、それらよりもはるかに大成するだろう、と言われた。


 いずれにしてもジェドの本意ではなかった。彼は剣士になりたかった。そのための訓練もつんできたというのに。


「まあ、いいじゃねえか。俺が剣士。お前が、その、け、なんとか。2人で成り上がって行こうぜ。目指せ、Sランクだ」


 そのままロックとパーティを組んだ。

 5年間。その間に、2つ年上の魔法使いのエラと、2つ下の神官のマリンが加わった。

 当初は結界を張れる時間も範囲も、その効果も低かったジェド。結界士となる過程で身につけた治癒魔法や攻撃魔法で、ロックをサポートした。

 エラとマリンが加わってからは、魔法は2人に任せ、結界を張ることに力を尽くすようになった。それが、パーティ『輝きの4』としての最善だと考えたのだ。

『輝きの4』は成功への坂道を駆け上がっていった。

 憧れのSランクまで、もう少しで手が届く、そんなところまで……。



 

 受付嬢ミミーが、はあ~? と首を傾げた。

 あまりにも首を傾け過ぎたせいで、頭に乗せていた小さなつば無し帽子が、床に落ちた。


「意味がわかりません。どうしてジェドさんを首にするんですか?」

「Sランクに上がるためなんだと思うよ。ロックの夢だからね、Sランクは」

 ジェドは言った。


 あの日はさすがにショックで何も考えられなかったが、3日も経てば物も考えられるようになる。そうすると、ロックの気持ちも理解できた。


 確かに、敵の弱体化と味方の強化という地味な結界士よりも、索敵から戦闘までができる忍者の方が有用だろう。


「結界士と忍者じゃ、全然、能力が違うじゃないですか。結界内で問答無用でデフとデバフをかける結界士がどれだけものすごいものか、わからないんですか? あの人たちは」

「でも、結局は味方の強化と敵の弱体化だから。立ってるだけって言われたら、それまでだよ」

「Aランクの結界士がどれだけ貴重か。忍者なんて大してレアじゃないのに。しかも、彼、Bランクですよ」

 ミミーが机を叩いて唾を飛ばす。


「実はSランクになったんだ。このあいだ実家に戻るついでに試験を受けてきて」

 ジェドは照れくさく感じながらも言った。

 ジョブランクがSに上がったことが、父を説得する決め手になったのだ。


「……嘘」

 ミミーが口元を押さえて、目を見開く。そのまま呆然自失の態。


「思ったより簡単だったんだ。ダメでもともとってくらいのつもりだったんだけど」


 結界師のSランクへの昇格条件は、結界範囲300メートル、結界内の敵の能力値50%まで減少、味方の能力値150%まで上昇。結界作成の所要時間2分以内、である。要するに結界内の敵はその能力が半分に、味方は1・5倍になる。


 だが、ジェドの結界はそれよりもさらに強力なものである。

 デバフで通常時の20%まで敵の能力値を下げ、バフでは300%まで味方の能力値を上げる。しかも、結界の最大範囲は1キロ。


 この世界にはステータスウィンドウというような便利な機能はないので、ジェド自身も自分の能力を正確に把握しきれていなかった。

 ただ、Sランク昇格試験で結界を強化する前に、合格を言い渡されたので、Sランクの中で上の方なのかもしれないな、と漠然と感じただけである。


 この時、試験官を務めた王都の上級役人から軍への仕官を激しく勧められたが、伯爵家の名を出してそれを断った。

 

 固まっていたミミーが正気付き、ギルドの奥へと走っていった。

 その間、取り残されたジェドはギルド内の女性たちからチラチラと見られていた。


 マリンに二股をかけられていた上に、こっぴどく振られたことが噂になっているんだろうな、とジェドはため息をついた。


 そんなところに、あいさつ程度しか話したこともない相手から話しかけられたので、思わず身構えた。

 Bランク冒険者パーティ『アイリス』の女剣士イザベラ。うしろに仲間の2人の女たち。


「あの、ジェド様。今夜、暇ですか?」

 顔を赤らめて言う。


「別に予定はないけど」

 きっと根掘り葉掘り事情を聞きかれるに違いない、とジェドは思ったので、断る理由を考える。


「それなら、一緒に食事でもいかがですか。その、気分転換になると思うんですよ」

 イザベラの仲間、魔法使いウィナスが勢い込んで言った。


「ごめん、今はそんな気分になれなくて」

 女たちの話の種にされるのは避けたかった。それでなくてもマリンの件で女性不審になりかかっているというのに。

「誘ってくれて、ありがとう」

 

 三人娘に笑いかけると、彼女らはコクコクと頷いた。

 そこへ、ミミーが戻ってきて無言でジェドを奥へと引っ張っていく。


「えっ、なに? ミミーさん、どうしたの? なんなんですか?」


 ギルドの奥の通路へと消えていく美青年をうっとりと眺めながら、三人娘は、はあ、と一斉に息を吐いた。


「落ち込んでるジェド様も素敵だった」

 ウィナスが言った。

「はかなげな笑顔が、もう……」


「やっと、あの女と別れてくれたんだもの。今はそれだけでよしとしないとね」

 言ってから、「ジェド様と朝から話せた、イエーイ」とはしゃぐイザベラ。


「いくら見ても、あの自意識過剰のツンツン頭に勘違いされなくて済むし」

 格闘神官のリオが、しみじみ、と。

「俺のこと見てたろ。明日の夜なら空いてるぜ、って誰もオメーのことなんか見てねえよ」


「本当それ。あの女もどうして、そっちを選ぶかなあ。理解に苦しむわ。いや嬉しいんだけど」


 イザベラの言葉に仲間たちどころか、周囲の女性たちまで頷いた。


 ジェド・クリストフ。市井しせいには貴重な繊細な顔立ちと、挙動の端々に出る品の良さ。穏やかで誰にでも優しい性格から、ギルド内では、ジェド様と呼ばれ尊ばれている。


 だが、当人は、単に貴族の出であることを揶揄やゆされているのだろう、と慕われていることに気づいていない。


 そのジェドは、冒険者ギルド・ハイク支店の奥の一室で、ギルド長ラオと向き合っていた。


「お前、Sランクになったそうじゃねえか」

 ラオが言った。四十絡みの大柄な男である。


「はい、つい先日」

「それなのに冒険者をやると。Sランク、それも結界士となれば、引きてあまただろうに」

「冒険者が好きですから」

「にも関わらず、首になったと」


 ジェドの顔に暗い影がさすのを見て、ラオは薄い頭髪をかき回した。

「まったく、おめでたい連中だ。玉を捨てて石を拾いやがった。まあ、うちとしちゃあ、願ったりかなったりだけどな」

 言ってからラオはずいっテーブルに身を乗り出した。

「お前、うちの専属にならねえか?」


 ジェドには意味がわからなかった。

 ハイク支店の専属冒険者ということことだろうか?


 ノックの音。連れてきました、とミミーの声がした。

 ラオが入室をうながすと、ミミーが十代台半ばとおぼしき少年少女を連れて入ってきた。


 ジェドは彼らに見覚えがある。

2週間ほど前から出入りしている新人の冒険者たちだ。

 黒髪の剣士の少年は緊張に強張った顔で、残りの魔法使いと神官の少女は、夢見るような眼差しでジェドを見る。


「こいつら、見ての通り駆け出しなんだが、どうも危なっかしくてなあ。講座もちょくちょく受けて努力してるんだが、それが花開く前に、全滅しそうな気がするんだわ。お前、こいつらについてやってくれない? 報酬は1日につき、こんだけ」

 ラオが手の平を開いた。

 

 指一本が1万ジェリ。1日5万ジェリということだ。だが、それはさすがに破格すぎる。5万ジェリあれば昨日引っ越したばかりの安宿なら、1ヵ月は泊れる。


 きっと5千ジェリだな、とジェドは思った。

 それでも10日で5万ジェリ。『輝きの4』時代の貯金も十分すぎるほどあるし、しばらくは、のんびりと後輩の育成を助けるのも良いかもしれない。

 

 ジェドは3人の駆け出しの顔をひとつひとつ見ていった。自分の駆け出し時代と重なった。

 あの頃は、本当に大変だった。




 ダルフの振り下ろした剣がゴブリンを唐竹割からたけわりにした。飛び散る青い体液と二つに割れて倒れるゴブリン。


 ダルフは自分の剣が、『物語りに出てくる鉄をやすやすと切り裂く魔法の剣』になったかのように感じた。

 

 レニアの放った『火球』の魔法が、とろとろと弓を構えていたゴブリンに直撃した。次の瞬間、その周囲一帯に炎が燃え広がった。

 群れていたゴブリンたちを飲み込み、火だるまにする。


「嘘。ただの『火球』よ」

 呆然と自分の魔法が起こした結果を眺めるレニア。


 そこへ残ったゴブリンたちが殺到した。だが、その動きはひどく緩慢かんまんだ。形相は必死なのに、体がついていけていない。


 レニアの前に白い影が立つ。

 ラヴィニアは構えていたメイスで、ゴブリンを払った。

 牽制けんせいのつもりで振ったメイスは、ゴブリンの頭にヒット。体に見合わぬ大きな頭が破裂した。


 いつもはメイスに体を持っていかれることが多いのだが、姿勢がまったく乱れない。すぐに次の一撃へと移れた。


 ラヴィニアのメイスがゴブリンの上体を突く。

 ゴブリンは青色の体液をまき散らしながら吹っ飛んでいった。


 最後の1体がラヴィニアをボロボロのナイフで斬りつける。

 油断したラヴィニアはゴブリンに懐に入られたことに気づかず、無防備な下半身を斬られた。


 だが神官服のスカートは、まるで鋼鉄の鎧かのように、ゴブリンのナイフを弾いた。


 駆けつけたダルフがゴブリンの背中を斬る。ゴブリンが見事に割れた。


「これ、俺がやったんだよな」

 ダルフがゴブリンの縦に割れた死骸を見て言った。


「どうしよう。『火球』が『大火球』なみなんだけど」

 レニアは杖を両手で持ってプルプルと震えている。


「結界の効果よ。私たちの力じゃないわ」

 ラヴィニアは、周囲一帯を包む黄色い半透明の膜を見上げながら言った。


 半径100メートルほどのドーム状。ジェドの張った結界である。


 拍手の音。

 3人が振り返ると、長いマントに革の上下を着た青年が笑顔で手を叩いていた。黒一色の装備が、おとぎ話の王子のような甘い美形に、よく似合っている。


 少女2人の表情が戦闘モードから、憧れモードへと変わった。


「おつかれさま」

 ジェドは3人の新人冒険者をねぎらった。


 ゴブリン10体。最下級のEランクパーティが相手にするには無謀な数。だが、圧勝。

 もちろん、ジェドの張った結界のデフとデバフの効果である。


 新人冒険者には、なによりも戦闘に慣れさせること。そう思い、あえて無謀なゴブリン退治の依頼を受けたのである。


 強化した状態で自分の理想の立ち回りを体感する。

 あとはそれを目指し、鍛錬を積んでいけば効率がいい。少しずつ結界の強化を緩めていけば、実力とイメージのギャップを埋めていけるだろう。


「結界士の結界って、こんなにもすごいんですね」  

 ラヴィニアが言った。


 その声音に幼なじみのダルフはギョッとなった。

 孤児院一の乱暴者ラヴィが、媚び媚びの声を出している。

 神官服があまりにも似合わなくて笑ったら、ボコボコに殴られたことは記憶に新しい。


「結界しか張れないけどね」

 ジェドは照れたように笑った。


 そのはにかみ笑いに、男のダルフでさえ、キュンとなった。


「そんな、こんな結界が張れたら無敵じゃないですか。どうして『輝きの4』はジェドさんを追い出したりしたんですか?」

 言ったダルフは、女2人に両脇からつねられた。

 余計なことを聞くな、と睨まれる。


「AランクからSランクになるためには、余計なものはそぎ落とさないとね。ロックは上昇志向が強いから」


 言いながらもジェドは、胸に言いようのない寂しさを感じた。

 親友のロックに切り捨てられたことが、ひどく痛い。

 恋人のマリンのことはどこかで覚悟していた部分があった。だが、ロックのことは本当に唐突だったのだ。


 哀愁あいしゅうを漂わせるジェド。

 草原を渡る風が、柔らかな癖のある金髪を揺らす。

 そのあまりにも絵になる光景に、新人冒険者3人は見とれた。


「さて、じゃあ、次は森に入ろう。このまま巣穴を潰すよ」

 ジェドの言葉に3人が、目を見開いた。


「えっ、でも、巣穴潰しは別の依頼じゃ……」とラヴィニア。

「それにCランク依頼じゃ……」とレニア。


「大丈夫。こういう場合は事後報告でも問題ないから。さあ、行くよ。大丈夫、あれくらいの森なら、結界で囲めるから」

 ジェドは歩き出した。まだ呆然と立っている新人冒険者たちを振り返る。

「ほら、急げ」




 苔むした石壁の通路。

 小さな光の球体が天井近くを飛び回り、通路を照らしている。

 その明かりの下で、戦いが繰り広げられていた。


 人間4人。

 対して敵は巨大なサソリ。黒光りする表皮のそれは、体長が3メートルはある。そんな巨大サソリが6体。通路の奥を埋めている。

 デス・スコーピオン。Bランクの魔物である。


 デス・スコーピオンの尾が、大きく剣を振り回して敵を牽制けんせいしていた剣士の体を突く。


 ロックはそれを寸前でかわした。

 一瞬、動くのが遅れていたら、無防備な顔に鋭い針の一撃を受けていたことだろう。


 ロックはすぐに反撃に移ろうとするが、意志に反して、体が動かない。


 どうなってんだよ、一体。


 体がまるで動かない。鈍すぎる。力も全然入らない。技のキレもひどい。

 先制で放った『一閃薙いっせんなぎ』。格下のデス・スコーピオンなど、この一撃で殲滅せんめつできるはずだった。


 だが、大きく振るった横薙ぎとともに放射された斬撃の光は、薄っすらと弱々しく、先頭のデス・スコーピオンすら倒せなかった。

 いや、倒せるどころか、まるでダメージを負っていないように見える。


「なに遊んでんの。さっさとやっちゃいなさいよ。今日は30階層を目指すんでしょ」

 魔法使いエラが後ろから叱咤しったする。


「うるせえ、調子わりいんだよ。見てねえで、手、貸せ」

 ロックは必死に敵の攻撃を避けながら叫んだ。

 デス・スコーピオンってこんなに速かったか? 


「まったく、ジェドがいなくなったからって、たるみすぎじゃないですか?」


 マリンは腰のサックから小ぶりのメイスを抜いた。

 軽く振ると、緑色の燐光を放って1メートルほどまで伸びる。


 ジェドに買ってもらったSランク武器『深緑の純潔』である。

 オークションで競り落としたときの値段は、2000万ジェリだった。おかげでジェドの貯金の3分の2が消し飛んだ。


 マリンは、ここ数日のロックのタガの外れたような乱痴気らんちきぶりを苦々しく思っていた。

 昼間から酒を飲む。日も高いうちから部屋に入り、マリンを抱く。

 しっかり者のジェドがいなくなったらこれである。


 マリンは孤児だった。

 物心ついてから王都の孤児院で育った。孤児院にも様々なタイプがある。

 ハイク市の孤児院のような民間経営のもの。ヴァリス教が運営しているもの。王国が運営しているもの。


 マリンの孤児院はヴァリス教運営のものだった。

 1人だけ持っているのは平等ではないから、全員持つべきではない、という悪平等。そして戒律のもとに行われる個性の剥奪。


 マリンは10歳で孤児院から脱走した。

 その夜のも言われぬ解放感は今でもはっきりと覚えている。


 だが、世の中は幼いマリンが想像した以上に厳しかった。

 あれほど息苦しく思った孤児院がまるで天国であるかのように感じるほどに。


 3度目の窃盗で捕まったマリンは、犯罪者の焼き印を背に押された。

 あの時の痛みは、まだマリンの魂を焼き続けている。


 幼いながらも娼婦の真似事をし、やがて冒険者となった。

 皮肉なことに神官への適性は高く、冒険者となってからはそれほど辛いこともなくなった。

 せいぜい、組んでいたパーティが全滅し、オークの巣穴に連れ込まれたくらいだ。


 冒険者ギルドでトラブルを起こし、逃げるように王都から遠く離れたハイク市へとやってきた。16歳の頃だ。

 

「僕たちと一緒に組まない? 神官がいてくれるととても助かるんだ」

 

 マリンは、頭に浮かんだ、心がとろけるような笑顔を、振り払った。


 デス・スコーピオンの黒光りする体に『深緑の純潔』を叩きつける。

 ヒットの瞬間、メイスの燐光は強い閃光へと変わった。

 光の直後、イバラがわさりと出現し、デス・スコーピオンの体に巻き付いた。

 イバラが敵をいましめる。


 常ならば、イバラは敵の生命力を吸い取り、次の敵へと伸びていくはずだった。

 だが、イバラは最初の獲物の動きを封じるので精一杯という様子。


 イバラの追加攻撃をあてにして、敵陣に踏み込んだマリンは、別のデス・スコーピオンのハサミの殴打をまともに受けた。

 体がそのままへし折れてしまうような激痛。

 直後に壁に叩きつけられる。


 3体目のデス・スコーピオンがガサガサと寄ってくる。


 マリンは朦朧もうろうとする意識のまま、メイスを杖に立ち上がった。


 そう……。ジェドの結界が無ければ、こんな格下にもやられるのか……。

 マリンは、皮肉を裏に隠した慈愛の笑みを、せまりくる敵に向けた。


 ロックとエラがジェドを過小評価していることには気づいていた。

 だが、自分もまた正確に彼の力を把握していなかったらしい。自分自身の実力をも。


 ふいに、間近にせまったデス・スコーピオンが黄色く輝いた。

 直後に爆発。

 マリンのそばの個体、その隣の個体、と次々と爆発していく。

 エラの得意魔法『指定爆発4連鎖』。


「嘘、なんで?」

 エラが頓狂とんきょうな声をあげる。


 爆煙のあとから、デス・スコーピオンが現れたからだ。

 さすがに無傷とはいかず、金属のような表皮にひびが入っている。足を幾本か失った個体もいる。


「こいつら、本当にデス・スコーピオン? 上位種じゃないの」

 エラが言った。


「ああ、強すぎる。よく似た亜種かもしれねえ」

 ロックも頷く。エラの魔法のおかげで、なんとか持ち直したところだ。

 ロックは後ろを振り返った。

「おい、サックス。なにボサッとしてんだよ。あんたも戦いに加わってくれ」


 3人から離れ、腕を組んで様子を見ていた黒装束の男が、鼻を鳴らした。

 先日、ジェドの代わりパーティに加入したサックスだ。


「そいつらは間違いなくデス・スコーピオンだ。ついでに言うが、強さもそんなもんだ。驚いたぜ、Aランクパーティが、たかだか、こんな相手に苦戦するなんてよ」

 覆面で目元以外はおおっているが、心底、あきれているのがその雰囲気からわかる。

「あんたら、なんでAランクやってんだ?」


 デス・スコーピオンが、床石を鳴らしながら後退していく。


 ロックは、ホッと息を吐いた。

 追撃するつもりはさらさらない。

 なぜだか知らないが、今日はあまりにも調子が悪い。昨夜、マリンを相手に頑張りすぎたか。


 そのとき、ロックの脇を黒い風が駆け抜けた。サックスだ。


 黒装束の忍者は走りながら背中腰に×印に差した2つの短刀を抜く。

 ざざざっと後ろへと下がるデス・スコーピオンたちの中に飛び込むと、その間を駆け抜けた。


 サックスはデス・スコーピオンの群れを抜けた場所で立ち止まると、短刀を鞘に収めた。


 6体のデス・スコーピオンの体から青色の体液が霧のように吹き出す。

 そのまま固まったように動かなくなった。


「わりいけど、パーティ入りの話し、無しにしてくれ。俺はもっと上を目指したいからよ」

 サックスは背中を向けたまま言うと、そのまま通路の奥へと消えていった。




 ジェドをパーティから追い出した後、『ハイク迷宮』の高難度ルートへと潜ってさんざんな目にあった『輝きの4』。

 彼らはその後、3日の休息を間に挟んでから、肩慣らしとばかりに今度は低難度ルートに潜った。


 推奨パーティランクがB以上の高難度ルートと違い、こちらは推奨難度がDランク以上である。


「まあ、サックスのクソッタレが、いなくなっちまったしな。別の奴を探すとしてもよ、まずは3人で軽く潜っとくか」とロックは低難度ルートに潜る言い訳をしていた。


 この3日の間にロックの頭に、もしや、という考えが幾度もよぎった。

 だが、その考えが浮かぶたびに、彼は頭を振ってそれを打ち消した。


 そんなはずはない。

 ジェドの結界の支援がなければ、自分の実力はあの程度だったなんて、そんなはずは。


「ねえ、やっぱ、ジェドをまた入れようよ。あいつの結界、本当に超強力だったみたい。いつの間にかSランクになってたみたいだし」

 エラが言った。両腕を頭の後ろに組んでロックの右隣を歩いている。

「今更、こっちに潜っても、変わんないと思うんだよね」


 高難度ルートと違って、こちらは天然の洞窟のような様子である。

 だが、点々と通路の壁に照明(魔法道具)が設けられており、ダンジョン初心者の冒険者への配慮がうかがえる。


「黙れよ。俺たちは若手ナンバーワンの『輝きの4』だぜ。ジェドが抜けて、調子が狂ってるだけで、実力が無いわけじゃねえ」


 ロックの言葉にエラは唇を尖らせた。

 だが口に出してはなにも言わない。言ってもロックが不機嫌になるだけだ。


「来たぜ。ジャイアントバットだ。軽くやっちまうぞ」


 ロックが言って走った。

 走りながら剣を抜く。


 彼の前方には、胴体部分が人頭ほどもありそうな大コウモリがバタバタと音を鳴らして羽ばたいている。数は5体。


 ジャイアントバットはDランク。

 つい先日までの『輝きの4』だったなら、30秒とかからずに殲滅せんめつできるはずだ。


 ロックが宙に浮かぶ黒い布のようなジャイアントバットを、逆袈裟ぎゃくけさに斬り上げた。

 宙でジャイアントバットが二つに割れた。


「やっぱ、俺はつええじゃねえかよ」


 言いながらも、別の個体に向けて剣を振るう。

 剣はわずかに黒い羽先をかすめただけ。


 そこへ、残る4体が殺到した。

 余裕でかわせる、と踏んでいたロックだったがやはり体の動きが鈍い。

 バックステップで下がる前に、顔に鋭い爪の一撃を受けた。


 焼けるような痛みに思わず声が漏れる。

 反射的に顔を押さえた。手放した剣が地面を叩く。


「なにをやっているんですか、大馬鹿者」


 マリンが怒鳴りながら、『深緑の純潔』を振るう。

 ロックに群がっていたジャイアントバットたちが宙でイバラにからめとられ、緑の塊となって地に落ちた。


 そこに小さな火の球が飛んできて、イバラをほどこうともがくジャイアントバットたちに命中。

 魔物たちが炎に包まれた。


 エラの魔法である。

 だがあまりにも、仲間たちとの距離が近すぎた。

 ロックなど、あちっと身を引き、はずみで尻餅をついたほどだ。

 マリンも熱風を受け、顔が熱い。


「わたくしたちを焼き殺す気ですか」

 マリンは振り返って、エラを睨んだ。


「ごめんごめん、ちょっと目測誤った。ほら、『火球』なんて久しぶりに使うからさ」


 謝るエラは悪びれない。

 内心、ざまあみろという思いがあるのだ。エラはジェドを追い出した責任を2人になすりつけていた。


「先日から、わたくしに含むものがあるみたいですね。不満があるのなら、はっきりとおっしゃい」

「別に、そんなのないってば。謝ったじゃん」

「あなただってジェドを追い出すことを納得したはずです」

「だから、誰も不満なんかないって。まあ、冒険者っていうより、女として思うところはあるけどね」

「あら、言ってごらんなさいよ」


 睨み合う女2人をよそに、ロックは両膝をついて裂傷れっしょうを受けた顔を押さえていた。

 指の隙間から地面に落ちた剣を見る。


 自分の醜態が信じられないのだ。

 雑魚のジャイアントバット相手に、剣を落とすなんて。


 俺は強くなんかないのか? 



 その後、『輝きの4』のできはひどいものだった。

 ロックはすっかり自信を失い、本来の実力をまるで出せなかった。いくらジェドの結界がなくとも、Dランクの魔物に苦戦する彼ではないはずなのに。


 マリンとエラは一触即発で、連携も何もあったものではない。

 足を引っ張り合い、互いの醜態を嘲笑あざわらった。


 もともと『輝きの4』は、ジェドの温厚さと気遣いで成り立っていたようなところがあった。


 ロックは調子に乗りやすい半面、精神的に弱いところがあり、トラブルや失敗から精神を立て直すのが下手。ドツボにハマるとどんどんとひどくなる。


 マリンはジェドがいなくなってから、慈悲深い聖女の仮面を外した。

 本来の口の悪さと攻撃的な性格がとにかく仲間を斬りつける。

 ジェドはときおり顔を出す、彼女の苛烈な部分を優しく包んでいたのだ。


 エラは失敗を他者のせいにするところがあり、トラブルの解決も他力本願である。不満は洩らすが、みずから動こうとはしない。

 今まではジェドが彼女の不満をくんで、なにかと動いてくれていた。

 失敗してもジェドが先に謝ってくれたり、フォローを入れてくれるので、そんな部分も目立たなかった。


 結局、その日『輝きの4』はCランク魔物の出現する5階層まで到達することはできなかった。

 4階層の途中で諦めて引き返すことになったのである。

 今回ばかりは彼らの胸に後悔があった。


 ジェドさえいれば。


 そんな思いを等しく抱いて、無言で帰途についていた。


 ただ1人、この有様を自嘲するマリンをのぞいて。




 夕食時。

 決して品が良いわけではないが、味は間違いないと太鼓判を押されている料理屋のテーブルに、ジェドと少年少女3人がついている。


 店内に漂うご馳走の匂いに、鼻をひくつかせる剣士の少年ダルフ。


 ウェイトレスの女性と談笑するジェドをうっとりと見つめる魔法使いの少女レニア。


 メニューを真剣な面持ちで吟味ぎんみする神官の少女ラヴィニア。


 ラヴィニアが顔を上げた。

 ジェドが柔らかい笑みを向ける。


「決まったかい?」

「私には選べないということがわかりました。どれも美味しそうです」

 

 などと胸を張るラヴィニアに、ダルフがいい加減にしろ、と文句を言う。

 彼は早く料理を食べたくて、たまらないのだ。


「しょうがないでしょう、どれも美味しそうなんだから。こんないい店で食べることなんて、もうないかもしれないんだから」

「大げさだな。いい店なことは確かだけど、この店は庶民の懐にも優しいよ」


 ジェドは言ってからラヴィニアに迷っている料理を聞いた。それを両方ウェイトレスに頼む。

 慌てるラヴィニアにジェドは手を振った。


「君たちの昇格祝いだからね」


 ジェドが、ダルフたち3人『新しい風』についてから、2週間が経った。


 本日2本目のDランク依頼を果たしたことにより、『新しい風』は無事にFからDへとランクを上げた(Dランク依頼2つで昇格)。

 もちろん、彼らの単独でである。3日前からジェドは結界を張るのをやめた。そして、昨日からは、冒険についていくのもやめた。


「本当にありがとうございました、ジェドさん」


 ダルフが頭を下げた。

 残りの二人も、もう何度目かにもなる礼を言う。


「君たちの実力なら、いずれDランクにはなれてたよ。僕はそれを少し早めただけだから」

「そんなことありません。ジェド様が手を貸してくださるまでは、本当に、にっちもさっちもいかなかったんですから」とレニア。


「そうです。ジェド様のご指導のタマタマです」

 ラヴィニアが言った。


「たまたまじゃなくて、たまものな。恥ずかしい間違いすんなよ」


 ダルフが言った直後、ラヴィニアの鉄拳が飛ぶ。

 そのまま2人は唾を飛ばしてののしりあった。


「でも、本当にジェド様のおかげなんです。私、魔物が怖くて。どうしても、焦ってしまって、失敗ばかりで」

 レニアが少しあざとい上目づかいでジェドを見つめる。


 だが、当のジェドはもともと色恋沙汰に鈍いところがあるうえ、マリンとの件で女性不審ぎみになっているので、まるで効果はなかった。


「最初はしょうがないよ。僕だって最初の頃は怖かった。だけど、あいつが前で頑張ってたから……」

 言いかけたまま口をつぐむ。


 頭をかすめた光景。

 大きな声をあげながら、剣を振り回して突進するロックの背中。


「とにかく、ジェド様の結界のおかげなんです」

 ダルフの頬を全力で引っ張りながらラヴィニアが言った。


 まだなにか言っていたが、ダルフに頬を引っ張られて、声にならない。


 ジェドの指導は新人冒険者の彼らには確かに適切だった。

 まずは強力な結界で戦闘そのものに慣れさせる。同時に、自分の理想的な動き、立ち回りを、体に覚えさせる。


 結界の強さを少しずつ弱め、最後には結界を張るのをやめる。

 結界の強さに関しては彼らには教えなかった。

 結界なしで魔物と戦えるようになったあとに話した。

 自分たちの実力だったんだよ、と。


 ジェドには自省の思いがあった。

『輝きの4』では常に全力で結界を張っていた。

 それによって、メンバーを自信過剰にしてしまったのではないか。

 そんな過ちが結局、あの追放劇を招いたのではないか。


 受付嬢のミミーの話では、あれから『輝きの4』はさんさんたるあり様とのこと。

 ジェドの代わりに加入した忍者サックスには早々に見限られ、3人でダンジョンに潜ってみるも、低級ルートですら踏破とうはできず。

 4人目を探すも、ジェドへの仕打ちが広まっていて、加入する者もいない。


 ロック、エラ……マリン。

 ジェドは運ばれてきた料理に目を輝かせている3人を眺めながら、『輝きの4』の3人に思いを馳せた。


 勇敢で前向きなロック。

 いつでも彼の推進力に引っ張ってもらっていた。ロックがいなければジェドの冒険者になるという夢も途中でついえたことだろう。


 細やかな気遣いと冷静な判断力を備えたエラ。

 彼女のなにげない言葉で、自分の至らなさに何度も気づかされた。


 そして、マリン。

 彼女の生い立ちが自分とは正反対のものであったことに、ジェドは薄々気づいていた。

 彼女がキスから先に関係を進ませようとしなかったことも、それが起因しているだろうことも。


 初めてマリンを見たとき、ジェドは胸が締め付けられるように苦しくなった。


 痩せていて、神官着も汚れ、それでも微笑む少女。

 優しく、はかなげな笑顔を向けられ、なぜか心を斬りつけられたような心地がした。


 清楚華憐な神官の少女。

 その微笑みは慈愛に満ちていて、物語の聖女を思わせる。

 だが、それが仮面であることに、ジェドは早々に気が付いた。

 微笑みの裏で、いつも彼女は心の目で相手を睨みつけている。優しい言葉を吐き出すその内側には怒りと皮肉がこもっている。


 ジェドはマリンから目が離せなくなった。

 

 君のことが好きだ、と言ったとき、マリンは照れくさそうに下を向いた。


「私もあなたのことをお慕いしています。ジェド」

 消えそうな声でそう言ったマリン。


 ジェドは彼女の言葉が嘘であることを知りながらも、恋人になった。


 君があらゆるものを軽蔑し、嫌っていることはわかっているよ。

 でも、僕が君を変えてみせる。

 そんな決意があった。


 正式に実家の後継ぎを弟へ譲ったことを告げた日。

 ずっと君と生きていきたいと告げた日。

 マリンは彼女らしからぬ、態度を取った。


 微笑みを浮かべようと、口元をひくつかせ、言葉を吐こうと口を開きかけ。

 それからクルリと背を向けた。


「どこまで馬鹿なんですか、あなたは」

 そんな言葉を残し、去っていった。


 結局、ジェドがマリンの仮面を外すことができたのは、あの一度だけだった。


 いや、あの追放劇のときもか。

 ジェドは自分の若さとおごりを思い返して、苦い気持ちになった。

 誰かを変えようなどと、なんとおこがましいことか。 


 ふいに、ジェドは『新しい風』の3人が自分を見ていることに気が付いた。


「あれ、どうかした?」

「いえ何度も話しかけたんですけど、考え事をされていたみたいで」

 レニアが言った。


「ごめん。聞いてなかった。それで、なんだい?」


 レニアが口を開いたそのとき、玄関ドアを乱暴に開き、入ってくる者があった。

 赤毛をツンツンと逆立てた剣士風の男。

 ロックだ。


 ジェドは親友のあまりにも変わり果てた姿に目を見開いた。


 無精ひげ。汚れた服。周囲に振りまく、とげとげしい雰囲気。やさぐれている。そう表現するのに相応ふさわしい様相。


 ジェドとロックの目が合う。

 ロックがビクリと体を震わせたのがわかった。それから、両手で自分の頬を張った。

 床を鳴らしてやってくる。


「あの人、ジェド様の……」

 レニアがつぶやく。


 ロックは無言でジェドたちのテーブルのかたわらに立った。

 たちこめた酒気にラヴィニアが咳き込む。


 ジェドも無言でロックを見つめた。

 

「……あの、よう」

 とうとうロックが口を開いた。

「また、俺と組もうぜ、ジェド」


「なにをっ」


 立ち上がりかけたダルフを、ラヴィニアが制した。レニアも無言で首を横に振る。


「なあ、戻ってこいよ、『輝きの4』に。やっぱりお前が必要なんだよ。なあ」

 ロックがすがるような目を向ける。


 ジェドは無言で、ロックの充血した目を見つめ続けた。


「お前の結界がどれだけ凄かったか、わかったんだ。もう、お前を手放したりしねえ。だから、なあ、また一緒にやろうぜ。Sランクまであとちょっとなんだ」


 ジェドは目を閉じた。

 ロックとの冒険の日々の記憶がよみがえってくる。

 薬草採取の途中でゴブリンに襲われ、逃げたこと。

 仲間に勧誘するもことごとく断られ、それでも諦めずに声をかけて回ったこと。

 Dランクに上がったときは、2人で初めて酒を飲み、酔っぱらって倒れた。


 マリンが入ったとき、俺、あの女なんか苦手だからお前相手してくれ、と本人に聞こえる距離で言うロック。

 年上の恋人に有頂天になって、ミスばかり犯していたロック。


 Aランクのスケルトンナイトが現れて、絶望感を味わったのはCランクに上がったばかりの頃だった。


 エラが仲間になったときに、パーティ名を『輝きの4』に変えた。

 自信満々に、絶対にSランクになってやる、と宣言するロック。


 ジェドはそれらの記憶を振り払うように首を横に振った。

 目を開ける。


「ロック、もう僕たちの道は分かれたんだ。君は君の道を。僕は僕の道を進んでいこう」

「お、お前、怒ってるんだな。そ、そりゃあそうだよな、いきなりあんな風に首にしておいて。悪かったよ。俺は調子に乗ってたんだ。マリンがさ……。そうだ、マリンとのことだってよ、あっちから誘ってきたんだぜ」

「マリンから……。そうか」

 ジェドは納得した。なんとなくそんな気がしたのだ。


「お前を首にしようって言い出したのもあいつなんだ。あいつ、ひでえ女だよな。あんな顔してよ。お前もあいつの本性知ってるだろ。あいつ、お前が家を継がないって知って、手の平を返しやがったんだ。烙印が入ってるだけのことはあるぜ。なあ」


 ジェドは立ち上がった。

 その勢いにロックが身を引く。


「烙印。刑罰の? マリンにそれが?」

「えっ、だって、お前……。あいつと、寝たことないのか?」


 ジェドはそれには答えなかった。

 マリンの微笑みが脳裏に浮かぶ。自分の心を、傷を、隠すように常に微笑んでいた彼女。人間の善性を説きながらも、それを欠片かけらも信じていなさそうだった。


「俺もあいつに見限られちまった。どっかへ消えちまったよ、あいつ。落ちぶれた俺には用なしってわけだ。あんな売女、こっちからごめんだって。なあ、お前だってそうだろ。ちょっと情が移っちまっただけで……」


 ロックの声は途中から聞こえなくなった。


 ジェドはあの追放劇のときのマリンを思いだしていた。

 あのとき、彼女は本当に仮面を外していたのか?

 それとも別の仮面をかぶっていたのか?




 マリンは『深緑の純潔』を握りしめた。

 目の前の三つ首の大犬を睨みつける。


 Sランク魔物ケルベルス。

 波打つ黒い体毛は黒炎が体にまとわりついているかのようだ。

 ケルベルスの中央の頭部がくわえているのは、白い腕。マリンの左腕だ。

 ケルベルスがボリボリとそれを噛み砕き、口の中へと飲み込む。


 マリンの周囲にはいくつもの死体が転がっている。


 深い森の中。

 枝の隙間から漏れる月明りが、魔物とたった1人対峙する白い神官着の女を照らしている。


 クリストフ伯爵領の端にあるSランクダンジョン『入らずの森』。

 マリンがこの森の探索隊に加わったのは、なにもSランクダンジョンに眠る宝物やレアな素材を求めてのことではない。


 2年前にハイク市を出たあと、様々なパーティを転々としながらも冒険者を続けてきた。

 つい2ヵ月前に属していたパーティが解散したので、ふらふらと旅を続けてクリストフ伯爵領へとたどり着いた。


 領政府のある大都市ベルクラインの冒険者ギルドで、『入らずの森』探索隊員募集の話を聞いたとき、柔らかな黄金の髪に深い青色の瞳をした青年の顔が思い浮かんだ。

 

「まだ誰も踏破とうはしたことのないダンジョンが故郷にあるんだ。いつか、そこを攻略したい。それが、僕の夢なんだ」

 目を輝かせながら、そんなことを言う青年。


 幼稚な男。そう思った。

 ロックのような成功者への憧れならばまだしも理解できるのだが。


 あれからたくさんの男と関係を持った。

 別に求めてのことではなく、利用できると考えたから応じただけのことだった。


 演技はもうしなかった。

 騙したいと思えるほどの相手も、嘘をつき続けても維持したいと願うほどの幸せもありはしなかった。

 

「君と一緒に生きていきたい。いつまでも」


 伯爵家の後を継ぐことを正式に辞退しと告げたあと、ジェドはそう言った。

 あのときの体が芯から震えるような幸福感。

 背中に犯罪者の烙印を押されたあのとき以来、初めて涙が流れた。

 背を向けるのが遅れていたら、彼に見られてしまっただろう。


 ジェドは自分のいやしい本性を見抜いていた。自分がそれに絶望的なほど大きな引け目をもっていることも。

 だからこそ彼は、伯爵家の跡継ぎを弟へと譲ったことを話したあとに、愛をささやいたのだ。

 自分が引け目を感じずに済むように。


 やはり彼は大馬鹿者だ。

 伯爵家を捨てたくらいで、釣り合うわけがないのに。


 ジェドが決断したからには、自分も決断しなくてはならなかった。

 行動しなくてはならなかった。


 時間がかかれば、未練がわく。

 再び行動を起こす勇気がなくなるかもしれない。


 ロックを誘って関係を持った。

 ロックはジェドに対して劣等感を抱いていた。それを少し刺激するだけで簡単にのってきた。


「お前、そういう奴だったのか」

 背中の烙印を見て、ロックは笑った。

「よくジェドをたぶらかせたじゃねえか」


 3年間も苦楽をともにした仲間でも、結局はこうなる。烙印とはそういうものだ。

 だから、こそ、ジェドには絶対に見せたくなかった。


 ジェドをパーティから追い出そう、そう提案するとロックは意外にもためらった。セックスと同じように簡単にのってくると思ったのだが。


「あいつは裏切りたくねえ」


 なにを今更。馬鹿なのか、こいつは。

 恋人を寝取っておいて、裏切りたくないもなにもあったものじゃない。


 それでも、少しだけロックを見直した。


 ためらいを振り払うには、言い訳を作ってやればいい。

 Sランクに上がるため、仕方ない。もっと上を目指すには結界士のジェドでは足りない。


 ジェドが、ロックの劣等感を刺激しないよう、Sランクになったことを伏せていたのは幸いだった。


 劣等感に根を張った芽は出世欲という栄養を得てすくすく伸びた。

 あとは、ときどき、水をやるだけで良かった。


 そしてあの茶番。

 ジェドのすがるような目。


 私はどうしようもない人間ですよ。あなたを騙していたんです。こんなろくでなしは早く忘れてしまいなさいな。


 分をわきまえなさい。


 あのとき言った言葉の本当の意味をいつか、彼が理解するときがくるだろうか。


 ケルベルスが吠えた。

 いよいよ、最後の獲物をほふるつもりなのだろう。

 

 マリンは『深緑の純潔』を自らの首に当てた。


 ケルベルスが飛びかかってくる。

 

 メイスの淡い燐光が、強い閃光に変わる。


 誰よりも幸せになりなさい。

 あなたはこんな私に幸せをくれたのだから。


 マリンの体を引き裂き、幾十もの真っ白い根が現れた。それらはケルベルスを飲み込み、大地に突き刺さる。


 白い木が見る見る成長していく。

 枝を張り、金色の葉を茂らせて、長く、太く育っていく。


 やがて、そこには一本の巨木ができあがった。



『入らずの森』の奥深く。

 大理石のように白くつややかな樹皮。

 その葉は黄金に輝き、深青の実を実らせる。

『聖女の樹』

 いつしか、その木にはそんな名前をつけられていた。




 秋晴れの日差しが深緑の屋根の隙間から地面に落ち、模様を描いている。

 ぼうぼうと伸びた草。うねるように地面から飛びだした根。

 鳥の鳴き声が、虫の声と交ざって、そこに風が葉を揺らす音まで重なる。森の大合奏。

 そこに人の声まで入ってきた。


「もう、すぐのはずですよ」

 女の声。

「校長先生。お体、大丈夫ですか?」


「ああ、問題ないよ。ありがとう、ラヴィニア」

 しわがれた老人の声。


「私はレヴィナですよ。ラヴィニアは私のおばあちゃん」

「ああ、すまない。そうだった」

「無理もないですよ、先生。こいつ、母さんにそっくりなんですから」

 これは低い男の声。


「ゼリル伯父さんはいつもそれ。自分だっておじいちゃんそっくりなくせに。おじいちゃんとおばあちゃん、先生の最初の教え子なんですよね」

「ダルフとラヴィニアには少し強くなる手伝いをしただけだよ。教え子なんて、そんな大層なものじゃないなあ」

「でも、おじいちゃんもおばあちゃんも、Sランク冒険者になれたのは先生のおかげだっていつも言ってます。『偉大なる師』ジェド・クリストフのおかげだって」


 老人、ジェドは笑った。その後に、咳き込む。

 真っ白い長い髪を背中で縛り、同様に真っ白い髭で顔の下半分をおおっている。

 右手に持った杖で、体を支えながら、若い女性の隣を歩いている。


「宮廷魔法使いのレニア様も先生の教え子なんでしょう?」

 女性が言った。


 革鎧に剣。ポニーテイルにした真っ赤な髪を揺らしながら歩いている。ダルフとラヴィニアの孫娘レヴィナである。


「彼女もね。私は先生なんて大層なものじゃないよ。ただの導き手。冒険者の導き手だよ」


 結局、ジェドは『輝きの4』以来、冒険者として第一線に立つことはなくなった。ハイク市冒険者ギルドの専属冒険者となり、新人たちをサポートする役目をになうようになったのだ。


 ダルフ、ラヴィニア、レニアの『新たなる風』はその後大きく成長し、ついには大陸中に名を馳せるSランク冒険者にまで上り詰めた。


 彼らだけではない。ジェドが手を貸した新人の多くは、急成長し、Aランク、ひいてはSランクにまで昇格した。


 新人冒険者だけではない。

 壁に突き当り伸びなくなった者、失敗やトラブルから冒険者をリタイアしかけた者、そういった者たちがジェドの手にかかると、大きく成長して結果を出した。


 ハイク市冒険者ギルドは、いつしか強力な冒険者を排出する養成機関のようなものへと変わっていった。

 冒険者として強くなりたいなら、ハイクへ行け。

 そんな風に言われるようになった。


 やがてジェドは王都に招聘しょうへいされた。そこで冒険者養成学校の校長を務めるようになる。

『偉大なる師』そんなふたつ名で呼ばれるようになった。


「おい、若造ども。わしのことを忘れておらんだろうな。この『剣聖』ロック様のことも、ちゃんとうやまっておるんだろうな」

 もう1人の老人がわめいた。こちらは杖をついておらず、足取りもしっかりしている。

「わしあってのジェド。ジェドあってのわし。そうだろう、ジェド」


「ああ、そうだ。ロックにはずいぶんと助けられたものだよ」


『輝きの4』は結局、自然消滅した。

 マリンが失踪し、エラもどこかへ行ってしまった。

 ロックは別のパーティを組もうとしたが、ジェドを追い出した件が尾を引いて、誰も彼と組もうとはしなかった。


 諦めて、ソロの冒険者として低ランクの魔物を狩って糊口ここうをしのぐも、それすら満足にいかない毎日。自信を失ったロックの剣には、彼の長所だった思い切りの良さが無くなっていた。


 自分の弱さから目をそむけるため、喧嘩を売って回ったり、新人たちにからんだり。

 酒に逃げ、借金も増えて、やがて、どうにもならなくなった。

 そんなロックの前にジェドが現れた。


「何の用だよ。俺を笑いにきたのか?」

 

 ジェドはしばらく無言でロックを見つめた後、言った。

「あれから僕はたくさんの冒険者に手を貸してきた。人を育てるのが向いているんだと思う。人が成長し、駆けあがっていくのを見ると、嬉しいだ。僕がそんな風に感じるようになったのは、君が強くなっていくところを間近で見ていたからかもしれない」

 そしてジェドはロックに手を差し出した。


「もう一度、君のそんな姿を見たくなった。僕と来い、ロック」


 ロックは信じられない気持ちでジェドを見た。

 許してくれるのか、こいつは、俺を。

 涙で視界を揺らしながら、ロックはジェドの手を取った。

 

 ジェドは自身の家にロックを連れ帰ると酒を断たせた。

 まずは基礎的なトレーニングから初めていった。

 年少の冒険者に交じって稽古を受けるロック。彼は文句ひとつ言わずに素直にジェドの指導を受けた。


 ロックの心身の調子が戻ったのを確認したジェドは、次に実戦に連れ出した。

 まず結界の中で自信をつけさせ、調子の良かったころの体の動きを思い出させる。

 結界の効果を少しずつ弱め、結界なしでも問題ないようにしていった。


 冒険者に復帰したロックは、そこからさらに成長した。剣士ランクをBからAへと上げたのだ。

 だが、パーティは組まずソロの冒険を続けた。


「やっぱよ、俺の相棒はお前だけだ。お前がガキどもの面倒を見るってなら、俺もそうするわ」

 などと言って冒険者をやるかたわら後輩たちの育成に尽力した。


 ジェドが冒険者養成学校の校長に就任した際は、ロックもそれについてきて、講師となった。

 最初は冗談で『剣聖』と名乗っていたが、やがてそれが定着してしまい、今では、『剣聖』といえばロックのことを差す称号となってしまった。


 そんなロックがジェドに、『聖女の樹』の話を持ってきたのは1ヵ月ほど前のことだった。


 クリストフ伯爵領にあるSランクダンジョン『入らずの森』。その大森林の奥深くにそびえる白い巨木『聖女の樹』。

 夏には黄金の葉を茂らせ、秋には青い実をつける。

 その枝の下で休んだ者は傷が癒え、幹に触れたものは心が癒える。

 

「実を食べたらどうなると思う?」

 ロックが言った。


「さて、なんだろうな」

 ジェドは首を傾げた。

「病が癒える、とかかね」


「死ぬのさ」


 青い実を食べた者は安らかに眠る。


「どうだ。お前の死に場所にはもってこいだろ」


 数年前からジェドの体は病にむしばまれていた。

 不治の病。

 病の進行は緩やかだが、確実に体を弱らせていく。体だけではない、この半年ほどは記憶の欠落が多くなってきた。


 さて、どうしたものか、とジェドは悩んだ。

 十分に生きたし、とくに未練もない。

 死ぬのは構わないが、できれば自分が自分であるうちに逝きたい。

 どこかに良い死に場所はないものか。


 そんな悩みを誰にも話せるはずもない。だが、親友のロックはそんな思いをくんでくれた。


 ジェド・クリストフの最後の冒険行は、こうして企画されたのだ。



「心配するな。お前はわしがちゃんと聖女のもとまで届けてやるよ。この『剣聖』ロック様がな」 

 ロックがかっかと笑う。


「お師匠様は本当に偉そうなんですから」

 レヴィナがため息をついた。

「尊敬できる人なんですけど」


「そうだ、わしを尊敬しろ。称えろ。ジェドを褒めたらわしも褒めろ。わしを褒めたらもう一度ジェドを褒めろ」

 ロックがわめきながら、腰の短剣を抜いて、横に投げた。


 短剣は光の軌跡を描き、木々の間を抜けていく。その先で虎視眈々(こしたんたん)と一行を狙っていた金属のような体毛をした大熊の額に突き刺さった。

 Aランク魔物シルバーグリズリーである。

 大熊はそのまま、どうっと崩れて、動かなくなった。


「あれじゃないですかね」

 ゼリルが言った。黒いマントに黒甲冑を着込んだ偉丈夫である。


 ダルフとラヴィニアの息子で、大陸に3人しかいない、SSランクの魔法剣士である。


 ゼリルが指さした先。木々の奥に白いものが見えた。


「ちょいと見てきます」

 言うが早いか、黒装束の青年が音もなく駆けていった。

 ジェドの部下でSランク忍者のディッシュである。

 

 ディッシュはすぐに戻ってきた。確かに『聖女の樹』であろうと報告する。


 ほどなくして、白い巨木が全貌を現した。

 まっすぐに天へと伸びる巨木。

 黄金の葉が日差しを受けてまぶしいほどに輝いている。おかげで、空が光っているように見える。


 葉の影に丸い果実がぽつりぽつりとなっている。


「すごい。こんな木、初めて見ました」

 レヴィナがほうけたような顔で巨木を見上げる。


「『聖女の樹』たあ、よく名付けたもんだぜ」

 ロックが言った。

 彼は親友を振り返り、驚いた。

「どうした、ジェド」


 ジェドはあふれる涙も拭わずに巨木に見入っていた。その口から声が漏れる。

「……マリン」

 

 老人の足が一歩、二歩、とゆっくり前に出る。


 ジェドには、はっきりとわかった。

 巨木の周辺にたちこめるこの気配は、あまりにも懐かしい女の気配。

 ジェドが生涯でただ1人愛した女性の気配だ。


 貴公子然とした洗練された立ち振る舞い、そして輝かんばかりの美貌。ジェド・クリストフは生涯多くの女性をとりこにした。


 だが、彼はついに一度も、言い寄ってくる女性と、男女の関係になることはなかった。

 その理由を知る者は親友のロックだけ。彼は何度となくジェドに、彼女のことを忘れるように言ったが、友がそれを聞くことはなかった。


 ジェドの足が根に引っ掛かった。転びそうになる。

 ディッシュが動く前に、ロックは腕をつかんで忍者を止めていた。


「2人きりにしてやろうぜ」

 ロックは言った。


 ジェドが『聖女の樹』の幹にたどり着いた。その白くすべらかな樹皮に手を置く。


「君はここにいたんだね。ずっと」


『聖女の樹』に異変が起こった。

 幹が次々と割れ、赤いイバラが飛びだした。それらは瞬く間にジェドの体をからめとっていく。


「校長先生」

「先生」


 ジェドの教え子たちが駆け寄るが、彼らの前に黄色い半透明の壁が立ち塞がる。


 いつの間にか、『聖女の樹』の周辺は黄色い壁に囲まれていた。


 赤いイバラがジェドをまゆのように包み込む。赤いまゆがゆっくりと白い樹皮の中へと吸い込まれていく。

 やがて、赤いものは完全に木の中へと消えた。ジェドとともに。


「お前、やっと素直になれたんだなあ」

 ロックは巨木を見上げて言った。両目から涙が滝のように流れる。

「マリンよう。ジェドのこと、よろしくなあ。今度は逃げるんじゃねえぞ」


 老人の声に答えるように、黄金の葉が大きく揺れて、シャラシャラと音を鳴らした。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

楽しんでいただけたのならば、幸いです。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ