遭遇、変異。そして、切り裂くもの 参
化け物の手から脱し、地に足が付いたと思ったら、酸欠のところに叫び、ましてや左手を失い血を失っている俺は、足が着いた途端にバランスを崩してふらつく。
その瞬間に俺の右を何か通りすぎたような風を感じたと思ったら、破壊音が響く。
視線を向けるとトンネルの壁に左手を肩まで埋めた化け物。その驚異的な破壊に腰が抜けそうになる。
ふらついたことで九死に一生を得た形になったようだ。
何か何かと、せめてあのナイフを手にしようと周りを見回すが近くにはない。
化け物は腕を引き抜こうともがいている。もがく度に全身至るところから赤黒い液体を撒き散らす。トンネルのコンクリート壁を破壊した後に崩れ落ちてきた瓦礫に一本しかない足を捕られて立ち上がることすら儘ならない。
無様に転がる様を見ながら、俺は俺で壁にもたれ掛かり必死に呼吸を整える。
僅かに見えたチャンスに逃げ出そうにも、グラグラと動いてもいないのに揺れる視界。
血が足りないのか、酸素が足りないのか。まぁ血が足りないのも酸素が足りないのも血液の役割からしたらそう変わりはないのだが。要は血液が足らない。
そう、その原因は単純に今は正に無くなった左手から、現在進行形で溢れ出る俺の命。
今思い出したかの様に左手の惨状を見据える。
なんせ生まれて初めて手を失った訳だから、十数年と慣れ親しんだ感覚がぷっつりと肘から無くなっているのがなんとも慣れない。動かしている感覚があるのに、動くものがない。
さっきまであった激痛も、今はもはや感じることもない。
動脈性の出血。心臓の鼓動と共に噴き出る血液。みるみるうちに辺りをも赤く染める。
確か脇の動脈押さえて止血すればいいんだっけと、いつか漫画で見た知識で右の拳で腋窩をグッと圧迫するが、血の勢いはあまり変わった気はしない。
今すぐ逃げ出して、この視界不良の貧血の状態でも真っ直ぐ走ることが出来、すぐに運良く医療関係者がいて完璧な止血を施して、たまたま近くを通った救急車に即座に運ばれなければまず助からない。それもこの怒り狂った化け物が追ってこないという前提条件が必要だ。
逃げようが食われようが、差して俺の命の長さには違いはなさそうだ。
なにをちんたらやってるのか、相変わらず化け物は瓦礫に足をとられては転倒し、左手でノロノロと瓦礫を掻き分け立ち上がろうとしている。
たぶん化け物も、俺と同じように満身創痍なんだろう。
何でかは知らないが、最初に遭遇した時からコイツは瀕死の重症だった。怪我の度合いなら俺より酷い、なんせ頭を吹き飛ばされていて、右の手足、それに加えて俺に左目を潰された訳なんだから。
その証拠に俺の命と同じように、至るところから噴き出している化け物の命。
まぁ耐久性は段違いだろうけど。
獲物を前にして舌舐めずりしてるからこうなるのかもな。本当に三流のすることだったってことだ。
申し訳程度にしていた止血を止める。
大して変わりはなさそうだし、なによりも右手が塞がる。動けば5分もないだろう。
それでいい、3分もあれば、それでいい。
無い左手に苦戦しながらリュックを降ろし、リュックのポケットからフォークを取り出す。今度はキチンと柄を持とう。今気付いたが右の手のひらもズタズタだ。食事用とはいえナイフの刃を渾身の力で握って持って刺したのだ、そりゃズタズタにもなる。
まぁこのままお互いに自滅を待つよりは、精々足掻くのがいいかもしれない。
本当は膝を折って眠ってしまいたい。
はぁはぁと喘ぐように息は整わない。
残った四肢の末端は痺れ、皮膚の色は蒼白だ。
視界は狭いしグラグラ揺れる。
冗談みたいに思考はフワフワしているし、何よりも眠い。
このくっそ寒いはずの外気が、むしろ炬燵の中でぬくぬくとしているように心地よく感じすらする。
寝落ち寸前の奇妙な至高感に、何故かやらなきゃと必死に瞼を持ち上げてRPGの単調なレベルアップをするような使命感。
滑らないように必死にフォークを握り締めて、一歩ずつ化け物へ歩み寄る。
化け物もようやく一本足で立ち上がり、俺を視界に捉えたのか、俺を真っ直ぐに見つめる。
瞳にはすでに嗜虐的な紅色はなく、暗く深く、闇色。ただただ俺を求めているのが分かる。
ギチギチと鳴る歯を隠した口は真一文字に引き結ばれ、俺の一歩を静かに待つ。
まるで、宿敵と対峙して睨み合うように。
まるで、恋人が歩み寄るのを待つように。
まるで、狩人が罠に掛かる獲物を待つように。
狭く霞む視界で、化け物を真正面から見つめると、その体格が存外小さかったのだと改めて認識できる。
背格好は自分とあまり変わらず、鋭利に伸びた爪と奇妙に発達した腕が不釣り合いだ。
抉れた頭、耳まで裂けた口角、光を反射しない深い闇色の目を除けば、顔立ちは普通の人間と大きくは変わらない。
立ち姿が非常にアンバランスなのは右半身がほとんどないからだろう。
あれほど強大で脅威的で、死が形を成したような絶望的な存在でも、恐怖という色眼鏡を外せばこんなに小さく見えるものかと変に感心する。
ジリジリと狭まる両者の距離。
駆け出せばすぐに縮まるような距離を、欠伸が出るような速度で詰めていく。
もう既に、お互い手を伸ばせば触れられる距離。
お互いの全存在を掛けて、フォークを、左腕を突きだす。
当然、木に生っているリンゴが地に引かれるように、太陽が東から上って西に沈むように、レベル100の主人公がレベル1の雑魚敵に無双するように、当たり前に化け物の攻撃の方が速かった。
普段なら目で追うのもやっとであろう速度の腕が、今はスローモーションに見える。
凄まじい速度で振るわれる腕が、自分の顔面めがけて迫ってくる。走馬灯でも見れたら幸せなんだろうが、生憎とそんな気の効いたシチュエーションはなさそうだ。
最後の力を振り絞った右手のフォークは、落とさないように腰だめに突き出し始めたばかりで、ちっとも進んでいない。
VITどころか、STRもAGIも、あらゆるステータス面では、そりゃ俺の方が弱いだろう。種族チートだろ。
これは負けイベントで、窮地に追い込まれてチート能力に覚醒だとか、都合のいい謎の存在が助けに来てくれるとか、そんな簡単には行かなさそうだ。
死の淵で思考が引き伸ばされて、もう一生あの腕は俺に届かないんじゃないかと錯覚しそうになる。
だが嗚呼無常かな、そんなことはなかった。
一生届かないとか、そんなことはなかった。
あの腕は確かに俺を貫き、臓物をあたり一面に撒き散らす。
鋭い一撃はまるで濡れた指でティッシュを破るかの如くアッサリと俺を貫通した。
確かにそんなことはなかったが、どうやら俺にも化け物に、唯一勝ってたステータスがあったらしい。
LUC
体を倒すように俺に一撃を見舞った化け物は、どうやら瓦礫を踏んづけていたらしい。
ものの見事に足をとられて前のめりになった化け物の腕は、狙っていたであろう頭を大幅に逸れて俺の土手っ腹を貫通した。
貫いた太い腕は消化管やらなんやらの中身を一切合切纏めて外にぶちまけてくれていた。なんとまぁド派手な死に方だ。失血死なんかよりは余程伝説になりそうだ。
致命傷のところにダメ押しの致命傷。
最早生きてるのか死んでるのか自分でも分からない状態でも、一つだけまだやらねばならないことがある。
お誂え向きに、突き出された化け物の顔面。
あれほどスローだった右腕が突如として動き出す。
腰だめに突き出したフォークは化け物の奥へ奥へ奥へ奥へ。
吸い込まれるように吸い込まれるように吸い込まれるように吸い込まれるように。
フォークは化け物の右の眼窩を刺し穿ち、手首ごと貫けと化け物の頭を思い切り押し出す。
銀製のフォークは強い抵抗もないままに、その刀身は化け物の眼窩を貫き、頭を穿つ。
ビクリと化け物の全身が一跳ねしたかと思うとだらりと俺に寄りかかるように力が抜ける。
既に動く様子はなく、どうやら俺の勝ちでいいらしい。この有り様で勝ちといえるかどうかは……知らないが。
血生臭い闘争が終結した。
死に掛けと死に掛けの泥仕合。
化け物と人間の名試合。
誰も知ることのないであろう殺し合い。
綱渡りどころではない、終始圧倒され弄ばれ何から何まで負けていた。左前腕は食われ、血は噴水状態、土手っ腹は穴が空いてるし。
アホみたいな運の悪さで出会ってしまったが、バカみたいな運の良さで勝てた。
化け物はサラサラと末梢から崩れてきており、どうやらコイツは死体は残さないようだ。
俺の死体は残るから、とんでもない猟奇的な殺人現場になってしまうだろう。
一足先に化け物は逝ってしまったが、俺もどうやらタイムリミット。あれほど噴き出していた血は勢いを失い、本格的に頭が働かない。化け物の腕までサラサラと崩れ俺の土手っ腹が空洞になり、余計に命が加速する。
化け物の支えを失って、俺も立っていられなくなる。
頭を支える力もなく重力に引かれるままに倒れ込み、トンネルの壁に強かに頭をぶつけそのまま壁にもたれ掛かるように座り込む。
痛みは感じない、感じるのは寒さだけ。
右手に僅かな重み。
極めて狭くなった視覚はそれを捉えた。
握りしめすぎてそこだけ硬直したかのように未だにフォークを握り締めていた。
フォークの先に何かが刺さってる。
化け物の目玉かと思ったがそうではなさそうだ。どちらかというと硬質で真っ黒な大きめな飴玉ほどの大きさ。
ナイフの時と同じようにシュウシュウと煙が上がっている。
フォークに刺さってるいるからか。
バイト帰りで空腹だったからか。
お腹と背中が繋がっているからか。
先ほど左前腕を喰われた腹いせか。
別に旨そうにも感じないが、悔しかったから食ってやった。
ごりごりと味わってみるが味は感じない。奥歯で噛むとアッサリと割れ、ジャリジャリとする。
捕食者から披捕食者に引きずり下ろされたが、見事に捕食者に返り咲いたのだ。
奇妙な満足感。
ざまーみろと、一つだけ悪態をついて、俺の意識は闇へと落ちていった。