ショートショート
真夏の桜
譬えるなら真夏に咲く桜のようだった。
裸でいても暑い日曜の昼下がりに、その少女は桃色の長袖の服を着ていた。フランス人形を思わせる整った顔立ちに少し青く見えるほどに真っ白な肌はすれ違う人を思わず振り返らせるどこか浮世離れした美しさを湛えていた。そしてなぜだろう。私に近付いてくるのだ。
「お兄様?」
見惚れていた私に少女が話しかける。さてさて、私にこんな美人の妹がいただろうか?
「私ですか? 人違いではありませんか?」
そう言うと少女は残念そうに頭を垂れた。
「やっぱり違いましたか。ごめんなさい」
長い黒髪がさらさらと揺れた。それは男なら誰もが抱きしめてやりたくなるような可憐さだった。
「なにかお困りですか? 私でよければお力になりますが?」
少女はハッとして顔を上げたが、またすぐに悲しそうに俯いてしまった。
「いいんです。もう兄には会えないんです」
少女は去って行ってしまう。その時、私はなにかもやもやした苦々しさを感じていた。
思えばつまらない人生だった。大病院の長男として生まれ、親の用意したレールを流されるままに歩んできた。幸せというものの色や形を、何一つ思い描けないままに。
翌日、何年ぶりか母からの電話があり、娘が昨日の朝に死んだと聞かされた。そして私は気付かされる。あの少女の名は咲良。正真正銘、血を分けた私の妹だった。
幼い日に確かに聞いていたんだ。しかし時間の波が忘れさせていた。私の母のお腹に新しい命が確かに存在していたこと。そしてもう一月だけでも早く産まれていれば、この手で抱きかかえることもできたこと。
つまらない喧嘩で私の母は私を残して家を飛び出した。母はそれから間もなく咲良を出産し、貧しくとも清らかにずっと二人三脚で生きてきたそうだ。咲良は生まれつき病弱で長くても高校生くらいまでしか生きられないと、そう聞かされていたらしい。
もしも咲良が私と共に父のもとで暮らしていれば、父はきっと財力の限りを尽くし、少しでも長く生きるように、籠の中に入れた彼女の病気の治療に心血を注いだだろう。
私の前に現れた少女は夏の幻だったのだろうか。狂い咲きの桜は、その不適合な環境にやがて枯れてしまう。そんな薄命の花びらたちはどんなに美しくとも、その心の中、一抹の孤独を決して拭い去ることはできない。
なぁ咲良、君は幸せだったのかい?
なぁ咲良、私は今、幸せなのかい?
なぁ・・・なぁ・・・なぁ・・・
50メートル
世の中には過程を軽視し、結果しか見ようとしない者が多く存在する。戦いを終えた私は近くの酒屋で偶然相席した初老の紳士にそんなことを話していた。
「能力だけで言えばあいつのほうが1枚上です。それは認めてます」
「ほう、それでどうやって勝ったんですか? 教えて下さいよ」
あいつとの賭けはクロールで50メートル勝負。賭け金は2万円だ。
「25メートルプールで50メートルってのがポイントなんですよ」
私とあいつは幼稚園からの幼なじみでありライバルでもあった。2人とも子どもの頃から水泳が得意で大学の水泳部でも互いにエースの座を競い合っていた。
「でも、あいつと私とじゃあ考え方が違うんです。あいつは常に努力し続けるタイプでしてね。一方の私は天才気質。昔っから努力なんてしなくてもいい成績出してきてるんですよ。それでも一緒に笑って酒が飲めるってのが不思議なもんです」
我々はもう大学4年生で引退間近。今度こそ決着をつけたいとあいつが1対1での真剣勝負を挑んできたのだ。
「なるほど。それであなたは受けて立ったわけですね」
「審判もギャラリーもいないプールで泳ぐことになった時点でもう勝負はついていたんです。あいつは実力はあっても要領が悪い」
2人、せえので飛び込んだ。そこで私はすぐに立ち止まる。前ではあいつが1人必死こいて水をかいていた。
「読めてきましたよ。たしかにその方は頭のほうがよろしくないようだ」
25メートルでターンした時、あいつは何を思っていただろうか。自分の泳ぎをするだけ。水泳に限らずスポーツ選手の常套句だ。だが、時には対戦相手のほうを顧みることも必要なんだ。
私は5メートルほど歩いて回れ右し、あいつが迫って来るのを待ち受ける。タイミングが重要だった。あいつが「タッチの差で負けた」と勘違いする位置関係で私は「ゴール」する。
「正々堂々、勝負しょうとは思わなかったのですか? 賭け金はたかが2万でしょう」
「もちろんそれも考えましたよ。曲がりなりにもあいつは親友と呼べる存在ですから。努力して勝ち取るからこそ結果に意味が宿ることも知ってる。でも楽をして利益を得る優越感も私は知ってるんです。それだけのことですよ。・・・あっ、奢りますよ。つまらない自慢話を聞いてくれてどうもありがとうございました」
私はこの勝利の美酒を、最後の1口まで味わった。
殺人協定
このご時世、というわけじゃないが・・・いつ突き飛ばされるかわからないから道路は慎重に歩く。刺されるかもしれないから道行く人からは常に1メートル以上距離を置く。防犯ブザーも常備。柔道を習い護身術も身につけた。そうでもしないと・・・
ヒロの自宅のポストに最初にそのチラシが投函されていたのがもう1年も前だ。
ー殺人協定を組みませんか?ー
その頃、ヒロはとても疲れていた。友人の借金の保証人になり・・・なんてフィクションではありがちなケースの被害者にまさか自分がなるとは思ってなかった。
チラシに書かれていた内容は要約するとこうだ。
この世の中、自殺したい人間など山のようにいる。それは昔からのことだが今日では「人を殺してみたい」と思っている人間も同じくらい多く存在するのだ。そんな両者が手を組んだらどうかと考えられたのがこの「殺人協定」だ。
死にたい人間が殺してくれる相手を募集する。
合理的だ、とヒロは思った。むしろなんで今まで誰も考えてこなかったんだ。
理不尽に殺される被害者を確実に減らせる。死ぬ勇気が出ない悩める人も思い切りよく死ねる。
ヒロはすぐにチラシに書かれていた住所を目指した。都内近郊の五階建てのビルの三階。窓には「向井探偵事務所」の文字。表向きは探偵事務所なのか。
ドアをノックすると少し高いが男性と思われる声で「どうぞ」と返事があった。部屋に入るとヒロは30代半ばくらいの男に笑顔で迎えられた。
「田宮広人さんですね。殺人協定へようこそ代表の向井です」
「はぁ、どうも」
事前に電話を入れていたので男の対応は迅速かつ的確だった。ヒロはまず死にたい理由を事細かに聞かれた。生半可な理由ではこの協会は利用できないそうだ。
「大体呑み込めました。では料金のほうですが・・・」
男は薄っぺらい料金表らしきものを提示してきた。もう死ぬんだからお金のことなどどうでもいいのだが・・・
30分ほど話し合っただろうか。最後に印鑑を押して契約は完了した。あとは同じように契約した「殺したい人間」が近いうちに殺してくれるのでただただお待ちください、と言われヒロは事務所を辞去した。
それからしばらくして向井探偵事務所が経営難のため人知れず廃業したことなどヒロは知る由もない。
何日待っても何週間待っても何か月待っても何も起こらなかった。そして1年が経った頃、なんと借金を押し付けて消えた友人が帰ってきた。無事に借金は返済されヒロに死にたい理由は無くなったわけだが・・・
さて、ヒロはこの先一生「殺されるかもしれない」という恐怖を抱いて生きていくのだろうか。
さよなら列車
今日もこの列車では永遠を誓い合ったはずの人々が、悲しい別れの時を迎える。
夜の10時、カオルは繰り返し訊ねる。
「ねぇ、本当にこれでよかったのかな」と。
テツはうんざりするほど味わった思いをぶり返された気がした。
「くどいな。俺たちはもう離れたほうがいいんだよ」
突き放すように言う。だがカオルはテツのほうへ手をそっと伸ばしてきた。何かにすがるように。テツはそれを極力、自然な風を装いかわす。最後までいい人を演じるつもりは無かった。それがカオルのためだと言い聞かせて。
さよなら列車に二人が乗り込んだのが一時間ほど前のこと。二人一組でその列車に乗った者は別れることになるという。二人で過ごした思い出も全て消え、何事も無かったかのような日常を終着駅とする不思議な夜行列車だ。
カオルが東京へ行くと言った日からテツの葛藤が始まった。モデルの仕事が上手く上昇気流に乗ったようだ。潮時だと思った。別に人生賭けるほどの恋でもない。
だが、カオルのほうは違ったらしい。一緒に来て欲しいと言うのだ。断る理由も無いが「おう、わかったぜ」と安請け合い出来ることでもない。
「さよなら列車なんて、都市伝説かと思ってた。まさか自分が乗ることになるなんて」
カオルは両手で顔を覆う。また泣き出すつもりか。
「もう今更降りるなんて無理だぜ。なぁ、もうとっとと寝ちまおうぜ。起きたら全部、終わってんだからよ」
それがこの列車のルールだ。幻のような世界をぐるぐると回り、やがて乗客はみな寝てしまう。そして全ての記憶は忘却の彼方へ。また新しい別々の人生を歩き出すのだ。
「ここで離ればなれになっても、きっとまた会えるよ。そしたら私と結婚してね」
「あぁ、そうだな。そうなりゃいいな」
涙目のカオルにテツはぶっきらぼうに言って、自分はさっさと目を閉じた。そして夜は更ける。
夢を見ていた。走馬灯のようなものかとテツは思う。出会った頃の二人の夢。さよなら列車とやらもお涙頂戴な演出をするものだ。
テツのほうがカオルよりも五つも年上だった。モデルを目指しているという美しい女子高生に普通に恋をした。どうせ、すぐに別れることになるのも普通のことだと思ってた。ただの退屈しのぎ。なにもかも嫌になってた頃だ。
けれどカオルはまだ幼かった。一つの恋に固執してしまうのも若気の至り。それはテツの罪だ。
この先、カオルがモデルとして花開くならテツはまた新しく他人としてのカオルを知るだろう。だが逆はないのだ。カオルの人生にテツが交わることはない。
決別しなければいけないのはテツのほうなんだ。大人げない恋心に世間知らずの少女を巻き込んでしまった。償いはまたカオルと出会う前の冴えない自分に戻ることか。それもまた、よくあることだ。
今日もさよなら列車は揺れる。当たり前のように繰り返す出会いと別れを名残惜しむように、愛おしむように。
今日もさよなら列車は揺れる。
リコ
理子は苦悩していた。馬鹿な話と一笑に付せばそれですむことなのに、理子はまだ甘い誘惑から逃れられずにいた。
ーあなたが望むなら十億円差し上げます。ただしその瞬間、世界のどこかで人が一人死にますー
いつも通りの仕事の帰り道に理子に声をかけてきた男。全身黒ずくめの不気味な男だった。
十億円もあれば一生遊んで暮らせる。警察に捕まることもないようだ。でも、なんの罪もない人がランダムで一人確実に死んでしまうという。
理子は考えた。自分になんの害がある?どうせ人なんて事故や病気で今この瞬間もゴロゴロ死んでるんだ。自分の身内が死ぬ可能性もあるようだがそんなの何億分の一だ。
理子はこれまでの人生を振り返る。ろくなことがなかった。何をやっても楽しくなくて、親にも上司にも同僚にもうんざりしてた。友達と呼べる人もいなくて、言い寄ってくる男にもろくな奴がいなかった。
恵まれない人生にやっとツキが巡ってきたのかもしれない。このチャンスを逃す手はない。何かを変えるチャンスがあるとしたらそれは今なんだ。
ー決心が着きましたらこちらにお電話をー
あの男から渡された番号。ただのホラならそれまでだ。でも理子は信じすがるようにその番号をダイアルした。
翌日、半信半疑の理子の口座に振り込まれていた十億円。理子は震え上がった。何度も目をこすった。
「本当に、入ってる」
この感情はなんだろうか。嬉しいと、思いたかった。だが心が言うことを聞かない。そんな理子の耳に入ってきたのはテレビが伝えるショッキングなニュースだった。
「先日ノーベル医学賞を受賞したー李太さんが自宅で死亡しているのが発見されました」
ドクンッ
理子の心臓が鼓動を速めた。思わずテレビにしがみつく。
「ーさんの突然の、原因不明の死に各界から悲しみの声が寄せられています」
ーどうしてあんなにいい人がー
ーずっと世のため人のためと頑張ってやっと報われたばかりなのにー
ーこれからも一生研究して苦しんでる人の力になるんだと張り切っていたのにー
ーこの世には神も仏もいないのでしょうかー
ニュースは続ける。この人の死は数え切れない人を不幸にすると、理子の胸を抉るように。
理子は駆け出した。神様、お願いだ。嘘だと言って。何も考えたくなかった。でも思考は巡る。
人のせいにしてきた。上手くいかないこと全部。社会のせい、運命のせい。自分からは何も変わろうとせずに。
死んでしまうべきは私だった。馬鹿だ。大馬鹿だ。理子なんて名前、本当は利己なんだ!
夢中で走り、たどり着いたのは海だった。理子はその場に蹲った。なんてちっぽけな自分。静かな海のほとり、遠くから声が聞こえた気がした。
ー理子さん、あなたは僕に似てる。僕もかつてあなたのように悩んだ。自分は何をしてダメな奴で、生きてる価値なんてないと思ってた。でも初めて愛する人ができた時、気がついた。初めて自分を愛することができた。ありがとう、愛してると素直に言えれば、きっと誰かがありがとう、愛してると言ってくれる。僕も人のために何かがしたいと思った。でも気づいたのは、人のために何かがしたいと思う、そういう自分のために僕も頑張ってた。一緒だよ。みんな一緒だよ。きっとー
一つ、風が吹いた。夢から覚めたように理子は立ち上がり再び歩き出す。涙を拭いて。
数日後、とある僻地医療支援団体に匿名で贈られた多額の寄付金に込められた想いを、誰も知らない。