動物たちの大脱走 1
翌朝早くに目が覚めた弥宵は、洗面所に行き、冷たい水で顔を洗った。徐々に意識がはっきりして、ぼんやりとした脳内が晴れていく。
「全然、眠れなかった……」
羊吉の一件は、弥宵に大きな衝撃をもたらしたらしい。深夜になっても眠くならず、お陰で補習プリントの残りも完璧に仕上げてしまった。いや、それは元々、やらなければならないことだったのだが。それ以外の課題も終わらせた後は、小説の続きを書いてはみたものの、思ったように筆が進まなかった。何をしていても、あの羊が人型になった瞬間を思い出してしまう。
(撫でていいって言われて、ドキドキした)
小説のネタに使える、と喜ぶべきところなのかもしれないが、あんな美形に近くで微笑まれた経験のない弥宵は、彼にどう対応していいか分からない。
「落ち着け……私。あれはあやかし。羊だったんだから」
「……おはよう」
「ひゃっ!!」
顔にタオルを当てて、もごもごと独り言を呟いていると、背後から突然声を掛けられ、弥宵はすぐに振り返った。眠くて気怠そうな、それでいてハスキーで低い声。羊吉だ。慎太郎に着替えを借りたらしく、灰色の浴衣姿だった。
「お、おはよう! あ、洗面所、使い方分かる?」
「……うん。多分、大丈夫。分からなかったら聞くから」
「羊吉の分の歯ブラシも出しておくね」
「ありがとう」
弥宵は洗面台の下の収納スペースから、新品の歯ブラシを一本出して、鏡の裏に備え付けてある差し込み口に入れた。先程の独り言を聞かれていなかったか、それが気がかりで、そそくさと済ませて場所を譲る。羊吉は何も言わず、寝ぼけ眼のまま、弥宵に頭を下げて、水を出し始めた。
(よかった。聞かれてないっぽい)
羊吉も歯磨きとかするんだ、とわずかな余裕のできた頭で考えつつ、弥宵は朝食を作るため、台所へと向かった。
*****
羊吉は、好き嫌いがなく何でも食べられるが、ラムやマトンなどの羊肉だけは、「共食いしている感じがする」らしく、かなり苦手のようだ。それは無理もないと、弥宵と慎太郎は笑った。飼育されている間は草と水くらいしか食べられなかったため、弥宵の手料理を嬉しそうに頬張る羊吉の姿を見て、弥宵はようやく現実を受け入れ始めた。
だが、予想外の問題は、登校した後だった。羊の行方を聞かれる心の準備はしていたのに、それを遙かに上回る事態になってしまったのだ。
「あっ、弥宵!」
弥宵が校門を過ぎたところで、中で立ち番をしている真由香が駆け寄ってきた。
(真由香ちゃんが最初に聞いてくれるんだ。助かる!)
何も知らないふりをしなくてはならないのに、弥宵は安堵のあまり、ついつい微笑んでしまった。
「真由香ちゃ……じゃなくて、稲葉先生。おはようございます」
「おはよう。って、それどころじゃなくてね! 昨日、弥宵が飼育当番だったんだよね?」
「はい。それがどうかしたんですか?」
「大変なの! 飼育されてる動物たちが全員いなくなってて!」
「えっ……全員!?」
演技ではなく、弥宵は素で驚いた。なぜだ。逃げ出したのは、羊吉だけのはずだ。
「とにかく、弥宵が登校したら職員室に連れてくるように言われてるから、一緒に行くよ」
「あ、うん。あの、私、何もしてない……よ?」
「そんなの分かってるわよ! ウサギ小屋と鶏小屋は、外から壁が壊されてたんだって。鍵を持ってる飼育係なら、わざわざそんなことしないでしょ? それに、弥宵は一生懸命世話をしてたんだし」
「そ、そそ、そうだね……」
弥宵は再び混乱していた。ここに羊吉がいたら、何か知っていないかを問いただしたいくらいなのだが、あいにく今は、寺で掃除の手伝いをしている。
(羊吉が他の動物を逃がした……わけじゃないよね?)
昨夜は、他の動物たちについて、羊吉からそういう発言は聞かなかった。弥宵が気を失っている間に、弥宵を背負ったまま、小屋の壁を壊すなんてそんなことができるのか。それに、羊吉の性格上、荒々しいことはしなさそうに思える。
(なんで? 誰がそんなことを?)
逃げたウサギや鶏は無事なのだろうか。捕獲目的で、誰かが盗みに入ったという可能性はないだろうか。彼らが心配で、胸が痛む。
「弥宵……大丈夫?」
「……うん」
弥宵の歩く速さが落ちると、それに気付いた真由香が、気遣わしげに振り返る。とにかく、職員室には行くしかない。鞄を持ち直し、弥宵は前へと進んだ。




