プロローグ
1
いつものように平均は、犬にほえられていた。
「普段は、こんなに怒ったりしないのよマロンちゃん」
立派な門を一枚はさんでいるとはいえ、貴婦人に抱えられた犬は、今にも飛びこえて来そうだった。
手入れされた栗色の毛波は逆立ち、小型犬のかわいい丸い目は鋭く平均をにらみ、オオカミのように牙を向きを出していた。
「そ、そうなんですか。私のこと嫌いなのかな」
平均は、営業スマイルを見せながらも苦笑した。
「マロンちゃんは、誰にでも優しいのよ。えっと、なんでしたっけ?」
「表に出てきていただいたので、幣社のワンちゃん向けサンプルをお渡しいたします」
平均は、大きなカバンからスティック型のチューブに入った犬のおやつと、三つ折りの商品パンフレット、自分の名刺をそろえて手渡した。
その時、マロンが平均の手に噛みつこうとしてきた。
平均は、サッと手を引いたが、指先をかじられた。
「あ、いった......」
「マロンちゃん、ダメよ。人の手を噛んじゃ。あなた、大丈夫だったかしら?」
「え、えぇ、まぁ」
いつものことだと、傷だらけの手をスーツの袖で隠した。
「あー、うちもこのタイプのを買い与えているんですよ、他社さんのですけど。最近、流行ってますものね」
婦人の声のトーンは下がり、マロンがその商品を気にいらないとでも言うように叫び散らす。もう我慢の限界なのか、貴婦人の腕の中で体をひねらせ、今にも飛び出てきそうになっている。
「もし良かったら、弊社のもお試めしください」
ついにマロンが暴れ出し、婦人は持っていた商品やパンフレットを落としてしまった。門の下の隙間をすり抜けて、平均の前に戻ってきてしまった。
「お気に召さなかったですかね」
極めて冷静に言った。しかし、商品を拒まれ、普段はかわいい犬に嫌われるのは、何度体験しても、慣れることはなかった。悲しく悔しかった。
平均は、落ちたサンプルやパンフレットを拾って、その場をあとにした。
その後、何軒も回っても、その場で成約をとりつけることはできなかった。
商品サンプルとパンフレットをただポストに入れることは禁止されている。苦情が来たのだ。
それからのこと、成果があったと見せかけるために、こっそり家に持ち帰って処分する社員もいた。
しかし、訪問営業部は、会社にGPSで追跡されている。自宅に商品を持ち帰ったのがばれ、その社員はカウンセリングルーム行きになって、どうなったかはわからない。その後を詮索しようとする者もいなかった。
余ったサンプルは、責任持って自身が引き取ることになり、その負担は給料から差し引かれるのである。
家族のいる社員は、泣く泣くペットを飼い始めたと聞く。
これじゃ、またカウンセリングルーム行きだよな、とため息をつきながら、平均は会社のある方面への電車に乗った。
――会社って、社会って、一人で責任を持つことがこんなに大変とは思わなかった。
いっこうに減らないサンプルとパンフレフトが入ったカバンが重く揺れていた。
2
平均は会社に帰ると、朝とさほど変わらない数のサンプルとパンフレットを記録する。全社員の営業成績は、データに反映され、上司のチェックが入る。
営業社員一人一人呼ばれるのを待っている間、翌日の準備を黙々と行う。パンフレット折りをしなければならなかった。
パンフレットの印刷は業者に発注しているが、折りの工程をつけると費用がかさむため、営業社員は、自らそれを折らなければならなかった。
平均は、ノルマ分をとり、丁寧に折っていく。他の社員の方が折るのは速かった。みんな適当なのだ。
平均は、どうしてもきれいに折りたかった。それは、渡された人のことを考えると、きれいな方がいいと思っていた。
折り始めたところで、平均が呼ばれた。そのままカウンセリングルームへ連れて行かれた。
カウンセリングルームは、フロアの中心にあり、全面ガラス張りになっている。当然、周囲からは丸見えだ。
ここで、あからさまに怒鳴られる者もいれば、膿みを出す必要があると言われて、泣かされる女性社員もいた。
今日の上司は、上司らしく、成績が上がらない原因を掘りさげる質問をしてきた。平均は、自身に胸を当てるように答える。被せてくるように次々と質問される。
だが、会話がいったりきたりしているだけで、上司は平均をまともに見ようとしていなかった。タブレット端末に視線を落としたままだった。白黒の画像、漫画を読んでいるようだった。
そして、めずらしく上司の顔が上がり、目が合った。
「その顔だよ。表情が硬い。自分の顔をマッサージしてみなよ」
平均は逆らうことはできなかった。このガラス張りのカウンセリングルームで、上司に逆らえる者は誰一人いない。
平均は、ガラスの前に立たされ、フロアにいる社員たちに向かって一人顔マッサージをする。社員たちは、こちらを見て見ぬふりをし、黙々と仕事をしている。
これが会社というものなのだと、平均は思い込んでいた。
終いには、足を広げて腰を落とせ、腕を回せ、と十五分ほど踊り続けた。
「もうやめていいぞ」
上司はタブレットを閉じた。漫画を読み終えたようだった。
「は、はい……」
「わかったよ、どうして君が平均という名前なのに、やることなすこと平均以下なのか」
――それだけは言われたくなかった。心が痛い。
小学校で、平均という言葉を習ってからと言うもの、常に平均ネタを言われてきた。決して、癒えることのない傷が、さらに切り裂かれた。
「明日からスウェットで出社して仕事しなさい。訪問営業もスウェットで行けばいいと思うよ」
「えっ」
唐突に言われたことで、平均は耳を疑った。
「君が成約に至らないのは、表情とスーツの印象の硬さ。見た目の印象が悪いんだよ。スウェットなら、物腰やわらかく見えるよ。いいね」
「......はい」
上司は、平均の返事を聞かずにカウンセリングルームを出て行った。
地獄のスウェットが出社。平均は、それだけは避けたかった。
今までスウェット出社してきた社員を何度か見たことがあった。それはまるで、カラスの群れの中に、一匹だけ白いカラスがいるようなものだった。そして、スウェット出社した者は、会社から姿を消していたのだ。
3
翌朝、寝巻き用のスウェットで家を出た。
スウェットだからと言って、靴やカバンをカジュアルなものにしてはならなかった。スウェットに革靴、仕事カバンを持つ姿で電車に乗った。誰もが無言で平均に視線を向けていた。
同僚たちも、手短かなコンタクトのみで近寄ってはこない。
朝礼を終えて、訪問営業に出かけていく。外はあいにくの雨だった。グレーのスウェットの足元がぬれて、色濃く染みていき、その範囲が広がっていく。
タブレット端末で、まだ営業がかけられていないエリアに向かう。都市部と郊外を繋ぐ太い幹線道路が伸びている地域だった。
言うまでもなく、スウェット姿のセールスに対応してくれる人はいなかった。インターホンに出てもらえたとしても、室内からペットのギャン鳴きが聞こえてくるも、唐突に切られてしまうばかりだった。
夕方には少し早く、雨雲のせいで暗くなっていた。そして、雨のせいで体は冷たくなっていた。幹線道路に出ると、ヘッドライトをつけた車両が水を跳ねかせて走っている。
平均は、次のエリアを探さなければならなかったが、気力をだいぶ削られていた。
ふと、道路の中央分離帯を見ると、一匹の野良犬がいた。雨に濡れてびしょ濡れで、痩せ細った体を震わせて縮こまっている。
平均は、犬をかわいそうにと思いながら歩き続けるも、その犬のことが頭から離れない。
――仮に助けにいったところで、吠えられるのがオチだ。
しかし、辺りは、通り過ぎていく車の音しかない。平均と犬は、三車線分の距離が空いてる。
確実に野良犬は、平均のことを見ているにも関わらず、吠えていない。訪問営業なら、その家に近づくだけで、犬が殺気立つように吠えてもおかしくない距離だった。
きっと助けを求めているのだと思った平均は、車が通り過ぎるのを待った。次の車までに、十分渡りきれる距離を確認した。
平均は、一歩一歩、野良犬に近づいていく。
この時ほど両肩からかけている荷物が軽いと感じたことはなかった。
――きっと大丈夫。
平均は、助けたい一心で小走りに駆け寄っていった。
しかし、あと一車線のところまで来て、野良犬は体を起こした。そして、プイっと反対側の車線に飛び出して、あれよあれよと道路を渡りきってしまった。
「えっ」
平均は、ふっと、頭が真っ白になって、呆然と立ち尽くす。野良犬が助けを求めていなかったのか、平均が来たから逃げていったのか、理解することはできなかった。
今度は、平均の目の前が、パッと真っ白になった。
トラックのヘッドライトだとわかった時になって、急にけたたましいクラクションの音が耳をつんざいて聞こえてきた。
まるで、インターホンの向こうで犬がギャン鳴きするように。
一瞬の衝撃とともに、平均の力はありえないほど飛んで行った。
クラクションが遠のいていくかわりに、すさまじ風切り音が包み込む。
自身の体で切り裂いた空気がスウェットを激しく揺らす。
――平均寿命も超えることもできずに……
いろんなことが頭を一瞬でよぎる中、最後に思ったことはそれだった。
体がねじれている。
世界が回っている。
アスファルトと空の灰色が混じり合っていく。
音という音も彼方へと遠ざかっていく。
宇宙のような色した世界が目の前に迫ってくる。
そして、全身に熱く電撃のような衝撃を一瞬感じて、平均の意識は消え失せた。