妄想女子と羊吉さん 5
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弥宵が目を覚ますと、薄暗い空間に、馴染みのある木目が見えた。弥宵の部屋の天井だ。布団の中にいたらしく、セーラー服は着たままだったが、身体の上には薄めの毛布が掛けられている。いつの間にか家に帰ってきたらしい。
ゆっくりと首を捻って窓側を見ると、障子から月明かりが差し込んでいる。もう夜になっていた。
(いつから、寝てたんだっけ?)
眠る前の記憶が曖昧で、よく思い出せない。放課後に補習をして、真由香と話して、飼育小屋の世話をして。それから、羊吉が脱走して――。
「あ!」
弥宵は飛び跳ねるようにして起きた。急に身体を起こしたからか、少しだけ目眩がしたものの、どこかに異常があるような感じはしない。健康そのものだ。
「あれ、やっぱり夢だった?」
記憶を失っているのが怖いが、どうせ妄想でもしながら家に帰ってきたのだろう。だって、ありえないのだ。羊吉が、弥宵の想像したそのままの姿になるなんて。
「あ、お父さん! お腹、空かせてるかも……」
弥宵は父と二人暮らしだ。母は、弥宵が生まれた直後に失踪したらしい。彼女はもともと天涯孤独の身で、父と出会ってすぐに恋に落ち、慎太郎がプロポーズする前に弥宵を妊娠し、出産した。よって、彼女の存在を示すものは何一つなく、写真すら残っていない。弥宵は、母の顔を知らなかった。父も、無理に母を捜して連れ戻すことはしていない。
しかしながら、弥宵の父・稲葉慎太郎が全力で弥宵に愛情を注いでくれているおかげで、寂しいとは思わなかった。弥宵の祖父から引き継いだという寺の住職を務めており、優しくおおらかで人徳もあって、この町では知らない人はいないほどの有名人だ。弥宵は一緒に寺に住みながら家事全般を手伝いつつ、慎太郎のことを父としても住職としても尊敬している。
とにかく、早く夕食を作らなくてはならない。布団から抜け出して、シャツと膝丈のズボンに着替え、制服をハンガーに掛けた。そのまま部屋を出て、台所へと向かう。
台所の扉の窓から照明の光が漏れていて、既に誰かいることを示していた。慎太郎だろう。
「この町に来たのは、どのくらい前なんだい?」
慎太郎の声がして、弥宵は扉の前で足を止めた。父が、誰かに話しかけている。新しい檀家の人間だろうか。だが、生活スペースまで客を入れることは、まずない。よほど親しい人間でない限り。
「……三年と少し前、だと思います。力尽きて、河原で昼寝をしていたときに、通りかかった猟師に捕獲されてしまって」
「そうか。それは災難だったね」
「あちらは保護のつもりだったんでしょう。そのまま学校で飼育されるとは思いませんでした」
「え!」
聞いたことのあるハスキーな男性の声に、弥宵は慌てて扉を開けた。慎太郎の坊主頭が見えたかと思えば、その隣には白髪の男性――自分で羊吉だと名乗った彼がいる。弥宵はあんぐりと口を開けたまま、震える手で彼を指さした。彼も弥宵に気付いて、僅かに口角を上げる。笑っているようだ。
「な、な、なんで……!?」
「弥宵、目が覚めたか。羊吉くんが弥宵を連れて帰ってきてくれたんだよ。おんぶして」
「えっ……な、にそれ……」
「はは、まだ信じてないのか?」
あれは、本当に起こったことだったのだ。気絶してしまった弥宵を、羊吉が寺まで運んできた。そして、慎太郎はそれを自然に受け入れている。驚いているのは弥宵だけのようだ。慎太郎は豪快に笑い始め、羊吉は座っていた椅子から立ち上がり、弥宵の前へとやってきた。弥宵は驚き仰け反って、その顔を恐る恐る見つめる。
「弥宵のお父さんが“あやかし”に理解のある人で助かった」
「あや、かし……?」
「妖怪の類いだ。もっとも、僕の場合はあやかしと人間の混血だから、少し特別で……」
「ま、待って待って。待ってください!」
(あやかし? 混血?)
そんなことを一度に言われても、弥宵に理解できるはずがない。そんなファンタジックな世界は、小説やゲームの中のもので、現実には持ち込めないのだ。しかし、目の前の羊吉の存在は、科学的にどう説明するのか。白髪、螺旋状の角、ボロボロの衣服に茶褐色の肌。弥宵は、それを二次元でしか見たことがない。
「慎太郎さん……弥宵はどうして混乱しているんですか?」
「ああ、ごめんな。今まで、そういう教育をしてこなかった」
「え? え?」
「弥宵、とりあえず座りなさい。説明しよう」
羊吉も困っているようで、助けを求めるように慎太郎を振り返る。慎太郎は申し訳なさそうに苦笑いを浮かべて、弥宵に対し、椅子に掛けるよう優しく言った。




