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如何物喰い  作者: 蓮の華
導入
3/51

導入 弐

本日もお勤めごくろうさんっといったところで、今日の講義も終了。

ただ座って聞いてるだけでお勤めなんて、社会人の皆様から言わせたらちゃんちゃら可笑しいかと思うが、サボらずに講義を受けているだけ学生なりの勤めを果たしているのには間違いないわけだ。そうに違いない。


そんなくだらないことを考えつつ、家路につく。今日はバイトあるし、部には寄らずにまっすぐ帰る。


講義が終わり明日は土曜日、花金というのも相まってにわかに騒がしくなってる大学構内。これから何処に行くかとか所々で駄弁っている学生達。正に花々しく、桜の季節も未だ遠いのに至るところに会話の花が咲いている。


勤労学生である俺は、人混みをすり抜けるように正門へ向かう。




「ちょっとそこいく仏間後輩さん」




騒がしいなかでも不思議と耳に届いてくる、女性にしては低めの声。

振り向くといつもの目を半分以上覆う陰気な髪型をした部長がいた。


「こんちゃっす、先輩」


「はい、こんちゃ。そんなに急いで校門へ、今日は部には来ないのですか?あぁ、今日も勤労ご苦労様です」


独特な会話のペース、言ってもいない回答を先回りに当てられる。

英之助も変人だが、この名無先輩も大概愉快な人だ。


「お察しの通りバイトですよ、苦学生には辛いところです」


「辛そうには見えない程度には楽しそうでなによりです、勤労は美徳です、金銭目的大いに結構、れっつ勤労」


「まぁバイト先のマスターいい人ですからね。それに、夏の遠征費も今から準備しなきゃですから」


「素晴らしい心構え、今から準備すれば件の全国津々浦々地域妖怪完全攻略の旅も夢ではありませんね」


「夢は夢のままだから輝くんですよ…」


「それは残念、では卒業旅行にしましょうか、全世界津々浦々地域妖怪完全攻略の旅は」


「諦めるつもりはないんですね…。つかスケールが一回り上がってます…」


長い前髪でいまいち表情は読めないが、この人も一緒にいて飽きない人だ。


「そういや先輩、今日午前中に部に顔だしたんすけど、鍵開けっぱでしたよ?」


「あぁ、それは失態。急に呼び出しを受けてしまい失念していました」


「呼び出し?なんかしたんですか?」


「仏間後輩さんは私をなんだと思っているのでしょうか、品行方正清廉潔白の私がなにか良からぬ事でもしているかのようなその言動」


「前に構内でこっくりさんとチャーリーチャレンジとウィジャボード平行してやってる人はたぶん品行方正とは言い難いのではないかと…」


「狐狗狸さんは由緒正しい女の子の遊びですから」


「いや仮にそうだとしてもあとの二つは知ってる人の方が珍しいですからね」


「…これがカルチャーショック」


「いや文化的にもですがこっくりさんでも大多数の人はやらないですから」


しかもそのこっくりさんやっててガチで指が離れなくて背筋が凍った(結局俺もやってる)。お帰り頂くまで一時間位かかった。二度とやらない。


「まぁ話はずれましたが本当になんの呼び出しだったんですか?」


話を本筋に戻した所で、先輩が少し視線を宙にやり、僅かな間考え込む。


「……いえ、実のところ、私の就職先からの呼び出しでして」


就職が決まったという、英之助から聞いた話を思い出した。


「あー、英之助から聞きました、就職内定したんですよね。それは確かに焦りますね、取り消しかとかだったらマジヤバイっすからね」


「まぁ取り消しではなく、就職までの課題、といったところでしたがね」


「さいでしたか」


まぁ知り合いの会社ならそうそう取り消しはないだろう、しっかしこの早い時期から課題とは、社会人は楽ではないな。


「それでは仏間後輩さん、気をつけて、近頃なにかと物騒です、夜道には、特に」


「あ、はい、先輩は部活ですか?」


「いえ、私も課題を出されたからには早々に片付けてしまいたいので…少し寄るだけです……今度は鍵はキチンと閉めますからご安心を」


再び先回りされた回答に苦笑いを浮かべ先輩に手を振る。


「まぁ部室には本しかないっすけどね、近頃物騒ですからね。先輩も気をつけて」


先ほど言われた言葉を返すと今度こそ校門を出ようと歩を進める。





……………つけて





何か聞こえた気がしたが、そのまま学外へと歩き出した。






大学を後にしてバイトへ直行するには時間的にも早く、とりあえず家に寄って軽く腹ごしらえしてから行くことにし、途中でコンビニに寄りながら帰路につく。


さほど急ではない階段を上がり、キーホルダーから家の鍵を探し当て差し込む。

外気と変わらない室温にうんざりしながら電気を点けると薄暗かった部屋が明るく照らされる。


エアコンを暖房に入れ、朝残していった洗濯や食器を片付けていく。

男の独り暮らしは雑なもので、自炊に燃えたのは最初の三ヶ月程度で今はもうほぼコンビニ、外食メインだ。実家から時折乾麺だ米だのと送られて来たときは自炊をする。と言っても米を炊いて副菜を買ってくる程度で自炊とは言い難いが。パスタなんかも茹でて市販のソースをかけるだけ。自炊の方がコスパいいのは分かるが、手間を考えるとどうしても横着してしまう。


ようやく暖まってきた室内でコンビニから買ってきたサンドイッチとお茶を食べながらスマホを確認すると、妹君からメッセージが届いていた。

筆まめとは言い難い俺は途中で返信をよく忘れるが、妹君は週二くらいのペースで俺の生存確認をする。

妹君よ、そんなに俺は死にそうか?そのうち祟られそうな活動はしているが。


『兄君、生きているかい?肩が重いとかはないかい?窓の外には女の人はいないかい?』


怖いわっ!


『怖いわっ!』


気持ちそのまま返信すると、すぐに既読が付き返事がくる。


『しかし、本当に怖いのは人間さ…ほら、今も兄君の部屋の前には金の亡者が』


『集金だから!!列記とした集金だから!!あんまり見ないからって滞納はしてないから!!ちゃんと見るとそこそこ面白い番組もあるから!!』


『私も土曜の朝8時15分からよく見るね』


『再放送枠…!休日でもボーッと生きてる訳じゃないのね』


まぁ妹君とのやりとりは終始こんな感じだ。

確かに豪華絢爛一騎当千以下略な妹君だが、両親の教育方針?のお陰でこれまた愉快な性格をしている。人見知りはあるようだが、元々外面は良い(兄の贔屓目)し、勉強も出来る(オカルト友人クラス)キチンとTPOをわきまえ変な発言も自重出来る(両親よりは)。


サンドイッチを食べきり、部屋干しながら洗濯も終わったところでそろそろバイトに出る時間。妹君とのやりとりをバイトの時間、とばっさり切り上げ、リュックに荷物を詰めて再び寒空の下へ。


俺が家を出るのと同時にバタンッと隣の部屋の扉が閉まる音がする。また顔が見れなかった、本当に絶妙にすれ違うことが多い謎の隣人。扉の開閉音から察するに外出する機会はそこそこあるはずなのだが、どういうわけかかち合わない。

二年弱も住んでて今さら挨拶回りも出来ず、謎は謎のままだ。引っ越し当初はご近所マナーって感覚も薄く、初独り暮らしに地味に舞い上がり、隣人に挨拶なんて考えもしなかった。


ちなみに二階は俺と隣人のみ。一階は全て埋まっている。下の階の人とは時たま顔を会わせ挨拶する程度の交流だ、まぁだからこそ全く会ったことのない隣人が不気味な訳だが。

まぁそんなこともあるのだろうと自分に言い聞かせ、さほど急ではない階段を下り、すでに薄暗く寒さが増した街を再び歩き出す。


俺は別に自転車に乗れない訳じゃないし、運転免許もある。

大学まで自転車を使えば10分は短縮になるし、バイト先へも同様。ただ、それなりに栄えた街は交通の便には事欠かないし、スーパーやコンビニも手近にある。


遠出の機会がそんなに多くはない俺にとって自動車はもて余すし、通いに使うとしても交通事情からむしろ歩きの方が早いこともある、更にはアパートの駐車場を使うと別に費用が掛かる。

まぁ自転車くらい寝坊した時とか緊急用に用意しといてもいいかもしれないが、生憎と寝起きの良い俺にとっては早急な必要性がないために後回しになり現在に至る。


信号待ちをしている時にスマホを取り出し時刻を確認する。

時間には余裕がある。

他には妹君からメッセージのお知らせ。


『頑張って』


可愛い妹君からの短いエールにほっこりしながら、僅かに軽くなった足取りでバイトへ向かう。





街中の一角にある喫茶店。

喫茶El Dorado。シックな外装に落ち着いた雰囲気。周辺のマダム達の憩いの場。

喫茶店としては比較的遅い時間までやっており、軽食のランチだけでなくディナーも出している少し変わった店。酒類はワイン位しかないが、そこそこな種類の銘柄が置いてある。

マスターが退職後の趣味でやってる店で、利益度外視で始めたが存外黒字経営だとは、主に事務経理を担当しているマスターの奥さんの話だ。

俺の他にも二人ほどバイトがいるが、元々マスターと奥さんで回せる位の客席しかなく、ランチ、ディナータイムなど手が欲しいところに入るだけなので、他のバイトとは会うことは滅多にない。

時給は高くはないし入れる時間も長くないが、非常に融通が効くし、マスター夫妻がとてもいい人でかなりの当たりバイトだとは思う。必要であれば短期バイトを入れればいいし、短期でガッツリ稼ぎたい時や、用事があるときには一週間くらいの休みなら申請すればあっさり通る。

バイトを雇うようになった切っ掛けも、奥さんの負担軽減のためだけらしい。


カランカランと小気味良く鳴るベル、扉を潜ると、カウンターには白髪をオールバックに撫で付け、これまた白髪の整った口ひげをたくわえるマスターがシルバーを磨いている。

客席には一番奥でコーヒーを啜る男性客の姿しかない。


「お疲れ様です、マスター」


俺の挨拶にコクリと頷くマスター。

キャラを作っているのかは定かではないが、必要時以外はほぼ喋らないマスター。というか、奥さんが非常に良く喋る人なので相対的に喋らないのかもしれない。


カウンターの横をすり抜け、キッチンの横にある更衣室へ。

かなり狭く着替えるには体の角度を考えなければならない狭さだが、ちゃっちゃと着替える。着替えるといっても上をYシャツに着替え、El Doradoと書かれた紺のエプロンを着けるだけで、下はジーパンのままなのだが。


更衣室からフロアに出ると、相変わらず閑散としたままの店内。バイトを初めて一年以上は経つため特に指示を待つことなく仕事を始める。

洗い場には食器はない、まずは店内のテーブル吹き、床の掃除は埃が立つため、まだ男性客がいるので今はしない。続いて玄関先の掃き掃除、店内で男性客がコーヒーの追加を頼むのを聞きつけ店内へ戻り、マスターからコーヒーを受け取り男性客の元へ。

掃除メインのチマチマとしたことが多いが、これからディナーでマスターはキッチンに籠り勝ちになるため、出来ることは今やっとくのがコツ。


そうしているうちに徐々に客足が増えてくる。

客層は広く、若い二人組の男女、壮年の女性一人、夫婦と子供の家族と様々な人が来店する。

完全に客がいなくなることはなく、慌ただしくディナータイムが過ぎていく。


注文取りに配膳もそうだがレジもバイトの役割、古いタイプのキャッシャーで、近頃良く見かける金を入れれば自動でお釣りが出てくるタイプでは勿論ない。

自分で書いたきったない文字でも、非常に短縮した自分しか分からない注文でもレジ打ちもほとんど自分のため、基本誰も困らないのは助かる。

食器を片付けては洗い、テーブルを拭き、折を見ては水差しの補給。

徐々に客足が落ち着いてくると、マスターもカウンターに出てきては飲み物の注文を片付けていく、その間に俺はキッチンの片付け、ゴミ捨てをしていく。


こう、誰かと上手く仕事を回せていると不思議と楽しく感じるから不思議だ。

バイトであれグループワークであれ、噛み合わないときっついだけだ。短期のバイトだとよくサボりがいることもあり、真面目にやってるのがバカみたいに感じることもある。

その点このバイトがいかに当たりなのか良く分かる。持論だが、仕事は内容より人間関係が肝になると思ってる。

付き合う友達を選べる日常生活ならまだしも、バイト、延いては社会ともなれば人間関係は選べない。自分達に出来るのは会社を選ぶところまでなのだ。

人間関係を良好にするコミュ力が高い人類からすれば問題ないのかも知れないが、生憎とコミュ力が高いとは言えない自分からすると死活問題だ。

だから尚更、こんな気楽な生活から就活に励もうと決起するのはかなりしんどい。


こうして当たるかも分からないブラックな状況だけを想像してしまうのは良くないのは分かる。悪いところがピックアップされているだけで、ホワイトの方が確率的には高いし、残業だってキチンと残業代が出れば家計の一助だ。

だが、理屈では分かってもこの不安感は理屈じゃなく、もっとこう、漠然とした未来への未知感なのだと思う。知らないから怖いのだろう。

掃除の手を止めないままに、昼に英之助とした話の名残がとりとめもなく頭を過る。


ゴミを一纏めにして店の裏手に運び出す。外から吹き込んだ冷たい風に腕を擦りながら店内へ。

手を洗いフロアへ戻ると、マスターが最後の客の会計を終え、カランカランと小気味良い鐘の音が響いているところだった。

自分の汚い字を読めるとはさすがマスター。最初の頃は聞かれたがな。


「あ、マスター、ゴミ捨ては終わりました、キッチンは閉めますか?」


マスターは口ひげを擦りながら一時考え、首を横に振った。


時刻はすでに宵の口を過ぎようとしている。今からでは夕食と言うより夜食だ。おそらく、客足があっても軽食やドリンクくらいだが…まぁたぶん、あれだろう。


「分かりました、んじゃフロア掃除しちゃいます」


最後の客の食器を片付け、心持ち気合いを入れて掃除道具を持ち出す。






結局定時にcloseの札を立てるまで客足はなく、玄関の掃き掃除をしてこれにて一通りは終了。後はキッチンの火の元を落として着替えて帰るだけだ。


カウンターにマスターの姿はなく、その代わりに店内に漂う非常に食欲を誘う匂い。


キッチンから出てきたマスターの手には大盛りのパスタ、アサリが乗りボンゴレのようだが、雑多に野菜や魚介が入りシーフードパスタと言ったところか。


時折、保存の効かない材料や期限の近い材料があるときにマスターはこうして賄いを作ってくれる。


なにも言わずに視線で俺をカウンターへと促し、目の前にパスタを置くと、自分用にコーヒーを入れ、自らもカウンターに座る。


「ご馳走になります」


賄いとはいえ、マスターの作る飯は旨い。

この店の黒字経営はきっとこのマスターが作る料理のリピーターが多いからに違いない、と思わせるくらいに旨い。

…まぁお値段は俺にとってはリピートするには地味に高いのだが。

だからこうして賄いを頂けるのはかなり嬉しい。先ほどキッチン閉めなくて良いと言われたときから密かに期待していた。


「いただきます」


きっちりと食事の挨拶をしてフォークを構える。

かなりの大盛り、大きめの海老やアサリ、イカ、ベーコン、ベビーコーン、パプリカその他諸々。皿の端には何故か一尾だけエビフライが乗ってる。たぶんお子さまランチの残りだろう。

具材が多く味が喧嘩しそうなものだが、トマトソースメインで赤唐辛子、魚介に非常に合う。パスタは細目、野菜は軽く茹でてあり口当たりが良い。ペスカトーレ?アラビアータ?まぁなんにせよ食が進む。ほどよい辛味にじんわりと体の芯が暖まる。

そこまで食が太いわけではないが、勤労後ということもあり、二人前はあろうかといったパスタをペロリと食べ切る。


思わず黙々と食べきってしまったが、マスターもなにも言わずにコーヒーを啜っていた。


「御馳走様でした」


きっちりと手を合わせる。食材への感謝よりは、帰ってからコンビニ飯を一人で食べる予定だった俺を救ってくれたマスターへの感謝を多分に含む。


苦しくなった腹を満足げに撫でる。満腹で動くのが億劫になるが、食器は自分で洗い水切りし、着替えをしてくる。


その間にマスターはホットのカフェオレを淹れてくれていた。短くない付き合い、この辺りさすが分かってらっしゃる。どことなく腐れ縁の友人にその姿が被る。


マスターのカップを洗う音だけが響く店内。甘くないカフェオレに満腹の腹を癒されながら、静寂を楽しむ。

最初こそはこの静寂に慣れず頻繁に話を切り出しては、マスターが頷くことを繰り返していたが、最近はそれももう少ない。

別にろくに来ない返事に飽いたのではなく、別に話題がないわけでもなく、マスターとの静寂はある意味格好いいのではないかと変な解釈に身を任せてみたら、存外これが心地よい。



必要なら話せばいい、不要なら黙ればいい。



そんな許容された気になって、気が楽になる。


まぁ、人の心の内は分からないから、もしかしたらマスターは気まずく思っているかもしれないのだが。


一通り自分勝手な静けさを楽しんだ後、マスターがキッチンの火の元を確認し、キッチンの明かりを落として戻ってくる。いつもならそれを合図にこのカップを洗い店を出るのだが、二口ばかり残して口を開く。


「マスターは」


誰かに話す。今の俺にとっては、必要だった。

腐れ縁の友人にしたように、不安を薄めるために。


「マスターは趣味でこの店をやってるんですよね?」


いつものルーチンから外れた俺の言動に、眉をひとつ動かすことなく一つ頷くマスター。


「俺って再来年には就活で、なんつーか、こう、これからどーしようっつーか………色々不安で」


纏まりのない話、愚痴るくらいならスラスラ出てくる言葉も、人生相談染みた話にはどうにもこうにも自身の表現力のなさが情けない。


「自分は何がしたいのかなって。就職して働いて…でも、それが嫌な訳じゃなくて、平凡が嫌な訳じゃなくて…」


そう、働きたくないわけじゃない。そりゃ働かずに食っていけたら最高だとは思うがそうはいかないのは重々承知してる。

人並みに親を安心させたい気持ちもあるし、いずれ結婚だ家庭だと夢想することもある。

ただそれが漠然とし過ぎていて……怖いのだ。



あーだこうだととりとめのない不安をポツポツと口に出していると、不意にマスターが食器棚の引き出しを開けて、銀製のナイフとフォーク、スプーンを取り出す。


それをカウンターに置き、大体の時を閉ざしている口を開く。


「磨いておけ」


「へ?」


面食らって思わず食器とマスターを交互に見てしまう。


「もし何もかもダメだった時には、磨いたこれを持ってこい。出来次第では雇ってやる、バイトじゃなくてな」


差し出された食器は照明を反射し光っているが、細かい傷が幾重にも付いている。


「どうせ継ぐ宛のない店だ、オーナーとして投資しておくのも悪くない」


渋く低い声で告げられた言葉は、じんわりと心に染みる。

ホントにこの人はいい人過ぎて。

会ったことはないが自分に祖父がいるならばこんな人だと誇らしい。


差し出された食器を恭しく受けとる。

軽く手に取っただけで、目に見えて自分の指紋が付くのが分かる。




これはこれで、中々難しい就職課題になりそうだ。


それでも、一つだけでも示された道に、こびりついていた不安は成りを潜めていた。







「ありがとう御座いました…変な話を聞いてもらって」


カップを手早く洗い、店を後にする。一緒に店を出て鍵を閉めたマスターに頭を下げる。


再び重く開くことのなくなった口は、口を開くことなくそれ以上は不要だと言わんばかりに一つ頷き、マスターは店の裏手に停めてあるセダンの車へと向かっていった。



寒空の中、体の芯がまだ暖かい。

それは香辛料のせいか、カフェオレのせいか、マスターの言葉のせいか。

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