人間とあやかしの恋 1
稲葉弥宵は、たまに思う。
今、目の当たりにしているこの現実は、もしかしたら自分が妄想した世界なのではないか、と。あまりにも非現実的なことが続きすぎたのと、弥宵がこうだと願えば、だいたいその通りに叶ってしまうことが、その疑問を膨らませていた。
(いつか、目が覚めて……長い夢を見ていたって気付くのかな)
ならば、夢から覚めずに、この楽しく心温まる世界でずっと過ごしていたい。そう思うのだが、残酷にも目前に迫ってくる大学入試が、これが現実だと教えてくれていた。
羊吉も実兎も天馬も、寺に残ることを喜んで選んでくれた。実兎には名前を再び返還してあげて、また一緒に学校に通っている。羊吉と天馬を来訪の目的としていた客は徐々に減り、今、寺は以前の穏やかさを取り戻しつつある。
そして、丸岡という記者のフリをしたブローカーは、弥宵が呼んだ警察官により連行されていった。
「天馬、そっちの掃除、終わりそう?」
「あ、はい! 弥宵さんは先に上がってください。お勉強があるんですよね」
「うん、ありがとう」
秋晴れの下、休日の掃除を終えた弥宵は、道具を片付けて家に上がることにした。その背後で、足音がする。
「結局、皆出て行かなかったのか?」
「なんだよ。つまんねー」
「あ、鷹臣さんと直鷹さん!」
本堂に繋がる通路を、二人が肩を並べてやってくる。彼らの台詞に、弥宵は笑った。
「二人が撃退してくれた人、先日警察に御用になったようです。その節は大変お世話になりました」
「そうか。弥宵も、顔が晴れやかになったな」
「へへっ。今、毎日が楽しいですよ。あの時は見苦しいところをお目にかけてしまって……」
「まったくだ。あいつらがいなくなって、お前がさぞかし寂しがってるだろうと思って、来てやったのに」
「そうなんですか? 直鷹さん、ありがとうございます! あの、いつでも会いに来てくれたら、それだけで嬉しいですよ」
弥宵が礼を述べると、直鷹は鼻の頭を掻いた。照れくさかったようだ。
「おや? おやおや? 直鷹……お前」
「な、なんだよ」
「……惚れたのか?」
「ばっ! 違う! だって、こいつは……」
「弥宵ーっ!」
名前を呼ばれ、弥宵は声のした方を振り返る。この声は――弥宵の大好きな声だ。
「羊吉、どうしたのー?」
「お昼ご飯できたー! 天馬も連れてきてー!」
「はーい! じゃあ、呼ばれたので、また」
「ああ、また……」
直鷹はまだ何かを話したがっている様子だったが、弥宵はそこで切り上げて家の中に戻ることにした。ちょうど片付けを終えた天馬を伴って、台所前の食事スペースと向かう。
「あ、秋刀魚の塩焼きだー! おいしそう!」
「味付けされてあったのを焼いただけだけどね」
「カボチャの煮付けもある!」
「こっちは弥宵に習った通りに作ったよ」
羊吉は日々の料理の手伝いから学び続け、今では包丁を扱えるし、一人でもある程度作れるようになった。レパートリーは増やしている最中だ。
「うん、おいしい。ね、天馬」
「はい。すごいです。俺も作れるようになりたい」
「よかった。おかわりもあるから、たくさん食べてね」
背の高い彼にはいささか窮屈で可愛すぎるエプロンを着けて、羊吉はせっせと食事の世話をしてくれている。
(これは……いい旦那さんになりそう)
掃除、洗濯、炊事はどれを任せても問題ない。加えて、たくさんの女性たちを虜にしたあの容姿なのだから、弥宵が骨抜きになるのも仕方がない。じっと見つめていると、視線に気付いた羊吉が笑いかけてくるので、弥宵は慌てて食事に集中した。
今日は、実兎がクラスの友達と出かけており、慎太郎も檀家への挨拶に出ているので、寺にいるのはこの三人だけだ。手分けして作業すればすぐに家事を終えられたため、この後、弥宵は自室で受験勉強をすることになっている。
「ごちそうさまでした。おいしかった!」
「うん。お粗末様でした。調味料のみりんと醤油がなくなりかけだから、僕が後で買ってきておくね」
「ありがとう、助かる。夜は私も一緒に作るから。それじゃ、部屋に籠もるね」
「頑張ってください、弥宵さん」
羊吉と天馬を残し、弥宵は自室へと向かった。本やテレビゲームの類いは、全て段ボール箱の中に入れ、簡単には取り出せないよう、ガムテープで何重にも封印してある。今までの勉強量が圧倒的に足りなかったため、城山からは面談で「一日あたり、あと三~四時間は増やすように」との指示があったのだ。
(来年もここから通いたいから……第一志望、合格するぞ!)
今までなら、誘惑に負けて逃げていたかもしれない。だが、今の弥宵には確固たる目標がある。一人暮らしになろうものなら、羊吉たちと過ごせなくなってしまうからだ。そしてもう一つ、第一志望に合格したら、羊吉に告白すると決めていた。だから、何が何でも受からなければならないのだ。
気合いを入れて取り組むこと、約二時間。外も静かで集中していると、廊下をバタバタと走る音が聞こえて、弥宵は我に返った。直後、部屋のドアがノックされる。
「や、弥宵さん!」
「天馬、どうしたの?」
顔を青ざめさせた天馬が、駆け込んでくる。
「た、大変です! 羊吉さんが倒れました!」
「……えっ」
それはまさに、青天の霹靂。今までで一番、想定していなかった事態だった。




