第1話 記憶のない勇者
1
暗闇の中で、鳥のような、小動物のような声が響いている。
クーン、クーンと、静かに誰かを呼んでいるかのよう。
時々、クキューンと誰かに置いていかれたような悲しい鳴き声もした。
――聞いたことのない動物の声だな。
平均は、無の中で自分の意識を感じとった。まだ眠っていて、夢の中でわずかに覚醒しているのか、夢の続きを見ようか、このまま目覚めようか考えた。
また何かの動物の鳴き声が聞こえてきた。その正体が知りたかった。しかし、暗闇の中では位置がわからない。
――そういえば、雨にぬれた犬を助けようとしたんだ。
すぐに逃げられたことも思い出した平均は、まぶしい光を浴びた光景もよみがえった。
――そうか、俺は死んだんだ。でも、どうして意識があるんだ。
ククーと、今度は明るい鳴き声がした。そして、闇の中で何も知覚できなかったところに、平均は初めて重力を感じた。
腹の上がじんわり重くなった。決して苦しいほどではなかった。重心を感じてから、今まで意識できていなかった自分の体というものを改めて知り始めていた。
腹の中心から熱が広がっていくようだった。空洞になっていた血管の中を初めて熱湯が流れていくように。
全身が暖たかくなった。平均は、今まで何気なしに動かしていた自分の体に、初めて意識したくらいに新鮮で、生まれ変わった気持ちになった。
平均の暗闇の意識に横一閃の光が走った。光は、闇の切り裂くように、楕円に広がっていく。まぶしい光の中に、色が生まれていった。
2
平均は目を開けた。茶色の平面。木目が見てとれ、天井だとわかった。
自分は生きていたのだと自覚した束の間、イグアナのような動物が平均の視界に入ってきた。驚いて息を飲み、手でその動物をのけ払おうとしたが、手どころか体が動かなかった。
それは、クキューンと鳴いて、飛び上がった。四つ足で、背中からは翼が生えていて、平均の頭上を喜ぶように円を描いて飛んでいる。
だんだんと羽ばたきが遅くなり、高度が下がってきて、平均の腹の上に着地する。
その重さは、暗闇で感じたその重さだった。愛くるしい小さな二つの目で平均は見つめられた。
平均は、目の前の現実を理解できなかった。唯一、動かせるのは眼球だけ。見える限り、人の家の一部屋で寝ていることが理解できた。しかし、そこが現代的日本ではなく、海外の古風な家のようだった。
クキューンと鳴いたそれは、平均の頬に顔をなすりつけた。
「ファムー? どうしたの、そんなに鳴いて。もうお腹空いたの?」
初めて聞く女性の声が、ドアの向こうから聞こえてきて、ドアが開いた。
若く母性あふれる女性だった。
「エヴァン!」
そう強く声を上げたその女性は、ベッドで横になる男にいきなり抱きついた。
「エヴァン、目が覚めたのね。良かった。このまま目が覚めないのかと、心配してたのよ」
涙を流す女性に抱きつかれた平均は、混乱していた。
「わ、私はエヴァンでは、あ、ありません。私は……たいら――」
「エヴァン? 寝起きに冗談はやめて。いくらイタズラ好きだからって」
「え、いや」
「エヴァン、私のことは……本当は覚えてるでしょ」
「も、申し訳ありません。思い出せません」
平均は、本当に彼女が誰であるかわからなかった。見るからに、日本人ではなかった。まるでハリウッド映画に出てくるヒロインのように、きれいな人だという印象だった。
「カーラ。カーラ・シンクレア。子供の頃からこの村で一緒だったでしょ」
カーラは、自身の大きく盛り上がった胸に手を当てて言った。
平均は、ゆっくり首を左右に振った。ずっと寝ていて錆びついた筋肉が次第に動くようになった。
いちるの望みを抱いて自分の名前を言ったカーラの顔から希望が失われていった。
「申し訳ございません」
「なんで、エヴァンが謝るの。こんなエヴァンを見るのは初めてね」
カーラは涙をぬぐって、微笑んだ。
「ちょうど一年前、あなたは、悪の魔力で世界を支配していた魔王を倒した。世界を救った勇者よ。エヴァン・サンダーボルト・クリストフ。それがあなたの名前」
平均は、今も言葉にできなかった。自分が平均以外に何者でもないことを自身が一番良くわかっていた。
「私は――」
平均は体を起こそうとする。上半身がさっきよりも動くようなっていた。
「無理に動かしちゃダメよ。魔王を倒して一年間ずっと寝たきりだったのよ。魔王とほぼ相討ちだったって聞いた。魔王が消滅した衝撃波を受けて、体を強く打ってから意識が戻らなかったの」
「しかし、私は本当に……」
そんな話を聞かされても納得できなかった平均は、無理矢理、体を起こした。
「はい、コレを見て」
カーラは、手鏡をエヴァンに向けた。
平均は、鏡に映った自分を見て絶句した。そこに映っていたのは自分ではなかった。勇者たる男の顔。男から見てもイケメンだった。
オレンジがかった髪の毛は、まるで冒険ファンタジーゲームの主人公のようだった。
平均は、自分を認められなかったが、納得するほかなかった。外見と意識が一致してしまった。外見は勇者・エヴァン、意識は平均。何度、違うと言ったところで、カーラが理解してくれないと判断した。
しかし、意識は平均として、本来のエヴァンの意識はどこへ行ったのか。考えたところで、平均にはわからなかった。無論、魔王を倒したエヴァンの記憶も持ち合わせてもいなかった。
3
これからどうすればいいのか、途方にくれるエヴァンの上で、先の動物が頭を上げて鳴いた。
その声は明るかった。
「良かったね、ファム。主が目覚めてくれて」
ファムと呼ばれたそれは、財宝を守る凶暴なファーヴニルという大きなドラゴンの子供だった。全く凶暴な様子はなく、平然とエヴァンのそばにいる。
平均、もといエヴァンがおそるおそる背をなでても嫌がることもない。かわいくも鳴く。
ファムは、魔王討伐パーティーが、意識をなくしたエヴァンを運んできた時から、ずっとそこにいた。魔王決戦の少し前から、旅をともにしていたとカーラは聞かされていた。
一年もの間、ここでエサを与えているが、ほとんど大きくなっていないともカーラは言った。ドラゴンブリーダーに見てもらおうにも、この村にはそういった者はいなかった。
そんな話を聞かされた平均は、夢でも見ているのかと思えた。部屋そのものはハリボテで、死にかけた自分を驚かそうとしているのではないかと、疑いたくなった。
しかし、外から何かの足音が近づいてくる。エヴァンが窓の外を見ると、二足方向のドラゴンが二匹通りすぎて行った。しかも、まるで馬に乗るかのように人が乗っていた。それもまだ子供の姿だった。
まもなくして、エヴァンの妹レナが帰ってきた。エヴァンが目覚めた知らせを聞き、喜びの声を上げるも、記憶がないことを聞かされるとすぐに涙をこぼし、おえつする。
カーラがレナを部屋から連れ出すと、静かになる。ファムがひと鳴きした。
夢なら早く覚めて欲しいと、いてもたってもいられず、エヴァンは立ち上がった。ついさっきまで、足に力が入らなかったが、体の記憶をとり戻したかのように意識がつながった。
立ち上がってみると、平均の体ではないとすぐに理解できた。一年間も寝ていたとはいえ、筋肉の付き方は平均以下の平均とは比べものにはならないしっかりしたものだった。
今にも走れそうなくらい、体が目覚めて動けそうだった。
――これが、勇者という体なのか……。
ガラス窓がガタガタと揺れ出した。
エヴァンは窓に近より、外を見る。ガラスに映る自分は、鏡で見たエヴァンの姿であった。
そして、窓の上からバサバサと大きな翼を羽ばたかせたドラゴンが降りてきた。
エヴァンは驚いて思わず声をあげて、その場に尻餅をついた。
――ここは一体……。
ここは、オイサーストの世界。
六六五年続いた魔王支配が解かれて、ブリッツ歴二年。
平均は、ドラゴンが普通にいる世界の記憶をなくした勇者に転生していた。